< novels <<


* 晩霞終息 *

[ 7 ]




 男系の末子相続のみを認めるイステル公国は、この日をもって事実上滅亡した。開闢以来二五三年の歴史を持つこの国家は、国内政変のために自壊したと以後の歴史書には書かれる。
 この驚くべき報に接し、真っ先に動いたのは隣国トリエントーレであった。宰相を筆頭とする評議会は、第二王女のもとに婿入りしトリエントーレで暮らしていた、元公国の第三公子リシー公をイステル公国の新しい統治者とすることを決定。
 政局が混乱する前に速やかに公国へ軍隊をさし向け、いち早く首都へ入った。その間十二日という迅速さであり、このためにともかくもイステルはその国家としての体裁を失わずに済んだのである。
 公国民が、若い公爵の死を正式に知ったのは、トリエントーレ軍の到着するわずか三日前のことであった。軍隊は黒い布に満ちた街々を行進した。
 北部農民の反乱は、まるで公爵が「持っていった」かのように収まった。彼等は喪服に身を包む、穏やかで良心的な公国民に戻ったのだ。
 公妃エルシリアは王国軍到着までの間、狂おしく騒ぐ宮廷内をよくとりまとめたといわれている。また、ラクスは公妃と協力し、軍方面の混乱を引き受け、隊長のいない騎士団の崩壊を防いだ。
 ――状況が状況であったので、関係者の投獄は免れようがなかった。タナジオ、シバリス、その他数名が一級独房へと連行され、昼夜も知れぬ闇の中で、する事とてなく一月あまりを過ごすことになる。
 その間、彼等は一体外界でどんな変動が起こっているのか全く知らされなかった。彼らのうち数名は時が来れば釈放されるかもしれず、また数名はもしかすると一生牢獄の中かもしれなかった。
 現世の横穴、時間の停滞した残酷な暗黒の中で、彼等は何よりも自身の揺れる心と闘わなくてはならなかった。
 しかし、シバリスは違った。彼はその中に倒れ込み、戦意もなく沈黙に溺れて、死んだふりをしていた。彼は実際、永遠にそこにいたかったのだ。




