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故森幻想
The Dream Killing You
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 トリエントーレ東部は未だ鬱蒼とした森に大半を支配された、日光に乏しい土地である。人々は古来より森を神と崇め、木材によって家を建てあげて薪や炭により熱を営む。蝋燭と石の地、中央から「僻地」と呼ばれ無用なほど蔑まるる由縁である。
 昔、イステル公国の高名な哲学者ヘキガティウスはこの地を「ディオラント(神棲む地)」と呼んだ。
 その天才の感嘆から五十年が経過していたが、今も森には、神かどうかはわからないが――――、とにかく何かが、棲んでいる。



 見られている―――――。
騒ぎ立つ血潮を静めるために、敢えて肺いっぱいにその冷気を吸い込みながらジリオは歩いた。冷然と直立不動の木々にはまるで確固とした意志があるかのようで、胡散臭い自分を今にも森からつまみ出そうとしているかのように険しく見えた。
 踏みつけるほどに水を吐き出すじっとりした苔の床。厳然と立ち上がり日光を遮断する黒い枝。体温を奪う白い風。その随所に、玉の原石のように歌がうずくまる。それが旅芸人の本能を震わせた。
 ……何という力だろう。めまいがした。捕まりそうだ。捕まって引きずり回されてしまいそうだ。
 生まれて以来基本的に都市部で生活してきたジリオにとって、神棲む森は脅威だった。
 底なしの歌に勝手に同調しそうになる両の手と、自らを失うのではないかという危機感のなかで、努めて無思考に両足を動かす。視線はもう完全に落ちて、歯ががちがち鳴っていた。
 焦りに曇った頭の中では、今や心無く活気づいた東部の神話がぐるぐると気ままに暴れ回って、混乱に拍車をかけている。
―――― 後ろから襲いかかって石で打った
ぐしゃりと水が踵を食べる。
―――― 風の精の血潮は風になった
静寂の窪みに心音だけがとどろいている。
―――― 叫び声さえ風となり 彼はかき消えた……
 消えとうないと耳元で確かに誰かが囁いたその後ぎゃーーッという大きな叫び声が森中にこだました。
 時間をかけ――振り返る。誰もいない細い道にただ、叫びの余韻だけが尾を引いて消えた。
「…………!」
 冷や汗が顎から滑り落ちたその瞬間、本能丸出しの臆病にとりつかれた彼は、猛烈な勢いで走り出した。
 ところが。
びしびしびしっ――――
と追いかけてくる足音が聞こえて、ジリオは今度こそ縮み上がる。
「う、あ……!」
 ――――死だ。追いかけてくるのは死だ!
咄嗟にそんなことを考えた。
捕まったら死ぬ!
 苔をえぐり取って足が回る。背面のそれは同じだけ速度を上げて追いかけてきた。左右の足場の違いまでがはっきりと聞き取れた。けれど振り向くことなどとても出来ない。
 肩に触る。いや、違った。でも熱を感じる。確かにいる! 確かにいる!
「だ、誰か……ッ!」
 捕まってしまう! 誰か、誰か助けてくれ!
いやだ! 死ぬのはいやだ――――!
「たす……!!」
声に涙すら混じったその時だった。
 突然純白の壁が目の前を塞いだ。
「わっ!!」
ぶつかる……! と思った瞬間、それにがん、と頭を殴り飛ばされた。
 呻き声をあげ、衝撃に目もくらんだジリオは後ずさりする。
―――― それから。



