* 晩霞終息 *
[ 9 ]
そうでしたか。……そう言えば彼女は元気ですか? 彼の問いに、シバリスは黙り込んだ。とても返事を期待できそうにないと思ったのだろう、卿は数回頷いて、 申し訳ありません。……自分で調べましょう。 と、静かに呟いた。 多分今頃、彼女が数年前に死んだとの報告を受けているだろう。シバリスはジリオに事情を問いただした後、それを彼に伝えにいかなければと思った。 どうして彼に会ってこなかったのかというシバリスの問いに、ジリオは自分の指を見つめたまま容易に返答しなかった。 重ねて尋ねると、終いに何か面倒になったらしく、荷物を投げ出すような乱暴さでこう言った。 「会う必要がないと思ったからですよ。それだけ」 「だからなぜそう思ったのかを聞いているんだ」 「……どうしてそんなことにこだわるかなあ」 長い髪の毛を指に巻き付ける。 「重要なことだからだ。……お前がこれから、どこへ行くべきかを決めることだからだ」 じろりと、ジリオの瞳がシバリスを睨んだ。そこには一種の恨みがましさが浮かんでいる。 「……僕が誰の子どもであろうがね、あなた」 急に、青年は社交辞令を踏み倒した。射るような鋭い眼差しで、かつての母の恋人を見つめる。今までそんな直線的な態度に出たことはなかった。 「……僕があの人の元にいるべきじゃないってのは、確かですよ」 「……分かるように話せ」 シバリスの声もつられて感触が粗くなった。 「お前一人が納得していても始まらんのだぞ」 細いジリオの手がテーブルの上に落ちた。殴るような形になる。 「じゃあ言います。あの男は自分の妻に子を堕胎させています。しかも本人の意思も確かめず、無理やりに容赦なく、とても聖者とは言えないようなやり方で」 ああ、それでか……。シバリスは心中で頷いた。王国内のどこかで、そんな噂を聞いたのだろう。 「……無用にそんなことをする人ではない。ちゃんとした事情があったんだ」 「……しかしあなたは」 常ならぬ真剣な眼差しで、彼はシバリスの蒼い瞳をのぞき込んだ。そこに言葉を求めていた。ただ一つの答えを求めていたのだ。 「……そんな男の元に僕がいるべきなどとは思わないでしょう?」 ―― しかし、シバリスはほんの少しだけ眉間に影を刻んだが、その顎は縦にも横にも動かなかった。 身を乗り出すようにしていたジリオの頬に青みがさす。信じられないように身体をのけ反らすと、背もたれにどすんと音を立てて体重を投げ出した。 「……なんてことだ……」 服に埋もれた顎から漏れたのは細い、抑揚のない声だった。 「……どういう意味だ?」 シバリスが聞いたが、彼は答えずに立ち上がる。椅子自体も一瞬宙に浮くような荒々しさだった。 壁に掛けてある長琴をひっつかみ、彼は部屋を夜中へ飛び出していった。 「待て、ジリオ!」 シバリスの呼び声は閉まった扉に拒まれる。驚いたリナが台所から顔を出し、何か懇願するような目をして彼を見た。 分かっている、と肩をそびやかしてシバリスはため息をついた。何を分かっているのか、自分でも判然としていなかったが。 昔、こうやって、彼のテラスを訪れたことが一度ある。 けれどあれは春の朝だった。白い光が絹のようにまとわるぼんやりとした霞の日で、自分もふさわしく若く、彼も若かった。 まだ面識もなかった彼に会いに行ったのは二人に関わる女性のためだった。今はその息子のために足を運ぶ。夏の過剰に赤い夕日の中で。 卿は部屋の奥から抜けられるテラスで、椅子に腰掛け西を見ていた。頬に硬い影が張り付いて、彼は病人みたいに見える。 顔は昔から老けていた。だから変わり映えがせず、かえって年の割には若く見えるほどだ。 シバリスはわざと石の上で靴をよじった。砂の鳴る音に卿は振り返る。本当にやつれているように見えた。 「……お疲れですか?」 すると、にこりと笑う。 「いいえ、さほどでもありません。ただ久しぶりに働いたので、少し身体が驚いているのでしょう。 ……何かいいことでもありましたか?」 「え?」 「お元気そうですから」 彼は苦笑した。首を振っていやむしろ、面倒事を言いに来たのだと答え、彼の側へ移動する。 「おや、なんでしょうか?」 「……ジリオ・キーツのことについてお話ししたいのです」 「何か?」 平然と、卿は目を見返してくる。こういう男だ。シバリスは西に浮かぶ、熟れすぎの果実のような太陽に顔を向けた。それから戻ってきた青い瞳には力があった。 「簡潔に述べたい。……あれはあなたの子です」 卿はその痩せ顔に驚いた、というよりも怪訝な表情を浮かべた。何故そんなことを言うのだろうといった様子だったが、まだ言葉は挟まず、大人しくしていた。 シバリスは訥々と続ける。 「……あれはあなたとあなたの奥方に関する噂を聞いて、あなたを訪ねるのを止めたそうです。その……、堕胎がどうのという例のあれです。 ……多分、奥方の不始末の末に出来た子どもだということくらいは知っていたでしょう。