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* 晩霞終息 *

[ 5 ]


第二章 落下



 伯爵は宮廷からいなくなった。そしてもはや誰も彼のことを思い出さなかった。戦場で苦労しているだろうと時々慮るのは、皮肉なことに傷の痛むシバリスだけだった。
 その彼の傷はよく研がれた刃と伯爵の力不足のために、出血の割には治りが速かった。
「伯爵が酔っていたからこれで済んだんですよ」
タナジオはそう言って、暗に彼の勝手を責めるような目をした。
 とは言え、彼はやはり五日間ほど完全に寝台に縛られる羽目になったのだが。
 リナに関する騒動は止んだ。公妃がもう聞きたくないと言ったのだ。それで全ては終わりだった。
 リナ自身はどこからか事の顛末を聞いたらしく、ただ黙って神妙に彼の世話をしていた。そして彼が寝ているときに、側で静かに泣いていた。シバリスは、それを知らなかった。
 公爵から見舞いの手紙が届いたのには驚いた。さっさと元気になって復帰するように、との内容で、シバリスはその四角四面な文章に目を当てながら、少しばかり彼に気に入られているのだろうかと、思ったりした。




「頑健なお体ですな」
 と、医師が驚嘆した明くる日、ようやくシバリスは任務に復帰した。その日は年に一度の大規模な狩りの行事があって、騎士団長として、とても欠席するわけにはいかなかったのだ。
 時々ちくちくと傷口が疼くのを堪えつつ、馬に揺られていると、
「年甲斐もない真似をするからです」
と、タナジオは普段になく冷たい。ラクスは青い顔をして、隣で聞こえない振りをしていた。
 狩り場は冴え冴えと澄み渡った空の下で、ため息がもれるほど気持ちが良かった。怪我人の彼はずっと本営から動けないが、それでも夏を感じさせる乾いた風が喉に美味だ。
 例年にない収穫を上げて、昼過ぎに狩りは終わった。公爵が帰ろうと号令を発し、散らばって自由に狩りを楽しんでいた貴族達が皆戻ってくる。ところがその中に、ただ一人公妃の姿がないことに気がついて、騒ぎになった。
 彼女は馬にまたがって狩りに参加していたのだ。途中までは確かにある一群と一緒に動いていたのだが、どこかではぐれたかしたらしかった。
 広い狩り場を捜索するために、戻ってきたばかりの騎士達が再び駆け出していく。シバリスもさすがにじっとしていられなくなり、騎乗した。
 公室づきのこの狩り場に取り立てて危険と思われるような場所はないが、細い小川が流れている場所はある。人が流されるような深みはないと思うが、シバリスは念のためにそこへ向かった。
 小川に人の気配はなかった。けれど、ふと馬の嘶きを耳にして、シバリスは馬を左へ返す。
 少し影になった木立の一本に、公妃の馬がつながれていた。けれど、飼い主の姿はどこにも見あたらない。馬は呑気に首を振っている。
 シバリスは馬を下りて、同じ場所へつないだ。公妃は小川を渡ったのだろう。彼女のわがままな馬が嫌がって渡ろうとしないので、ここで下りて行ったのだ。
 シバリスは石をつたって川を渡り、それから改めて周囲を見渡した。緩やかに蒼草たなびく平原が広がっている。なるほどこちらへ来たくなるわけだ。そうしたらば次にどうしたくなるか。
 シバリスは首を巡らせ、木を探した。すると、まるで仕組んだように、一つの立派な広葉樹に目が止まった。その一の枝の辺りに、ひらひらとなにやら舞っている。
 安堵して、シバリスは木の側へと歩いた。近づくと確かに見覚えのある柄だ。そしてさらに少し上の枝から、白い二本の足があられもなくぶら下がっているのが見えた。
「公妃殿下?」
 木陰に入って、彼は上に向かって呼びかけた。がさがさっと音がして、木の葉が数枚落ちたかと思うと、ほとんど頂上あたりの幹から、公妃の小さな顔がのぞいた。微笑みかける顔が、急に凍り付く。
「……シバリス……!」
 こんな場面を彼に見つかったことに、彼女は屈辱を感じているようだった。何か、この巡り合わせに対して運命に文句を言いたい、とでもいった感じだ。
