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* 晩霞終息 *

[ 4 ]




 ベリシウス伯爵の送別会は、今やその後援者となった公妃の影響の下、南区の「戦争の間」で盛大に執り行われた。それは国軍武人達への慰安も兼ねており、宮廷に出入りするほとんどの人々の顔が揃っている。
 いないのは――、若公爵くらいのものだ。彼は宴会よりも瞑想や読書を好む質らしかった。
 大広間の中心には優雅な座椅子が据えられ、そこに今夜の女主人、といってもまだ十九の少女が、取り巻きを従え腰掛けている。
 重たい宝石や、手の込んだ髪型や入念な化粧に彼女の十代は見事に押しつぶされ、シバリスには彼女の婚礼がもはや二十年も前のようだ。絶世の美女というものではないが、素直でかわいらしい魅力を持っていたのだが。
「挨拶した時、何か言われましたか?」
 隣に付き従うタナジオが問う。
「いや、いつものことだが公妃自らどうこうということはないな。……周りからじわじわと、だ」
 というわけでシバリスは、公妃の臨席している宴ではいつも壁際に追いやられる羽目になる。いくら理不尽な言いがかりだと思っても、それで力関係を変えることはできない。
「きっと役立たずの中年だから嫌になったんだな」
 シバリスの独り言に、タナジオは形のよい顎を心持ち傾けた。
「どうでしょうね」
「そうでなければ出身のせいか。もちろん、いくつかの要因が重なって嫌われてるんだろうが」
 タナジオの返事は少し分かりにくかった。
「あの方はそんなに複雑なことを考えるような女性なのでしょうかね」
 遠くから優雅に微笑む彼女を見ていると、ふいに側にやってきた友人のベルナルド子爵夫人に、扇で肩を小突かれた。
「一体あなたは何をしているの。最近随分よくない噂がたっておいでよ」
「本当に悪さをしているわけじゃない」
「それでも宮廷の受けが悪くなるのは実際問題よ。
 馬鹿な娘達を叱ったんですって? 下手な手を打ったものね。
 ……タナジオ、あなたの監督が足りないのじゃなくて」
「恐れ入ります」
 青年はまぶしげに苦笑をしながら、美しい夫人に頭を下げた。
「ラエティア。タナジオを困らせるな」
 友人としてのつきあいとなった現在でも、シバリスは彼女を名前で呼ぶ権利を手放していなかった。多くの愛人を持つ夫人が、彼だけに許している特権だ。
「困っているのは私の方よ。公妃は私に気まずいことでも平気でお尋ねになるんですもの。この間など、あなたに少女嗜好の気があるのかと聞かれたわ」
「で?」
「背中はともかく、足の裏のほくろまでは知りませんわ、と言ってやったわ」
「……本当に君は俺を助けてくれる気があるのか」
 すると夫人は肩をすくめ、真面目な口調で言った。
「まだ二十歳にもならないくせに、あんなことを言うなんて生意気よ。もう少し魅力的な公妃になるのかと期待していたのに、残念だわ」
 シバリスは腕を組み、ため息をもらす。つまりそうだ。彼にもそれが残念だ。初対面の公妃に優しく、賢い女性の器を見ていただけに尚更だった。
「婚姻前の宴ではあなたが公妃と踊ったのだったわね、タナジオ」
「ええ。団長のご命令でしたから」
「あなたもひどく若かったし、二人ともまるでお人形さんみたいだったわねえ。あれが二年前の出来事だなんて、夢のようだわ」
 公国の、宮廷の、その制度の、宗教の仕組みは、長らく続いてきた分だけ非常に権力が強い。その硬質に息が詰まる人間は、何らかの入れ替えがある度に新しさへ期待を膨らますが、昨日若い公爵がよってたかってやりこめられてしまったように、結局は果たされないのが常なのだった。
 公国はその歴史の中に、失敗した革命家の死を多く抱えている。だからシバリスも、とても奇妙なことだが、自分の望みが果たされないのをどこかで諒解してもいるのだった。