ですがそれが彼女の兄、リシー公との間に出来た子どもだったことまでは、恐らく知らなかったんです」 皮肉っぽく、卿が笑った。 「困ったな、そんな噂が出ていますか?」 「騎士団にも諜報部隊はおります。非常に、小さな枠ですが」 「とんでもない。優秀ではありませんか。それなりに真面目に出口を閉じたつもりだったのに」 「……どちらにせよジリオは早とちりでした。これは若いからでしょうし、私生児だから殺されたという事実が彼には、殊に辛かったのでしょう」 「でしょうね」 「……彼は私に、嘘をつきました。あなたには会ったが、迷惑そうだったので何も言うことが出来なかったと」 「…………」 卿は耳の下に手を当て、首を傾げて見せた。微かな動作だったが、興味をそそられている徴だということがシバリスには分かった。 「彼は、私を慮ってくれたのです。本当のことを言わなかったのは多分、私にあなたの醜聞を聞かせるようなことはしたくないと思ったからでしょう。 嘘には本当らしいところがありました。私は申し訳ないことですが、あなたが迷惑そうな顔をしたところまで思い浮かべた。 ……彼は多分、私があなたに遠慮をしないでいいようにするつもりだったのでしょう。そして私はそれに見事にはまって、つい昨日までそう考えていました」 シバリスは言葉を切った。床に目を落とし、自分の靴の先を見た。周囲はうす闇に落ち、テラスの角に立てられた橙の灯りが、だんだんと陽に克ち始めていた。 彼はようやくのことで顔を上げた。そして苦しげに、口を開く。 「……ですが、その賢しさが私のものでないのです。私を思いやるそのやり方が私のものでない。無論バートレットのものでもありません。彼女はもっと無遠慮で切り込み型だった。 ……だから、昨日あなたとのやり取りで彼が嘘をついていたのだと分かった時に、私はこれまでになく確信してしまいました。彼は、……私の子ではない。違うのだと」 目を向けたが、卿は黙ったまま前を見ていた。それでシバリスは力を込めて言った。こちらを見てくれ、といった調子で。 「……卿、彼はあなたと共にいるべきだと思います。それが正当です。もちろん私も辛いですが、彼には本当の親と幸せになって欲しいのです」 「……なるほど」 ぼそりと卿は呟いた。それから突然彼に微笑みを向けてくる。言葉も同じように場違いだった。 「……人間なかなか楽はさせてもらえませんね」 反応に困ったシバリスが何か言うより先に、卿は椅子から立ち上がった。灯が揺れる度に、足下で長い影がゆらゆらと踊る。 手すりのところで、卿の堅い背中はしばらく動かなかった。結論を出すのに時間がかかるのだろうとシバリスは思い、ただ静かに待っていた。 当然だ。彼がジリオの存在を知ったこと自体つい昨日のことなのだから。 顔を上げると、蒼白な夜の中で卿は向き直っていた。奇妙に落ち着き払った、だがどことなくぎょっとするような微笑で、彼にこんなことを言った。 「……あなたを殺して上げましょうか」 突然の台詞にシバリスの目が見開かれる。卿は腕を胸の前で組んだ。その言葉尻が辛辣だった。 「……ねえ? そんなにお辛いのなら。 確か地下牢から出てきたときにもそんなことを仰っていた。慈悲だと思って殺してくれ。……そうしましょうか。私にはそれが出来ますよ。 やり方もお好み次第。事故か自殺か、それとも公爵みたいに謀反、謀略がいいかな。それも嫌と仰るなら昔の恋敵に殺されるってのもおつですよね。どれがいいですか?」 「卿、話が違うようですが……」 さすがに愉快ではなかった。真摯に談判しにきたというのに、冗談で切り替えされるのはあんまりだ。 が、アルアニスは肩をすくめる。 「そうですか? ジリオ君を言う通りに引き取りましょう。なおかつ辛いそうだから終わりにして上げましょうと言ってるんじゃありませんか。 ……親切にいきますよ、あなたには世話になりましたからね。彼と彼女と私の人生から、あなたの存在を抹消して差し上げます。聞いている限りそれがお望みのようじゃありませんか」 彼は冷淡で、怒っていた。ひどく腹を立てていたのだ。 シバリスはびっくりする。そんな卿を見たことがなかったので、そう分かるまでに時間が要った。 「どうしてジリオはあなたのような男を好いてるんでしょうね。あのバートレットの息子だというのに。 ……彼女は違いましたよ。あなたみたいな男にずっと甘んじてなどいなかった」 ふ、と、薄い唇がほころんだ。 「……本当に、良かったですよ。あなたなんかに遠慮をして、彼女と愛し合うのを止めたりしないで、……本当に良かった」 灰色の目と視線がぶつかった瞬間、思いがけない強さで頭蓋骨が揺れた。血が噴き出さないのが不思議なくらいだった。 たぎる憎しみが、額をかっと赤く染めるが、頓着することなくアルアニスは続けた。 「彼女は美しくて凶暴で真剣だった。あなた達が築いてきた十数年の腐れ縁よりも、私たちの半月の方がずっと価値がありましたよ」 頬に毒を刻んで、卿の声が低くなる。 