 シバリスもほっとはしたものの、今までの二人の関係を考えればその反応に無理はないと思う。誰でもいいから別の人間に世話を頼もうと、呼び子を唇に当てたときだった。
「――ま、待ちなさい!」
と、頭上で公妃が怒鳴った。
 その声に驚いてシバリスは止めた。怪訝な眉で、彼女を見上げる。
「公妃殿下?」
「人を呼ぶことは許しません!」
「は? しかし……」
 シバリスは思わず目を丸くしたが、気を取り直して尋ねた。
「……あの、なぜでしょうか」
「……ドレスが破れたの」
「……はい?」
と、急に、乱れた声になる。
「ド、ドレスが枝に引っかかって破れたと言ったのです! ……その辺りにあるでしょう!」
 そう言われて、風にはためく布の理由が分かった。布の大きさからすると、随分派手に破いたらしい。これでは下りてこられなくなったのも当然だ。
「ははー…………」
 シバリスは馬鹿な感心をする。それから、じわじわとおかしくなってきた。
「それで公妃、一体いつからそこで我慢なさっていたんですか」と聞きたかったが、さすがに控える。
「笑ってるのね」
「とんでもございません」
「無礼者!」
 ふくれたような息が降ってきて、とうとうシバリスは破顔してしまった。上の公妃はますますむっとして、
「シバリ……!」
と怒鳴ろうと身を乗り出した。
 そこに、白い大きな外套が投げ込まれ、思わず出た手がそれをつかむ。
「…………」
「お使い下さい。少々埃っぽいかと存じますが」
 足下で、彼はにこりと笑った。彼は自分の父親よりも年上だが、笑うと少年のように、やんちゃな子どものようになるのだった。
 公妃は黙って、布を腰に巻き付けた。それは彼がいつも肩から自在になびかせている騎士団長のマントだった。広く、柔らかく、いい匂いがして、彼女は素足をすっかり隠すことが出来た。
 シバリスは下りてきた公妃を抱えて歩く。彼女は急に力を無くしたようで、大人しく彼の胸にいた。やはり傷が痛んだが、ここに至っては弱音を吐くわけにいかない。我慢して川を渡った。
 これがある意味では正しい姿だな、などと思っていると、ふいにぼそりと、公妃が言う。
「シバリス」
「はい」
「……私、少しは……、ふくよかになった?」
 シバリスは眉を八の字にした。彼女の気持ちがよく分からず、苦笑の一歩手前の唇で、
「……どうなさったのです?」
と聞いた。
 公妃はそれに答えなかった。ただ、別の質問をする。
「あの子は十七だっていうけれど、彼女の方が女らしいの?」
ちくり、と胸の傷が身体を揺すった。
「……殿下?」
「どうして私と踊らなかったの」
 急に、幼い額をシバリスの胸板へ潜るように埋める。次に出た声はくぐもって震えていた。
「あなたが悪いのよ」
「…………」
 二人はそれ以後、本営へ戻るまで、互いに一度も口をきかなかった。公妃は無事女官達の手の中へ戻り、シバリスは自分の外套を彼女らから返してもらった。
 公爵の冷たい相貌に突き当たる。何か後ろめたいことでもあるかのようにシバリスの瞳は動揺した。それでも慣例が頭を下げさせ、その場はそれで凌いだ。公爵は相変わらず無感動だ。
 馬の前でタナジオが待っていた。青春にふさわしい美しい怜悧な若者。二年前の舞踏会で、本来シバリスが果たすべき役目を彼に言われて引き受けたのはこの男だった。
 ……その方がいいと思ったのだ。自分の年齢を公妃に遠慮したのであって、それ以上に深い意味はなかった。けれどその後自分は、確かにラエティアと踊った。
 しかしまさか、そんな些細なことで、彼女を苦しめていただなんて誰が―――
「わかりましたか」
 タナジオが呟いた。シバリスは顔を上げて彼を見る。
 長い間は見ていられなかった。すぐに顎を落とし、彼の前を逃げるように足早に通り過ぎる。タナジオは彼を責めたりはしなかった。けれど後ろに従いながら囁くように、一言だけ口にした。
「あなたはちょっと、ご自身を少なく見積もっておいですよ」
 まだ何かの手違いではないかという気がする。騒ぐ重い胸を紛らわすために、無意識のうちに指が眉の傷へと動いた。




