* 晩霞終息 *
[ 11 ]
その日は不穏な夕焼けだった。白い雲が紅に染まり、それが至るところで空の青さと混ざり合って、人の心をわななかせるような不気味さが、天球いっぱいに広がった。 このような時、公国では「天で大きな不幸があったかのようだ」と言う。シバリスもそう呟いた。それから窓際で腕を組み、じっとその赤みに目を注いでいた。 上着は壁に吊されて、その肩には先の式典で授与された新しい肩章がある。前のものより少し派手で、やはりどうしてもトリエントーレ風だった。 引き続き騎士団の統率にあたるように、と髭の新公爵は言った。アルアニス卿の姿は既になかった。 彼の出発した日のことを思い出す。式典の八日前だった。その朝にはほんの少し元気そうに見えたので、過労はやはり慣れない外国暮らしのためだったのだろうとシバリスは思った。 まともな服装をさせたジリオも連れていく。二人は結局、ほとんど話をしなかったが、それは多分側でじっと自分達の様子を見ていた役人がいたからだろう。 シバリスは初めて、ジリオが卿の跡継ぎ問題に巻き込まれる可能性があるのだということに気がついた。卿にもジリオにも全くそのつもりがなくとも、政権側が彼の存在を危険だと認識するのは勝手である。 アルアニスはまるでジリオが見えないみたいに振る舞っていた。改めて、彼の立場の複雑なことを思いやる。今頃は望み通り、静かに田舎でくつろいでいるだろうか……。 空は変貌する。 毒々しいほどの葡萄色も最後の一片が剥落し、やがて深海のような青、そして黒へと。星が光り始めた頃、あまり彼が静かなのでリナが灯りを持ってやって来た。 「具合でも悪いのですか?」 シバリスは老人扱いされて苦笑する。 「……ちょっと物思いに耽っていただけじゃないか」 リナの髪の毛が灯りに照らされているのを見て、彼はおや、と思う。 「伸びたな。髪……」 彼女はにっこり笑った。 「お互い様です」 本人は自分の髪の毛が短かったことを忘れていた。もっともだ、と彼も笑う。 空気が動いて、ちらちらと蝋燭が揺れた。 「リナ、どうしたらいいのかな」 「?」 「……お前の助けを借りたいときには。夜中に、髪を切らないで済むために……」 彼女の水色の瞳がくるりと彼を見た。変わり映えのない表情の下で本当は何を考えているのだろう。 リナは眉も唇も動かさず、頬を染めもしなければ瞬きを止めもしなかった。ただ、自分を見ている。その視線に後頭まで静かに貫かれるような気がした。 やがて彼女は一言、 「ドアをノックして下さい」 と言った。その声だけが微かに上擦っていた。 そして、彼の前でちょっとだけ膝を曲げて一礼すると、灯りを持ったまままた勝手の方へ行ってしまった。闇の中に一人残される彼の足下のことは忘れたらしい。シバリスは笑った。 やがてジリオが戻ってきて、三人は夕食を摂る。 「卿は」 と、彼が仲間から仕入れてきたばかりの情報を話した。 「一週間ほど前からあっちの王都で足止めを食っているそうですよ」 「何故」 「……色々と、揉めているみたいですね、宮廷内が。その動きに巻き込まれてしまったようなんです」 ジリオは、卿が離れた日から彼に対して態度を和らげた。彼のことが話題に上る回数も増えた。今まで皆無だったことを考えれば、それは大きな変化だ。 「本人の体調もあるらしくて、あのいかつい騎士のお兄ちゃん、随分がんばってるらしいですよ」 ただ、シバリスの方から彼の話をすると厭そうにするので、話はなかなか複雑だった。 「そうか」 それでシバリスはさらりと言って、彼の安らかなることを胸中で祈った。 そしてその夜、彼はリナの部屋の扉を三度叩いた。 夢を見た。 ――― この世の全ては因果です。 と彼は言った。手を前で重ねて立っている。彼はいつもそうやって自分の前に立ちはだかってきた。 ――― 全ての始まりは相応な全ての終わりにつながり、その終息はまた新たな始まりを呼ぶ。 動くばかりで弛むことない運命の前に、私たちは赤子です……。 どうしてもですか。と自分が尋ねる。 ――― ええ、どうしても。 銅鑼の余韻でそれが縦横に跳ね返る。 どうしても、どうして、どう……。 最後には太く撓んで神のような声になった。 ――― ドォウシテモォ。 けれども彼自身はひどく辛そうな顔をしていた。 大丈夫ですか、となにやら心配になって尋ねる。 何か欲しいものはありますか? すると彼はなげやりに笑って、 ――― まくら。 と答えた。 早朝、ジリオが寝室に飛び込んできて、面食らう二人に向かい、アルアニスが暗殺されたと言った。 まるで自分が今さっき殺してきたというようにその顔は蒼白で、涙が頬の紅を伝って赤くなっていた。 その時初めて、シバリスは彼があの男のことを愛し始めていたのだと知った。 法則は破れたというのに、だが、彼はもうこの世にいなかった。 そしてシバリスはいかに納得がいかなくとも―――、それが彼の運命だったのだと、そう思った。
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