 ……ようやく、そこが太陽の下だと分かって彼は自分を取り戻した。
 慌てて背後を振り向いたが、そこには獣道が地肌を曝し、黒くぼんやりと見えるばかりで、誰一人立っていなかった。
 全身から緊張が滑り落ち、ジリオはよろめく。
「……はーっ……」
手の甲で額を拭った。だが、そこにはもはや汗もなく、完全に乾ききっている。
 ジリオが眦を歪め、思わずもう一度背の森を振り向いた時だった。右の方向から、別の声がした。
「……お前……、誰?」
 それは幻聴ではなく、確かな潤みを持つ人の声だった。視線を転じた先に、黒く長いドレスを着た十八ばかりの少女が立って、ジリオをじっと見つめていたのだ。
「あ……。あの……。わたくしは……」
 安堵と混乱とでなんと言ったらいいのか分からない。ジリオが泡を食っていると、先に少女が口を開いた。
「……芸をものする者?」
 彼女は彼が負っていた長琴の首を見たのだ。それによって彼も糸口を掴んだ。
「……あ、はい、……わたくしはジリオと申します。
 ……レンシア……様」
 思い切って、彼はその立ち姿にそう呼びかけてみた。確証はなかったのだが彼女は否定しない。果たしてその人なのだと思い、ジリオは頭を下げた。
「ご明察の通り、そちこちの街に楽しき夢をもたらす旅芸人でございます」
 そう―――。ロシャ男爵令嬢レンシアは頷いた。
「夢をもたらすはずのお前がどうして死者のための森を踏みしだいてやって来たの?」
「……死者のための?」
「ここの習慣を知らないのね。ここでは骸を火葬にした後、その灰を森に撒くの。だからお前の通ってきたのは死者達の眠る森よ。よそ者が迂闊に足を踏み入れたりしたら、彼等に怒られてよ」
 成る程……。ようやく納得しながら、ジリオはあらためて息を吐いた。
「もう怒られてしまいました。街道があまりにも物々しいので、地図だけをたよりに格好の抜け道と思い森を通過しましたが……。礼を失した行いでした」
「そうね。街道は今、不穏だわ。……それでお前は何をしに来たの?」
 少女はまだ追求の態度を崩さない。いかにそれらしくない風体の男とは言え、よそ者であるということに違いはないのだ。
「あ……、どうか信じていただきたいのですが、私は宮廷側の人間ではありません。
 私は今、アルアニス卿について話を集めている最中なのです。それで、こちらには彼の方が特に懇意にしていた方々がいると聞き及びまして…………」
「卿の……話を……? なぜ……?」
 少女はまだ眉を曇らせていたが、声にはもうほとんど暗いところがなかった。それよりも、興味の方が克ち始めている。
「以前、些細な御縁で卿とお会いしたことがございます。大変素晴らしい方とお慕いしておりましたが、あのような非業の死を遂げられて……。なんだかとても納得できないと思いましたので、心の赴くまま卿の人生を辿る旅を始めたのです」
「そう……」
風が鳴った。
 少女は悲しげな微笑みを見せると、完全に緊張を解く。成人女性にしては短い髪の毛を揺らして、親しげに首を傾げた。
「わざわざ森を越えて……、大変だったわね。館へいらっしゃい。お食事を差し上げるわ」
「……よろしいのですか?」
ジリオは驚いて言った。
「自分で言うのも何ですが、私のような、その……得体の知れない者を……」
 するとこともなげに少女は笑って横顔を見せた。
「大丈夫。父様は何か言うかも知れないけれど、この森を越えてきたのだと言えば安心なさるわ」
「……?」
「私たちに仇成す者であれば、『あの人達』が通すはずがないもの。
 あちらの人間でなくてよかったわよ、お前。もしそうなら今頃、お前はどこかで惨めに飢え死んで、二度と太陽の光など浴びることなど出来なかったでしょう……」
 黒衣の少女は少し浅黒い肌をしている。それは彼女が生粋の東部民である証だ。伝説を思い出した。
 青杉はやがて人間の女と交わり子を成した。その血脈は延々と続き、現在のロシャ男爵家へと辿り着く。だから、男爵家には今も精霊の血が流れている。彼等は神々の声を聞き、それを通訳する――――。
「いらっしゃい、ジリオ」
 にっこりと微笑んだ施しの少女の後ろに、青年は大人しく従った。
ディオラント、と呟きながら……。




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