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* 晩霞終息 *

[ 6 ]




 ――― その日、迫り来る夏の灼熱に力尽きたように、あの桃の実がとうとう芝の上に落ちていた。気分の悪い匂いも、もはや尽きた。シバリスにはそれが再び戻ってきた平安な日々の象徴のような気がした。
 少しばかりの波乱はあったが、今はもうそんなことは忘れていい。胸の傷もとっくにふさがり、彼は以前のように几帳面に任務をこなしていた。
 公妃側からの攻撃も、ぱたりと止み、まるで憑き物が落ちたように公妃は大人しくなった。宮廷の娘達は退屈かもしれないが、シバリス達にとってはほっと息つく朗報だ。
 その上、シバリスを悩ませる大きな要因だったジリオが突然「旅はやめる」と言い出して彼を驚かせ、同時に随分密やかに喜ばせもした。
「どうしたんだ」
と、シバリスが返答を求めない調子で尋ねると、
「飽きたんですよ」
とひどく簡潔な調子だった。
 今でもシバリスは、朝彼が長琴を抱えて部屋を出てゆくのを見る度、そのまま一月も戻ってこないような気がするが、夜任務を終えて帰ってくると、必ずジリオは食卓についていて、彼を出迎えるのだった。隣にはリナがいて、大方にこにこと幸せそうにしている。
 地面に腐った数個の実を眺めながら、シバリスは、それの対極にある食卓の光景が出来るだけ長く、平穏に続いていけばいい、と考えていた。春の陽気がそんな明るい気持ちにさせたのかも知れない。
 頬に優しい微笑の影を刻んで、シバリスは進んだ。公爵から突然呼び出しを受けたのである。「北部反乱についての意見を聞きたい」とのことだった。
「個別に呼び出すとは異例ですね」
「閣下は石頭の長老よりも、団長殿の方が気に入ったんだろうよ」
 ラクスは嬉しそうだ。
「君は楽天的だな。……もっともその点については、同感だが」



