* 晩霞終息 *
[ 10 ]
その晩から、数日間シバリスは考え事ばかりしていた。時々式典に関する情報などが回ってきたが、それ以外に卿の方からも働きかけはなかった。 「……正装の上心映え明るく、よろしく出席するように。皆の晴れ姿に息を飲む日を心待ちに……」 こんなものだけが、新公爵の名前で出される。恐らく誰も、あの狭い部屋に閉じこめられて職務に追われる男のことを思い浮かべはしまい。 毎日、ジリオは朝早く出ていって夜遅く帰ってきた。それでいつも三人が揃っていた彼の食卓は壊れた。 だがシバリスにしてみれば、ジリオがちゃんと家に帰ってくることの方が疑問だった。なぜ、こんなどうしようもない自分から、彼は離れていかないのだろう。 ある朝、彼は勇気を振り絞って尋ねてみた。どうして旅を止めたのかと、今度ははっきりとした答えを求める。すると青年は、歌の文句でもさえずるような奇妙な低さで、 「母の代わりにあなたといるのだ」 と言った。 「なに?」 「あなたは知らないだろうが母はいつもあなたと家庭を作りたがっていた。けれどあなたにその気がなかった。いつも他人の顔をして入ってきて他人の顔のまま出ていった。 母は間に合わなかったが、僕はまだ時間がある。だからあなたがその気になるまで待とうと思っている。……だが」 長琴を取るために身を屈める。 「最近は少し自信がなくなっている」 食卓の前で一人になった。 ――間に合わなかった。自分を待っていた? 彼女が? 私を? 本当なのか。今の言葉は、思いやりの嘘ではないのか。 そう、嘘だ。そんなはずがない。知っているんだ、あの女は自分の幻想だと。自分に優しくする白い手は自分の創り出した妄想のはずだ。 彼女は、自分を愛したりはしていなかったし、そんな手を持っていなかった。 自分は彼女の愛するアルアニスになりたかった。あのように万事控えめで無欲に出来上がった人間になりたかった。そうしないと彼女が、ひいてはジリオが自分の元から去っていくような気がしたから。 けれど媚びる自分を、結局バートレットは愛さなかった。ただジリオと同じで、許していただけだ。そんなことに気もつかず、自分は死の間際まで彼女にすがりついていたのか……。 ――――なんてことだ。 結局、かち合わなかったのだ。 シバリスの心地よい方法と、バートレットの望んだやり方。それが最後まで、今も、触れあわないでいるのだ。その真実を厭がって、見ない振りをしていた自分のこの、小賢しさときたら……! この国を、変えようとして変えられなかったわけが今分かった。公国の硬く、依存心の強い不公平な体質の根本は、歴史でもなく、体制でもなくましてや君主でもない。そこに関わる人間達のそれぞれの弱さと怠惰とが造り上げた防壁だったのだ。 いつの間にか年相応に賢しく、小狡くなって、自分もそれに加担していた。続いていくさ、大丈夫続いていくのだと未来だけを無責任に信じた。 若い部下の真っ直ぐな心を見殺しにして。そしてその依存の果てに、国の方が先に滅んでしまったのだ。 両手で顔を覆う。……恥ずかしい。あんなことを卿にしゃあしゃあと言った自分が恥ずかしい。彼は独りで闘っているというのに……。 肩に、手が触れる。目を上げると、リナが立って彼を見下ろしていた。起き出してきたところらしく、まだ白い寝間着のままだった。 「どうしたんですか?」 微笑みを浮かべようとして失敗した。奇妙な自然さの中で、彼女の胸に顔を埋める。そこにある、人肌の懐かしい暖かみが、彼にまどろむような安堵をもたらした。涙の混じった声でシバリスは言った。 「どうしてお前は卿のところへなど行ったんだ……」 「え?」 「こんな男放っておけば良かったんだよ」 リナはゆっくり、けれどもきっぱりと答える。 「私を助けて下さったからです」 微かに、シバリスは首を横に動かす。そこに思想はなかった。 