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* 晩霞終息 *

[ 8 ]


第三章 因果



 二日後、シバリスは自分からアルアニスの元へ出向いていった。わざわざ自分のために城内の端まで来させるのは気が咎めたためだ。
 城内ではあちこちで人が忙しく立ち働いていた。リシー公の命により、城の全域で大がかりな配置替えが行われているのだ。
 それに加えて机の配置やカーテンの色、さらには窓枠の取っ手までが取り払われ、同じ建物でありながら別の国へ迷い込んだようなよそよそしい雰囲気が漂っていた。
 シバリスが通されたのは二階の、以前官僚の控え室とされていた中程の広さの部屋で、二人のトリエントーレ兵によって警護されていた。
「誰だ」
 なんら身分を示すものをつけていなかったので、その扱いは仕方がない。名乗ると、厳しい顔のまま槍を上げて、彼を中に通した。
 卿は一人の男と話し合っていた。それでシバリスが遠慮をしようとすると、手を上げてそれには及ばないと彼を引き留める。
「すぐに終わります」
「お待たせして申し訳ありません」
と、男も律儀に頭を下げた。見たことのない三十過ぎくらいの騎士で、トリエントーレの人間だろう。
 言葉通りすぐ、彼は立ち上がって敬礼すると部屋を辞した。生真面目な男らしかった。
「お待たせしました」
 卿は笑いながら、机の上に散らばる書類を束ね始める。
「わざわざおいで頂かなくても、これからお伺いするつもりでしたのに。お元気ですか?」
「ええ。まあ……」
「何よりです。さすがに鍛え方が違いますね」
 部屋はすっかり様変わりして、机は二つ、共に書物や紙のたぐいで埋め尽くされていた。床に落ちている一枚を拾い、シバリスは彼に差しだす。
「ああ、ありがとうございます。この国は実に多くの公僕を抱えておいでですね。一つ式を開くのにもおおごとだ」
「式典を開くのですか?」
「二週間後です。即位式と授与式を兼ねていて、略式ながら文句の出ない形式でやらねばなりません。それだけですが、それが面倒で」
 若い頃儀礼の類に馴染めなかったシバリスにも、その苦労はよく分かる。
「大変ですね。元老会がうるさいでしょう」
「いえ、もう元老会はありません」
と、卿は手を広げる。シバリスはきょとんとした。
「え?」
「今日付けをもって解散させました。存在価値のない機関ですから」
「元老会を解散させたのですか?!」
「ええ」
 シバリスは唖然としてしまった。それは風邪が治りました、という軽さで話すことではない。
 確かに元老会は既得権を守ることだけに汲々としてきた、老人連の無意味な集会だった。普段は集まっては酒を飲みかわしているだけだが、なにか革新の香りが公室に漂うと、突如として騒ぎ始めるのだ。
 形式上は無力でありながらその権力と発言権は強固で、長寿国家ならではの産物であり、しかし誰も解散などさせることが出来なかったのである。
「……それは、大変でしたね」
まだ唖然としながら彼は言う。
「ええ、大変でした。暗殺の脅迫状と、泣き落としの手紙が山ほど。……焚き付けに使いましたがね」
「……何故あなたのところに。……まさか、あなたの名前で解散させたわけでは……ないんでしょう?!」
 卿の無言が、シバリスをぞっとさせた。
「卿、それは、……殺されますよ……!」
彼は笑いながら、顔を伏せた。
「仕方ありません。公爵のご命令ですから」
 その言葉の前に、同様に遣え人であるシバリスは無力になってしまう。しかし、個人的な感情を抑えることが出来ず深刻な面持ちの彼に、卿は薄い笑みを投げた。
「大丈夫ですよ。式典が終わりましたら、私はすぐとこの任を解かれ、帰ることになっています。暗殺者も、まさか東の片田舎にまで参りますまい」
「それでは……、まるで捨て駒ではありませんか……」
「そのものです。しかし自分が逆の立場だったらまず同じことをしていたでしょう。文句はありません」
 彼はあまりに物わかりが良すぎた。その従順がかえってシバリスを傷つける。もっと大事にされてしかるべき人物であるのに。唇を噛んだ。
「とてもあなたらしいですね」
 ふいに調子を変えて、卿が微笑んだ。
「そういう表情は。……非常に懐かしい。その、長い前髪もそうですが」
「長い……?」
 シバリスははっとする。そうだ、この男は自分の髪が短かったことを知らないのだ。夜中にはさみで、彼ほど短く……、彼ほどに……、切り落としたことも。
「年をお召しになってもあなたは、そういう伊達な髪が似合いますね」
「そうですか……。似合いますか」
「ええ……。……少し、出ましょうか?」
 時間が逆巻きそうになったのを機敏に感じたのだろう。卿はわざと明るい声で話を変えた。
 二人が部屋を出ようとすると、また鋭い槍が組み合わされる。
「勝手な外出は困ります」
 卿は冷めた瞳でじろりと兵士を見返した。
「死にたくなかったら通しなさい」
ためらいがちに、門が開く。最後には押しのけるようにしてようやく廊下へ出た。
「困ったものです、一々威嚇しなくてはいけない」
 シバリスは黙ったまま頷いた。微妙な立場の彼を、気の毒に思う。
 卿は、
「私は謀反を起こしたりしませんがねえ」
と、なにやらのん気な調子で顎を撫ぜた。
「何故、貴方がそんな疑いを掛けられているのですか」
「さあ」
この男は分からないことは分からないと言う。
「しかし、あなたとは違う理由ででしょうね。私は、あなたのように謙虚ではないし……」
「……どこでもこの調子なのですか?」
「まあ、そうです。しかし無理もないでしょう。今まで私がしてきたことを考え合わせますとね」
 卿の長衣が床を滑って音を立てた。針金のような、潤いのない指を腰の後ろで重ねる。
「……ただ、ある貴族の方がどういうわけか私のことを非常に好いて下さってましてね。ここへ来るまでは随分親切にしていただきました。世の中にはそういう方もいるのですね。
 ……そこに若い娘さんが一人おりまして、三人姉妹の末子ですが、二人の姉のように結婚するのが嫌だと言って男の子のような髪の毛をしてるんです。
 とても面白い子で、手紙をくれろと言われたのですが、私信は残らず封を切られる始末でして。仕方ないので信頼できる男に―― 先程の騎士ですが――渡してわざわざ届けてもらっています」
「恋人なのですか?」
卿はちょっと笑って否定した。
「それは違います。ただ人には見られたくないのでね」
 やがて廊下は日射しの当たるテラスに出た。そこで行き止まりだ。卿はまだ慣れない宮廷を一見悠々と、だがでたらめに歩いているらしかった。
 湿気の少ないこの国では、日向と日陰の温度差が大きい。一歩踏み出しただけで、焼かれる夏が衣服に覆い被さってきた。
 その時ふと、卿の身体がその矢印を変えた。階下から流れてくる滑るような歌声に気がついたのだ。シバリスはあっと思い、知れず身体を硬くする。
 この声はジリオだ――。心臓が鳴った。ジリオが中庭で歌っているのだ。
 興味を覚えた卿の身体が、自分の側から離れて下を軽くのぞき込むのを止める術もない。シバリスのところからも彼の髪の毛となびく飾りが少し、見えた。
 そんな場面が上で起こっているとも知らずに、ジリオは噴水のたもとに腰掛け、長琴をかき鳴らしつつ伸びやかに歌っていた。周りを侍女達が取り囲んでいるから、きっとせがまれたのだろう。