 執務室の中には彼等以外に誰もいなかった。普段廷臣がずらり並んでいる広間だけに、がらんとして見慣れない感じがする。
 ややあって、若公爵が二人の供を連れて姿を見せた。いつものように落ち着き払った風情で、壇上の王座に腰を下ろす。
 彼が連れてきた他の二人は、ともに官僚でまだ若く、夜会ではともかく執務ではあまり顔を見ない男達だ。それが迷いもなく公爵の両脇に立つので、シバリスはいささか妙に思ったが、とにかく頭を下げ、公爵の言葉を待つ。
 ところが。
「騎士団長シバリス・クレイ。剣を下ろし、そこへ控えよ」
 突然、彼を罪人のように呼んだのは、若い、身分もないその男の方だった。本人はもちろん、後ろの二人も予期していなかった非礼に驚く。一瞬声が出なかった。
「……貴様、無礼であろうが! たかが文官の一人が、騎士団長殿を呼び捨てにするとは」
 一気に頬を朱に染めて、ラクスが文句をつける。しかし、壇上に立つその男は、まだ丸みすら残る顎を冷淡に歪ませ、
「まことに残念ながら、クレイ殿は本日これより、騎士団長ではありませんので」
と、言い捨てた。
「……なんと……?」
 ラクスは間の抜けた声を出した。彼だけでなく、タナジオにも、またシバリス本人にも一体彼が何を言っているのか全く理解できなかった。いっそ、荒唐無稽とも言える台詞だ。
 太い彼の唇から、思わず笑いがもれた。
「は、ははは、一体何の冗談でありますか。この方が騎士団長でないと言うなら教えていただきたい、他に誰が…………」
段々と声に力がなくなり、やがて、途切れてしまう。
「……まさか…………」
 誰もがまさかと思ったその時、男の声が先を言った。
「タナジオ・グリフィスに、彼に代わって騎士団を統率する任、ここに言い渡す」
「何を……!」
 そう抗議の声を上げたのは他ならぬタナジオだった。青ざめてひきつる同僚の視線に狼狽しながら、続けて彼の驚愕を表現しようとする。
「お待ち下さい、これは一体…………!」
 前に出ようとする彼の肩を、シバリスの手が止めた。信じられないようなタナジオの瞳を、少し無理はあったがとにかく、受け止めた。
 シバリスはこのような形で解任される侮辱に心が動かなかったわけではない。けれど公爵が、今もゆったりと椅子に座ってまるで芝居でも見るように構えている若い公爵が望んでいることもまた、理解してしまったのだった。
 自分がいなくなることでこの宮廷が刷新されるのであれば、それで良い。少しでもそれを望んでいた以上、そのつけが自分に回ってきても、引き受けるべきだ。彼は揺れる波の中で、それだけのことを了することができた。
「承知いたしました」
 呆然とする二人の部下の前で、シバリスは静かに腰から剣を外す。騎士団に入隊する時に授かるもので、公国騎士の忠誠の象徴だ。
 揺れる床を踏みしめて、シバリスは君主の下へ歩み寄ると黙って、両手に捧げ持った剣を彼に返した。公爵は悠然と手を伸ばし、柔らかい掌でそれを受け取った。何の言葉もなく、頷きもしない。
 シバリスは振り向いて、青白いタナジオを見つめ、あまつさえ少し笑って見せた。これでいいのだ、と、彼は頷くように微笑んだ。タナジオはむしろ唖然としていたが。
 そのまま、そこから脱出しようとする。限界が来て、自分が崩れる前に。
「待て。退出は許さぬ」
 男が厳しく言って、シバリスの動きを止めた。さすがに眉を寄せて、彼に尋ねる。
「なぜだ」
「貴君には罪人として処罰が待っておる」
「――!?」
とうとうラクスが爆発した。
「貴様、団長殿をつかまえて罪人だと! どういうつもりだ!!」
 男は直接答えず、今までじっと沈黙を守っていたもう一人の官吏に目配せした。その男は、書状を取り出すと投げ捨てるようにそれを開いて、間髪入れず読み上げた。
「控えよ! 勅令を申し渡す。
 前公国騎士団長シバリス・クレイは、栄えある要職にありながら北部謀反の賊徒と長らく連絡を取り、公室治世を転覆せしめんと画策した罪により、極刑をもってこれを罰することを命ず。……公爵、アリエ・イステリアスX世」
 床が、足下からくにゃりと溶けだしたような気がした。太陽に寝入ったように意識の中が赤くなり、シバリスは自分が今どこにいるのか一瞬分からなくなった。
 どうして、……こんなことになっているんだ。
どこでどう間違えたら、こんな……、こんなことになるのだ。
「……お待ちを……、お待ち下さい……」
 喘ぐようにもれた声を圧して、男が畳みかける。
「貴様は、北部トレビの出身であるな。騎士団長として宮廷に資する立場でありながら、反逆の徒と密かに通じ、皇位をうばわんとしたな!」
汗を振り切るように首を振った。
「そんな、馬鹿な!」
「証拠があるぞ、言い逃れは出来ぬ!」
 計ったような拍子で後ろの戸が開いた。どう、という夏の風と共に、国軍兵士達の姿が、そこを塞ぐ。折り重なるように、二つの身体がその柵から前へ突き倒された。
 シバリスは、そこに朝別れてきたばかりのジリオとリナを、―――何十年の教訓をものともせず、懲りずに愛情を注ぎ始めていた二人の姿を見て、今度こそ言を失った。
 二人は後ろ手にきつく縛られ、体のあちこちには激しい暴力を示す血だまりが浮かんでいた。うつぶせに転がされたまま、もう起きあがる力もないようだ。三人の騎士の瞳に戦慄が走る。
「この家人らが、連絡役として内外で活動していた旨を認めている。覚悟を決め、罪を認めるがよろしいぞ」
 ラクスもタナジオも、驚きのあまりに声が出なかった。まるで救いを求めるようにシバリスの顔を貪るが、そこにも死人のような青白が張り付いているだけだ。
 その時。
「―― 分かるな、シバリス」
ふいに静かな、透明な美しい声が、公爵の唇からもれた。引き込まれるように全員の視線が、祭壇に集まるように公爵へ辿り着いた。
 この狂おしい場面の中にあって、帝王は唯、公爵だった。そのことが皆に自ずと知れた。無情な、冷徹な、神のような権力で、この信じ難い謀略を創り出したのは、彼だ。
 白い歯が、美しい赤い唇から漏れて、シバリスは初めて公爵が笑ったのを見た。シバリスは前からずっと、公爵の微笑を見てみたいと思っていたことを、どこか遠いところで思い出していた。
「公国は変わらなければならぬ」
 少し顎を上げ、公爵は続ける。
「そのためには老人共を黙らせるために、力を持った贄が要るのだ。お前には、その資質がある」
 水を打ったような沈黙の中、シバリスは苦しげに、目を細めた。こんな状況になった今でも、彼の言葉が分かってしまう。そして正しい旋律で、脳に届いてしまう。
 公爵は彼の望みを知っていた。だからこそ彼を、潜在的には同志であるはずのシバリスを選んだのだ。視線で首を絞めるように、追いつめるように優しい声が言った。
「お前には分かるな、シバリス」
 シバリスはもう一度公爵を見た。友情を求めるような目をしてうら若き公爵は、自分を、破滅に追い込もうとしている。それが、公国の再生に不可欠なのだと、そう言っている。今までかけられた親切な言葉も全て、この日のための優しさだったのだ。
 小娘の未来のために命を捨てようとしたお前だ。宮廷の現状を苦々しく思っているお前だ。そして何よりも、生き残ってしまったことに苦しんでいるお前だ。分かるはずだ。だからお前を選んだのだから。
「……馬鹿……、やめろ……」
 床でジリオが呻いた。彼にはシバリスが何を考えているか知れたのだ。
 けれどもシバリスは唇を噛んだ。そして今度もまた、分かった。と心の中で呟いて頭を垂れ、眉の傷を非常にゆっくりと、下から上へと一回なぜた。
 そして彼は、公爵に降参した。
ふっと人が意識を失うように、雰囲気が緩んだ。王座の上で公爵は初めて息を吐く。彼の目線に促されて、二人の国軍兵士がシバリスの腕を両側からしっかりと固めた。
 公爵は頷くと、微かに震える声でそれから、
「タナジオ、前へ」
と呼んだ。
「…………はっ」
 シバリスはその時になって、はっとしてラクスを顧みた。この成り行きに逆上して乱暴をし、彼までもが巻き添えを食うのではないかという可能性が頭をよぎったのだ。
 だが、彼は口を半分開けたまま、動き出したタナジオの姿を目で追っているだけだった。シバリスは安心して、まだぎごちない動作で公爵の前に出たもう一人の部下へ視線を戻した。
 利発で瑞々しい、息子のようなタナジオ。お前の初仕事は多分、自分を殺すことだ。けれど躊躇はいらない。これが必要な手続きならば、黙ってやってのけることが、お前には出来るはずだ。
 公爵は、シバリスが返した剣を、礼儀に乗っ取った形でタナジオへ継承しようとしていた。タナジオはさすがに蒼白だったが、もう足取りはしっかりしていた。ことの成り行きが飲み込めていたのだ。彼は真に、優秀な男だ。
「……タナジオ。騎士の誓いを立てて忠誠の証とせよ」
 言われて従順に彼は跪いた。剣を挟んで、公爵と向かい合った彼の横顔は平静だった。
 ―― しかし、次の瞬間だった。低い、すすり泣くような声がその唇から漏れたのは。