「弾みだったんだ」 「……でも、助けて下さったですから」 小さな手が自分の頭を包み込むのを感じた。 「あなたが大変なときには、助けて上げます」 ――――彼にもう一度会いに行こう。 シバリスの計画は夕刻、潰れた。リナが外から戻ってきて、彼に告げたのだ。アルアニス卿が昼過ぎに倒れたらしいと。 彼はその後三日間、彼に会えなかった。 騎士は男っぽく、鋭い目つきをしてはいるが物腰は落ち着いた男だった。やって来たシバリスを通すと、寝室の扉の前で念を押した。 「ご用件のみでお願いします」 シバリスは頷く。 「ご過労なのかな」 「……でもあります。詳しくは存じませんが、元来内臓を煩っておいでだそうで、医者は、それが体力不足で悪化したのだと申しております」 「…………」 アルアニスは瀟洒な部屋へ移されていた。以前の執務室に比べると、まだ潤いがあり生活の香りがする。 忠実な騎士に見守られながら、重い扉を開け、シバリスは寝室へ入った。 彼は寝台を抜け出して、本を読んでいた。彼を見るなり、早く扉を閉めてくれと笑いながら目配せする。 「彼が怒りますのでね」 シバリスは後ろ手に戸を閉めた。 彼は見た目には何も変わっていないようだった。顔色の悪いのはいつものことだし、少し生気が薄い気がするが……。 「お悪いのですか?」 病人に聞いてはならないようなことを聞く。 「らしいですねえ、自分にはよく。でも伝染しないそうなので、安心して下さい」 膝の上の本を閉じ、シバリスに空いた隣の席へ座るように促した。 心地の良い椅子だった。張り方だけでなく、配置の問題で、少し横を向くようにしなければお互いの顔が見えなかったのだ。それでシバリスは随分気が楽になった。 そのまま、つい薔薇色に滲むカーテンに見とれていると、 「因果応報という言葉を知っていますか」 先に、卿の方が口を開いた。あやしげなことを宣う。 「いいえ? 聞いたことがありませんが」 「でしょうね。……東方の言葉で、最近あちらから入ってきた書に現れていた一つの思考なのですが……」 と、口調は学者のようである。 「つまり我々が言うところの、目には目を、歯には歯をというのと同じです。 ただ、あれをもっと大きくしたと言いますかね、あれは懲罰に関する分野から生まれてきた韻律ですが、こちらのは人生、いえ、歴史全体を遍く覆おうとする一つの修辞的な企てなのです」 「はあ……」 シバリスにはそう言うしかない。彼の退屈に気付かないこともないのだろうが、卿は珍しいしつこさで先を続けた。 「何かいいことをした報いは必ずある、反対に悪いことをしたらば、いかにそれが遠い過去でもその罰は必ず来る。簡単に言えばそういうことです。 本当なんでしょうか。そんな風に世界が出来ているのかどうか確かめてみたいものです。だから私はちょっと、今人生を掛けてそれを実験している最中なんです……。 ……すみません、一人で話して。それであなたのお話はなんですか?」 「要件のみと言われましたので、要件のみ」 息を飲み込み、吐き出す言葉がこう告げる。 「……バートレット・キーツは死にました」 驟雨の上がった六月の昼下がりが、部屋に満ちた。しっとりと、蒼い静かな声で卿は言う。 「いつですか」 「三日前です」 廊下を行く人の足音がした。 「そう」 「ええ、とうとう死んでしまいました。……あなたのせいで……」 隣で、彼が鼻から息を吐き出すようにして笑った。シバリスも自然と微笑みを浮かべる。 「息を引き取ったのは、……八年前です。私が戦争から戻ると、もう既に、埋葬されてしまった後でした。 ……私は、未だに彼女の墓に行っても石しかないように思えます。その時には、死んだということにしてあなたのところへ行ったんじゃないかと、……馬鹿なことを考えたりもしました」 「…………」 卿は無言だった。ただ唇は笑っていた。 