*





 狩りから戻って自室へ帰ると、ジリオがリナとテーブルを囲んでいた。唖然とするシバリスに向かって、相変わらずあっさりと挨拶をする。
「あ、どうもお邪魔してます」
「……お前、一体どうしたんだ!」
 思わずこんな台詞が出た。ジリオは長い髪の毛を揺らして頭を掻く。
「……どうしたって。いつもの通り、仕事が終わったから帰ってきたんじゃないですか」
 それから、深い水色の瞳を静かに彼に向けた。
「帰ってこないと思ってたわけじゃないでしょう?」
 だらしなく言われて、シバリスは初めてそこに気がついた。そうだ別に……、戻ってこないと決まっていたわけではない。
「ああ……。そうか」
「そうですよ。大丈夫ですか?」
「…………」
 今日は思いもかけない出来事が多すぎる。シバリスは額に手をやりながら、ようやく剣を腰から下ろした。
「で、なんですか、その髪型」
 ジリオはずけずけと言う。
「信じられないくらい似合わないですね。自分で切ったんですって? 馬鹿だなあ」
「分かっている。念を押すな」
 リナがうさぎの跳ねるような足音で出す夕食に、シバリスは苦々しく手を伸ばす。
「……それでどうだったんだ」
「いやもう、さすがに盛大なもんです。祭りにかける費用からして、こっちの比じゃありませんね」
 彼はもう食事を終えていた。空の食器の前に肘をつき、グラスの周りに出来た水の環を、細い指でいじりながら説明する。
「肉断ちの終わり方がまたそーぜつでしてね。国庫から酒樽が三百以上運び出されてきて、それを片端から空けるんですよ。もう町中葡萄酒くさいったら、そこにいるだけで酔いそうなもんでした」
 ジリオの話は核心をかすらなかった。どうしてなのか、彼が避ける素振りを見せたことが、かえってシバリスをそこへ踏み込ませる。
「いや、それもだが。……結局、アルアニス卿には会ったのか?」
 リナは気を利かせて、厨房の方へ引っ込んでいた。少し困ったような微笑を見せてジリオは、一度足を組み替える。そして女のような細い顎を、斜めにのけ反らせると、ようやく口を開いた。
「ええ」
「……それで?」
 真剣な雰囲気の問いに、ジリオはただ両手を開いてみせる。
「特に反応は。
 ……強いて言うなら、迷惑そうでしたよ」
「……なに?」
「……大勢の人に囲まれていたけど、彼はとても不幸せな人だ。僕の名前を聞いた時点で、これ以上の面倒事は、もうたくさんだって感じでした。……だから僕も、それより先は何も」
 匙が、皿を静かに叩いた。シバリスは手を休めたまま、二十年か、と考えていた。
 自らとて変わったのだ。こんなにも長い時間が流れてしまったのだから、彼が変わったとしても不思議はない。
 特に彼は様々な政変を経験しており、現在はそれに、いわば破れる形で引退している。以前のようにゆったりと微笑んでいることなど、もう出来ないのかもしれない。
 昨年、アルアニス卿はトリエントーレの東部にささやかな領地を与えられその直接統治を命ぜられた。諸々の肩書きと共に宮廷から「厄介払い」されたのだとの噂が公国にも流れてきたものだ。
 トリエントーレも今や三十数年の歴史を数えるに至り、内部での権勢争いも派閥的なものになっている。現在宮廷内で政務を牛耳っているのは軍閥のシルバード家で、卿はその影響力と相反する無抵抗のせいで真っ先に解任されてしまったのだ。
 加えて、私生活での事件も耳にする。彼の二度目の妻は、イステル第三公女ゼノヴィア(若公爵の姉)であるが、彼女は遊び好きで、失脚した夫とは離れて住み、未だ宮廷に留まっている始末だ。もともとが打たれ強い育ちではないので、かなり奔放に堕しているとの噂だった。
 二人の間に子どもはいない。しかし、卿にしてみればその方がずっと救いがあるのかもしれない。元来彼は学者肌で静寂を好んでいる。
 すると冷淡な反応を示した彼の気持ちが、シバリスには納得できるような気がしてきた。少なくとも、責めるわけにはいかないとは思える。
「そうか……。まあ……、やむをえんな」
「はあ、そうですね」
 さばさばしたジリオの声を聞きながら、シバリスは自分があまりに落ち着いているのを感じ、我ながら意外な気がした。
話も片づいてしまえばこんなものか……。
「……話は変わりますが、随分色々と無茶をなさったそうじゃありませんか」
 にやにやっ、といつもの皮肉がジリオの唇に蘇った。動かし始めたばかりの匙が、また口元で止まる。耳たぶが赤くなった。
「意外とお若いんですねえ。見直しましたよ」
「……そんなに大それた事はやっていない」
「よくもまあ、そんな言い草ができるものだ。あなたは遠慮しいだから一つ言っておきますが、僕はリナのなんでもありませんから、気に入ったのならばあれはあなたの姫ですよ」
「冗談じゃない。あんな…………」
「子どもを」と言いかけてシバリスは口を噤む。脳裏にか細い、弱い、孤独な公妃の姿が、ふいに浮かんできたのだった。
 厨房との境のところに、リナは静かに立っていた。シバリスには彼女が、十年、二十年先にも、同じようにそのままの姿勢で、澄んだ眼差しでそこに立っているような気がした。
 それぐらいの幻はまだ見る。けれど自分がその側に、一緒に立っているなどとは、やはり、どうしても考えられなかった。







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