国が消えたと嘆くはおよし
自分が滅びりゃ話にならぬ
哀れな明日は西に捨てよ
東の朱を見逃すまいよ



 心音に全身も揺れるほどの緊張の中で、卿は振り向いた。
 そしてシバリスの感情に少しも見合わぬ気軽な調子で、
「面白い歌い手ですねえ」
と言った。条件反射で硬い笑みを作ったときには、彼は自分がカラスにでもなったような気がした。だが、次に卿が、
「何という男ですか?」
と続けたので、シバリスはとうとう言葉を失ってしまった。
「はあ?」
 卿の方は、彼の反応にあまりに力がこもっているので、何か悪いことでも聞いたのかと思い始めた調子だった。
「おや? ……そんなに有名な男なのですか?」
「ご、ご存じない?!」
「え?」
 卿はもう一度下をのぞき込む。飲み込めない様子でまた顔を戻し、
「いいえ? 一度も会ったことのない人だと思いますが?」
と答える。嘘を言っている様子はどこにもなかった。
「……あ、あの、今年はトリエントーレ王国の三十三周年記念であったかと思いますが。……その式典には、御参加なさいませんでしたか?」
「あ、ああ……」
 するとアルアニスは、少しばつの悪そうな顔をして頭を掻いた。
「面倒だったので、一日だけ顔を出してすぐに引き上げたんですよ。風邪を引いたことにしましてね。
 元来、あまり祭りは好きではありませんで……」
 混乱が抜ける。口が開くのと一緒に、無意識に上がっていた踵を地につけた。
「……ああ、そうでしたか……」
 場違いに喉の奥が熱くなった。ごまかすために出した声は妙に高かった。咳払いをする。
「……彼がその式典に出ていたのですか?
 たくさんの芸人が集まっていて大変な賑わいだったそうですが」
 卿の質問は無邪気だ。彼は何も知らないのだ。シバリスはこの男相手に、今のような立場に立ったのは初めてではないかという気がした。そして現金なほどに、心が落ち着いてゆくのが分かった。
「ええ……、そこであなたに会ったと言っていたものですから。……嘘だったんだな。かつがれました……」
 シバリスには特権が苦痛だった。精神に重たかった。けれど快感がぞくぞくと胸を這った。
 そんな馬鹿な、と思いながら、彼は卿の痩せた顔を見る。恐ろしげもなく、見る。
「……あれはジリオ・キーツという名の芸人です」
 アルアニスは少し止まった。灰色の瞳がたった一度揺れる。シバリスは自分が公爵にでもなったような気がした。ぐさりと細身の刃で彼を刺したような手応えだった。
「…………キー」
 掠れた声が唇を滑った。その終わりを断ち切るように、
「ええ、あのバートレット・キーツの息子なんです」
 言い切る息には残酷さえあった。自分でもその感情に吐き気を覚え、口を噤む。
 逆転した立場の中、無言で向かい合う二人の男の間を赤毛の騎士がひらり、夏の風と一緒に駆け抜けていったような気がした。







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