*




 ここには、地面がない。
前も、後ろも、右も左もない。ただ、闇のみだ。
 墨壺の中に溺れてしまった蟻の気分だった。もう、それに対して抗う気もない。
 発狂してしまおう。そんなことを考える。早く、一秒でも早く発狂して、この魂を世間から切り離そう。
そして、今目の前に立っているこの幻影の人とずっと暮らそう。
 いつから彼女が自分の側にいたのか、日付の感覚がないので判然としない。ふと眠りから覚めた時、彼女は自分を見下ろすようにして足下に立っていた。
「バートレット……」
と、シバリスは彼女の名前を呼んだ。彼女はにこりともしなかったが、静かに屈み込むと、彼の隣に横になった。衣擦れの音がした。
 赤い髪の毛、青い瞳。これは出会ったばかりの頃の彼女だ。手を伸ばすとそこには柔らかい頬があった。今のシバリスにとって、彼女が数年前に死んだ事実など、はやどうでもよい。
 闇の中に浮かぶ彼女の白い顔に、微笑みかける。すると、彼女も思いがけず、にこりと笑った。
 どうしてなんだろうなあ。と、シバリスは呟いたが、声が出た様子がなく、耳にも跳ね返ってこなかった。
 俺はただお前だけが必要だったのに。それだけの人生で満足で、他のものなど何も要りはしなかった。
 女も、騎士団長も、家も公爵も宮廷も、本当に、何も要らなかった。それなのに、結局、お前以外はみんな手に入ってしまった。
 真実欲しいと思ったものだけが来ない。来るなと思うものだけが来る……。
 ……限界だ。
我慢して生きてきたがもう限界だ。お前の方へ入れてくれ。
 白い、まだ柔らかさの残る手が伸びてきて、シバリスの髪の毛を優しく撫でた。子どもを労るときのように、耳の上を掌がかすった。
 涙が流れる。とめどもなく溢れてくる。これは夢を見ている。それが分かる。
 これはあの女ではない。自分の作り上げた幻想だ。彼女はこんな白く優しい手をしていなかった。微笑む唇は記憶に乏しい。
 けれどシバリスの中の弱い心はそれに勝てなかった。女の優しい抱擁に抵抗できず、彼女の胸に崩れた。
 遠い故郷の母の匂いがする。シバリスは水の中に引き込まれるように眠り込んでしまう。どれほど経った後なのか、ふと目が覚めると一人である。そんなことが数回あった。
 彼は幸せだった。その幸福は麻の煙を好む堕落貴族のものだ。けれどそれを悪しと思う力すら沸いてこなかった。
 このまま、正気を失おうが飢え死にしようが、どちらでも彼には救いで、もう二度と外の世界へ、自分が殺人者となる外界へは、出ていきたくなかった。
 だからある日、廊下に数人の足音が響いて何やら騒がしくなったことこそが、彼には苦痛だった。
 うるさい、と彼はわめいた。俺を起こすな。眠っていたい。まだずっと、どこまでもずっと彼女と共に眠っていたい……。
「……二週間以上となると正気かどうか。……ここへ一月いたらまず普通じゃいられませんぜ」
 聞き慣れた看守の声。やがて金属を揺するような鈍い音が響く。いよいよ自分を起こしにやってきたのだ。
 数日振りに光が射し込み、まず初めに扉が現れた。それから細長い白い力が死ぬほどのまぶしさで、目を刺す。
 シバリスは呻いて、背中を曲げた。二本の手が伸びてきて、自分を引きずり出そうとする。往生際の悪い子どものように、彼は身体に力を入れようとしなかった。
 現世は相変わらず痛かった。どのような柔らかき光も今の彼には針の鋭さだ。
 壁の前にへたりこむ。髪の毛の間から人々の足だけが白く見えた。
「正体抜けてら」
「無理もねえな」
「黙れお前達」
 笑う彼等を叱責する声に聞き覚えがあった。ラクスのものだ。
 大きな体が自分の前で膝を落とした。うつむくシバリスの鼻先に顔を近寄せ、囁くように
「団長殿……」
と呼びかける。
 もう団長じゃないだろう。場違いにおかしくなって、回り込むように少し顔を傾げると、シバリスは髭だらけの顎でなげやりに笑った。
「ラクス……。死刑判決か……?」
 久しぶりに声を出したせいで喉が掠れていた。
「よかった。私がお分かりですね。……死刑判決ではありません」
 彼はためらいがちに首を振った。それからしっかりと聞こえるように、
「アルアニス卿がおいでです」
と言った。
 突如として乱暴に、襟首から持ち上げられるような強制でシバリスは顔を上げされられた。誰がそうしたわけでもない。ただその名前は、彼の中の強烈な感情を刺激し、彼は一瞬自己を忘れた。
 まぶしくてしばらくは黒い棒が突っ立っているようにしか見えなかった。必死に瞬きをし、数度目に顔を上げる頃には、ゆったりした白色の長衣が見て取れた。
 細い手を身体の前で重ねたいつもの姿勢で、彼はそこに立っていた。学者らしい貧弱な体つき、ひょろりと高い身長や短い髪や……、そしてその灰色の目。
 記憶の中の若い姿が、端から溶けるように塗り替えられていく。表情にさほどの変わりはなかったが、やはり所々に深い皺が目立ち、頬はますますこけて年齢を感じさせるものだった。
 シバリスが落ち着いた頃を見計らって、彼は口をゆっくりと開く。懐かしい低い声だった。
「……今月十七日、この国の新君主はリシー公に決定いたしました。以後公国は名称を変更し、リシー公治領としてトリエントーレに組み入れられることになります。