 さて、シバリスがこの気の進まない宴へ顔を出したのは、ただひとつの目的のためだった。舞踏が始まり、人の流れが激しくなった頃を見計らって、シバリスは伯爵を中庭へと誘う。
 庭は相変わらずの臭気だった。けれども最近ではもう慣れて、この甘い香りも気にならない。
 シベリウス伯爵はしたたかに酔い、鼻っ柱を赤く染めていた。それでも彼の言ったことは分かったと見えた。眠たげな目を細め、興味を示す。
「……ほほう? 貴君があの娘の代わりに責任を取られると仰るのか? どうやって?」
 黒い木立が風に鳴った。場違いに明るい音楽がシバリスの灰色の額を遊んでゆく。
「どのようにでも、貴公のお好きなように。リナを諦める代わりに、何でもお気の済むように。
 ……その代わり、この件は今後一切不問に付して頂きます」
 伯爵は暗闇の中で白い歯を見せた。
「ふうん。随分あの娘がお気に召したと見える……」
「伯爵。彼女には長い未来があり、それを今から汚すことはなりません。……特に、もうさほどに先のない人間がそれをすることは、……あまりに不毛です」
 彼は考え事をしていて聞いていなかった。酒のせいで気が回らなくなっているらしい。
「娘の代わりに誰ぞ下さいますかな」
眉が歪んだ。
「……それはできません。それでは、元も子もない」
「はん。左様ですか。お偉い方だ」
 伯爵は皮肉を込めて首を振った。
 それから、つと指輪のはまった人差し指を上げ、シバリスの腰の剣を、指した。
「それじゃ……、貴君の命を、頂きましょう」
 しん、となった。風が止んだのだ。いつの間にか舞踏も終わっていた。窓に映る人の影が右往左往し始める。けれど足音まで響いてこなかった。
 シバリスは剣を抜いた。そして黙って、柄の方を伯爵へ差しだす。
「……よろしい」
 そう言って、受け取る伯爵の顔も真剣そのものだった。酔いが一気にどこかへ行ってしまったかのようだ。
 伯爵の左手がシバリスの右肩をつかんだ。そして銀にひらめく枯渇した剣先が、胸へ定められる。
 そこには先端だけがあり、死の恐怖など沸いてこなかった。なぜだろうと考えるより先に、
 ―――― 初めからこうすればよかった。
シバリスは思った。
 こういう死に方を望んでいた。来る明日のために終わった今日が西に燃え尽きるように、晩霞の使命に従って死ぬのが一番いい。こんな面倒事になる前に、さっさとこうしていればよかった。これがそう多分、最良の選択であるに違いないのだ。
 ゆっくりと、ゆっくりと刃先が埋まって行った。それが気のせいだったのか、本当に長い間だったのか判然としなかった。上着を、木綿の下着を突き破り、やがて腹へ生暖かい血が滴り始める。
 シバリスはそれでも走る痛みに眉を一度しかめ、それから観念して、目を閉じようとした。
―――― その時。



「きゃあああッ!!」
 激しい悲鳴が、夢のような静寂を破った。
はっとして、同時に二人が振り向く。
「いやあああッ! 誰かいらして!!」
 狂乱した態で、娘が一人、扇を後ろへ走り込んでいった。
 伯爵は狼狽してすっと剣を抜く。その先からは血潮が音もなく、緑の上へ落ちていた。
 狭い出口に人が殺到した。
「気でも狂ったのか!」
 駆け寄ってきた数名の貴族が引きつった顔で、そこに立ちつくす伯爵から剣を奪う。彼は夢現、といった感じだった。一体どこまでが本当なのか分からなくなっているのだろう。
「団長殿!」
 タナジオが飛び出してきた。のろのろと手をやっているシバリスの胸に真っ白なハンカチを有無も言わさず押し充てると、そのまま手当の出来る場所まで連れていこうとする。
「大丈夫だ。……大したことはない」
「馬鹿を言わないで下さい!」
 人掛けをかき分けられずに困っていると、場外で警備についていたラクスが騎士達を連れて現れ、乱暴に人々を排除した。
 その小さな出口は、宴の賑やかなテーブルをひっくり返したような騒ぎになる。今や無人となった広間にぽつねんと、公妃は腰掛けていた。娘達はこぞって騒ぎに飛び込んでいってしまったのだ。
 遠く半ば呆然と事態を見守る彼女に、まっすぐに近づいていくと、ベルナルド子爵夫人はこう尋ねた。
「ご満足頂けまして?」
 公妃は傷ついた顔をした。けれど夫人は頬をひくつかせただけで同情の徴も見せず、肩を翻すと立ち去った。
 ぱさ、と音を立てて、公妃の扇が床へ落ちる。拾い上げる者は誰もなかった。







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