「こんなことは許されない」


 それは変調だった。公爵の眉がぴくっと歪む。タナジオは顔を上げ、よく似た若い瞳で彼等は見合った。
 一つの瞳は否と言い、一つの瞳は応と言う。ただ双方に宿る光は極めて近く、頑なで真理への渇望に満ちていた。
 火花の散る刹那、しなやかな騎士の手が眼前の剣を抜き、肩から体当たりをするように、相手の細い胸板を背もたれまで、一気に貫いた。
 めきめき、と肋骨の砕ける手応えと一緒に、
ああっ――――!
息を飲むようにして、誰が叫んだのか分からない。瞬くほどの間だった。
 そしてその声を最後に、世界は一歩も動かなくなった。




 耳元に生暖かい血が流れるので、タナジオは身体を起こす。すがりつくように公爵の体重が、彼の肩を超えて、ずるずるっと支えを失い、階段をぼろ屑のようにのたうちながら落ちた。
「公爵様…………!」
 のけ反った公爵の唇から鮮血が喉元まで染めていた。剣が刺さったままの身体はまだ痙攣していたが、誰も彼を助けるために動くことが出来なかった。鮮血が、奇妙な速度で床を滑り始める。
 何人も、公爵の部下二人でさえ、こんな結末を予想していなかった。公爵が死ぬ。それは公国において、全ての終わりを意味している。その深い喪失から、誰も動き出すことが出来なかった。
「――――ッあ」
 最初に声を出したのは、タナジオだった。爪の奥まで朱に染まった自分の掌をわななかせ、階段で、むせび泣き始めたのだ。
「あ……、あっ、あああ……。うぁあああああ!」
 最後は悲鳴になった。ラクスが飛び込んで背中から羽交い締めにしなければ、彼は自分の短剣を抜いて喉を突いていただろう。
 ラクスはもがく同僚の身体を必死で押さえ込みながら、きっと広間を振り返ると、叫んだ。
「……この男に罪はない! そうだろう! こんなことが許されていいわけがなかった! 例え、……相手が公爵だとしても、いやだからこそ、こんな、こんなやり方は統治者のすべきことではない……!」
 誰も答えることが出来なかった。けれど誰もが反論しなかった。
 ただ一人、シバリスだけが、いいや、それは違うと胸中で激しく否定していた。
 自分が消えるべきだったのだ。当然そうなる順番が少し早まっただけのことだったのだ。自分は老いた死に損ない、彼こそが明日の人間だった。
それなのに、なぜ――――!
喉の奥で声が潰れた。
なぜこんなことに……!
 シバリスは、床で目を剥く公爵の顔を見た。その若さを自分は愛していたのだ。涙が流れ出す。
 どうしてだ。どうしていつも、自分よりもか弱く若い者を、こんな役立たずの自分が殺してしまう羽目になるんだ。たえず殺して欲しいと願っているのは自分の方なのに……!
 ――――また自分は、生き残ってしまった。そして足下にあるのは若者の死体。多くの人間に望まれている重要な人。
……どうして。なぜなんだ……!!
 いきなりあの腐臭が蘇った。それは今や血なまぐさい屍の香だった。前後もなく吐き出しそうになって、膝から床に突っ伏す。ぐるぐる回る耳にラクスの声が聞こえた。
「――― 公妃をお呼びしろ! 誰か公妃をお呼びしてくれ!」








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