「……迷うことなどなかったんです。彼女が産みたいと思うのは、私の子だけ。まともに考えればすぐ分かったでしょうに、その勇気がなかったんですか。 ……やはり、あなたも年ですね……」 ちらり、と白い歯が見えた瞬間、彼は無意識のうちに剣に手を掛けていた。柄を握り潰すほどの握力で、シバリスは歯を食いしばる。 ――――憎い! 目の前のこの男が憎い。自分を助けに来てくれた、昨日までの友人がこんなにも。 アルアニスも手を持ち上げる。途端に、掌が青い光を発し始めた。この男の速度は相変わらずなのだ。 「そう、恋敵を選びますか」 だが ―――、その時奇妙なことがおこった。 シバリスの手が、苦しい柄から離れると、ゆっくりと眉に持ち上がったのだ。そして引っ掻くように、また傷をなぞる。 いいや、大丈夫だ。言い聞かせる。許せる。青二才のように怒らなくともよい。年をとって、自分はもう許せるのだ……。相応の忍耐力で。どれほどひどいことを言われようとも自分だけは許せるのだ。失敗を繰り返すことはない……。 彼の変化を見て取って、徐々に、卿の顔つきから緊張と殺気が消えて行く。段々と雰囲気が落ち着いて、終いにとうとう白けてしまった。 シバリスがやり遂げたと思ったその時、 「―――それがあなたの手ですか」 がらりと、卿の言葉の色が変わった。 「そうやって周りを卑怯者にしてあなたは安泰というわけですね」 ひらひらと、白いだけの手を振って、卿は身体を反転さすと、長いため息をついた。シバリスは、急に獲物を横取りされた時のような喪失感を覚え、それに翻弄されていた。 どこか起き抜けのような感触がする中で、 「あなたは卑怯者だ」 と、アルアニスが苦々しげに言った。 「見苦しい、意地汚い真似などしたくないといって、それを周りに肩代わりさせている。 みんなあなたのために卑怯者になったのに……、あなたはますますそれにすがろうとする。 ……あなたは、わがままですよ」 指が傷から離れた。その内側が汗ばんでいる。 「……騎士タナジオはあなたのために公爵を殺し、ジリオはあなたを護るために嘘つきになった。あの少女は誰彼構わず身体まで売ろうとする。あまつさえ神までがあなたにまだ来るなと言った。 皆あなたを選んだというのに、あなたはよりによってそんな人達相手に格好を付けようとする。 そんなに聞き分けのない、なりふり構わぬ人間でいることが嫌ですか。昔のあなたはもっと勇敢だったのに。 ……あなたは頭のいい方だから、私が家族を欲しないことくらいご承知でしょう。そんな私にわざわざジリオを押しつける。拒絶。そして仕方がないなと言ってあなたは堂々と引き取れる。もらってくれと頼まれたからもらってやるのです、大人らしい寛大な気持ちで。 ……実際いいやり方ですね。けれど私はそんな遊びにつきあうつもりはありません。そしてそんな人間に何一つくれてやるつもりなぞありませんよ。 ……シバリス。欲しいものは、子どものように地駄を踏んで欲しいと言いなさい。そうでなければ、私はジリオもバートレットも、あなたが大事にしているもの全てを、もらっていきますよ。 ……嫌でしょう。シバリス、嫌と言いなさい……!」 返答がないので、アルアニスは振り向いた。そこには怒りではなく、悲しみがあった。あなたも私をそんなことに使うのかと。シバリスははっと胸を突かれる。 「……遠い昔、朝方私のテラスに入り込んできたとき、あなたは、唯一バートレットのために行動していて、私はその不器用さを好みました。けれど、今のこれは、ただ自分のためだけになされた偽善です。 あなたが大事にしているのはバートレットなのですか、それとも彼女のことが好きだった自分なのですか。 一体あなたは、いつからそんな人間になったのです。昔から頭の回る方だった。でも、これは違います。……こんな……卑屈な……」 卿は首を振った。沈黙が流れる。 シバリスは硬い顔をして、ただそこに突っ立っていた。卿は顎を触っていた手を下ろして、腕を組んだ。 そして目を閉じて、穏やかな口調で尋ねる。 「……シバリス。バートレットはどうしたのですか」 その声に込められた優しさに打たれたように、彼は一歩、後ろへ下がった。 「彼女は元気にしていますか」 また一歩。 「……あなたの口から聞きたいのです」 何も言わず、シバリスはテラスから出ていった。青ざめる足下に、ぼとぼとと顔が落ちていくような気がして、目の前が見えなかった。 あなたと私は似ているから、私が私に求めることとあなたが私に求めることは一緒でしょうね。 ええ。今すぐあの扉を開けてあなたがこの部屋から出ていくべきだと思いますよ。 そうして手を放さないのに、考えていることは一緒でしょうね。 ええ。同じく、たった一人の方のことを考えていますよ。そして随分とひどい顔をしていますよ、私も、あなたも。
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