 加えて本国評議会は、リシー公に自治を認め、さらに公治民に従来通りの言語、宗教、財産を維持していくことを許します。……そしてあなたは団長殿、新しい君主の命により釈放されます」
 にっこりと、ふいに彼が微笑む。
「……私は引退した身でしたが、この度リシー公のご命令で、この国の機能を立て直すお手伝いに参りました。
 ……お久しぶりです、シバリス団長」
 シバリスは夢でも見ているのかという気がした。自分の中に出枯らさない果てのない欲望がまだあって、それがこんな白昼夢を見せているのではないか。
 するりと記憶の錠が落ちて、諸々の青臭い日々、剣の重みや、わがままな激情や、女の肌の匂いや、めまいのするような熱に満ちた過去が、シバリスをぼうっとさせた。
 手が差しだされる。考えもなくそれに掌を合わせ、二人は握手をした。けれど、その肌の触れ合う感触から、ふいに現実が立ち戻ってきそうになってシバリスは後込みする。
「……私は参るわけにはいきません、卿」
 手を引っ込めながら、彼は斜め下を向いた。笑うのをやめて、卿は首をひねる。
「なぜでしょうか?」
「行きたくないんです。……私はもう誰も殺したくない。どうか……、ここにずっと、死ぬまでいさせて下さい。
 私はこの中で幸せでした。……さもなくば、慈悲と思っていっそ……殺して下さい」
「何を仰るんです!」
と仰天したのはラクスの太い声だ。せっかく彼を助けることができたと思ったのに。
「……私も彼に同感です、団長。どうしてそんなことを仰るのか」
 オッシアの声が耳へ届いた。その乾いた無感動な調子に、つい笑みが浮かんだ。
「……あなたにはお分かりでないかも知れません、卿。
 けれども、私のように存在価値のない、と自分で分かっている人間には、他者を苛み続けながら生きていくのが苦痛なのです。特にそれが、若い相手の時には」
 分かるまい。この男には分かるまい。全てに満ち足り、この世の豊穣を逃したことがない。それが、至極当然だと思っているんだから……。
「……甘えたことを言っていただいては困ります」
 鉈を振り下ろすような調子で、その卿が言った。
「いつだって我々の生存は他者を殺しているんです。あなたは多くの人に望まれているというのに、その望みをこの上殺すのですか。……この助命嘆願書の束をどうなさるおつもりです?」
 小脇に挟んだ冊子の中から手紙の束を引き出し、その厚さを彼に突きだす。
「名のある方から、聞いたことのない庶民のものまで……。あなたにはご友人がたくさんいらっしゃるというのに」
 呆然とするシバリスの胸に、身に覚えのある痛みが古傷のように走った。あなたはちょっと、ご自身を少なく見積もっておいですよ。
 ふと、アルアニスは表情を少し緩ませて、苦笑しつつ付け加える。
「それに、文字を書けない者がもう一人、ご丁寧に深夜私の部屋へやって来ました。まさかあなたがああ教育したとは思いませんが、彼女の切望をどうする気です」
 灰色の瞳が、彼の水色を捕らえる。
「……シバリス。公国は死にました。あなたを愛してくれないものを追慕するのはもうおやめなさい。あなたの目の前に立ち、はっきりと微笑みかけてくれる者達を何よりも、大事にせねばなりませんよ……」
 その言葉には、自らへ言い諭しているような跳ね返りの痛みがあった。口を噤んで後は、しばらく発言できない様子だ。引き延ばされた時間が、流れる。
 やがて再び彼が動き出した頃には、もう口調は普段の通りに戻っていた。神妙な顔をしているラクスを振り向いた。
「騎士団長殿を、お部屋へお連れして下さい」
「はい!」
 子犬のように駆け寄ってくる。彼の大きな胴に遮られて、低い声だけが聞こえた。
「また明後日にでもお部屋へ伺います。体調を整えておいてください」
 足音がさっさと鳴り始める。用は済んだのだ。去ろうとする文官を引き留めた。
「お待ち下さい、卿」
「何でしょうか?」
「公爵を……刺した私の部下は、どうなったのでしょうか」
 ラクスの身体がびくりと震えた。それだけで全てが知れたような気がしたが、シバリスはなおもはっきりとした言葉を待っていた。
「……タナジオ・グリフィスの自死を、我々は止めることが出来ませんでした」
 遠くからその声は言った。冷たい石に跳ね返って鋼の匂いがした。
「彼の繊細さを看守達が甘く見ていまして、……もうこちらへ到着したときには、すでに牢の中で、全て手遅れとなった後だったのです。……残念なことでした」
 視界が涙に緩んだ。
……ああ、容易く人に共振する優れた心よ。それ故にしばしば自分を失ってしまう、優しく哀れな彼が。あの皮肉屋の唇が。
 シバリスはもう、逆らう気力など起こらなかったが、さすがに足腰が上手く立たず、ラクスの肩に寄りかかるような調子で部屋まで戻った。
 戸口の前で、ぶつかるような強さでリナが飛びついてきた。バランスを崩しながら、支えるラクスの手、微笑むジリオの瞳、食卓、寝台。そんなものが今さらのようにくっきりと見えた。


 公国は死にました。
卿の言葉が部屋に棲んでいる。
 そしてシバリスはまだ、信じられないことだがまだ、生きていた。






<< BACK < top > NEXT >>