「ご迷惑を、おかけしました」 「何を仰るのですか。……とんでもありません」 「ただ、懲りずに言うようですが、ジリオは、……私の手元に置いておいてもいいのかどうか。 ……あなたには、本当に身内が必要ないのですか。余計なお世話だと思いますが……」 「因果応報です」 卿は、下を向いていた。 「あなたが間一髪のところをいつも助けられるのは、あなたがそれに値する行為を重ねてきたからです。そのお返しを受けているに過ぎない。片務的なものではなく、ちゃんと理にかなっています。 ……それを言えば前の公爵は、頭は良かったけれど人間的に未成熟だったんですね。まさか、タナジオ・グリフィスがあれ程までにあなたを護ろうとするとは思っていなかったんでしょう」 青いものだ、と笑った後、卿は声を小さくした。彼は、自分のことを話すときにはだいたいそうする。 「……だから、私にそれが与えられないのは私のせいで、今更誰かに親切を求める資格など持っていないのです。 考えてみれば至極当然な話ですよ。人間は意外と原始的な感情で動いていますね」 「しかし……彼は無理しているんです。本当は、広い世界へ出て行きたいと願っているのに、私に義理立てして……。そんなことは、不合理なのに」 頭を振りながら、卿が念を押した。 「……だからシバリス、あの子は誰でもなくあなたのために、不合理な人間でいるのでないですか……。他の誰のためでもありません」 鼻の痛みと共に、言葉が出なくなった。にじみ出す涙の少量なことを感謝しながら、そっと指で拭う。 知っているのか知らないのか、卿の言葉は緩やかに続いた。 「……しかし、本当にいいんだろうかという戸惑いは分かります。何故なのでしょうね、信じられないような力で人が自分を愛してくれるのは……」 シバリスは彼の横顔を見た。そしてその灰色の視線の先に、数人の影を見たような気がした。 身内がいないなどと、自分の早とちりだったのかも知れない。そんな言葉がこぼれそうになった時、部屋の扉が叩かれて、あの騎士が姿を見せた。 「もうそろそろ……。お休みにならなければ」 卿があ、と決まり悪げに慌てて席を立とうとする。 「存じてましたから急がれなくとも結構です」 仏頂面で騎士は言った。卿は上げ掛けた腰をまた落とし、何やらぶつぶつと数語呟いていた。お祈りでもしているのだろう。 シバリスは席を立ったが、 「あ、言い忘れてました」 と、卿が引き留めるので振り向いた。 「私は明後日こちらを引き上げることになりました。……医者が強く勧めるもので。……彼はここの気候が合わないと言ってるんです」 「……そうでしたか。それでは……、またお見送りに参ります。どうかお大事に」 一礼して扉を閉める。騎士がその直前、「寝るんですよ」と釘を刺していた。 「君はトリエントーレの騎士とは違うのかな。少し服装が違うようだが」 と、好奇心から尋ねてみる。 「私はロシャ男爵付きの騎士でありますから、トリエントーレ国王には別段忠誠を誓っておりません」 四角いが、なかなか過激な返答が返ってくる。 「今のところは男爵とご令嬢のご命令によって、アルアニス卿に遣えさせていただいております」 「ご令嬢は、随分心配なさってるんじゃないかね」 「恋人のことですからそれはもう」 シバリスは驚いて顔を向けた。 「卿は違うと」 「卿だけに、そのおつもりがないのです」 と、少しく眉の付け根に力を込める。 「年齢のせいなのか、自分にはふさわしい魅力がないとお考えのようで。……彼は愚か者です」 「…………」 彼と別れ、冷たい廊下を歩みながら考えた。 寝室の中で静かに疲れた身体を横たえる彼。 あの人も本当は、「因果応報」などという法則が裏切られるのを、心のどこかで待ち続けているのかもしれない。
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