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故森幻想
The Dream Killing You
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トリエントーレ建国以来、三十年の長きにわたり宰相職を務めていたオッシア・アルアニスが、王都イリアを放逐されたのは大陸歴一三一四年のことだった。もちろん形の上では正式な異動であったが、慰め程度の領地と、微々たる収入のみをもたらす意味のない肩書きを幾つも付与されているだけで実際には「追放」に他ならなかった。 齢五十を越していた卿は、逆らう素振りも見せずしなびた東部に身を移し、読書と散歩とに明け暮れる日々を送り始めた。 伝統的に反中央の思想を持つ東部は、当然彼に同情的であった。とりわけ旧来からの大貴族ロシャ男爵は、アルアニスの着任当時から何かと連絡を寄こし、ともすれば出不精になっていた彼を盛んに邸宅に招いた。 さらに一ヶ月後、大風によってアルアニスの邸宅が破損すると、遠慮するのを説き伏せて邸宅内の離れを彼に提供。こうして、アルアニスは一年の在任期間ほとんどの時間をロシャ男爵領で過ごすことになったのである。 「ここが卿のお使いになっていた離れよ」 大きな扉に白いレースがまとわる前で、レンシアは蝶のように手を拡げた。彼女の黒いスカートはゆったりとして何処にも止め金がなかったので、風を孕んで大きく膨らみそうになる。少女はまるで子供でもあやすかのようにそれを優しく押しとどめた。 離れは木造の瀟洒な建物で、高い天井と複雑な切り子模様の床を持っていた。東部建築様式の傑作を目の当たりにして、ジリオは思わず唸り声をあげる。 「これは……、素晴らしい。それにご生前のままですね」 「一週間に一度は掃除しているの」 と、レンシアは嬉しそうに答えた。 部屋のなかは元々そういう設計だったのだろうが、とにかく本が目だった。ジリオは反り返るようにして天井まで届く本棚を見上げる。 「これは全て、卿の……?」 「ええ。前の邸宅に置いておくと痛んでしまうからと言って、全部持っておいでになったの。引っ越しの時もすごかったらしいわ。なにしろ荷物は馬車二台分、そのうち一台と四分の三までが、全部書物だったのですものね」 政治、哲学、科学、韻術、修辞学、詩学……内容はてんでばらばらだった。色気のない、分厚い本ばかり。ジリオはなんだか笑ってしまう。 「これではちゃんと生活しておいでだったのやら」 「読み物に没頭なさると、平気で昼など食べずに過ごしておいでだったわ。その度私が呼びに来て……」 いつも庭から入り、今立っているこの扉を開けた。すると卿は今ジリオが立っている木の机に必ずついていて、まるで夢から覚めたみたいな顔をしてレンシアを出迎えたものだ。 「あちらは?」 ジリオが右の扉を指して訪ねた。 「そっちは寝室よ。左は玄関に通じているわ」 読書の好きな男爵が立てた、ほんの小さな離れだった。しかし彼にはこれで十分だったのだという。 東部での卿の生活の大部分は、読書と思索だった。何か足りないものはないか、退屈ではないかという老男爵の世話好きな問いに、いつも『これが心願の生活でしたので』と首を振って笑っていた。 「夜は意外と遅くまで起きておいでだったわ。宮仕えで夜更かしには慣れていると仰って…………」 ふと、心地よさげに記憶をさまよっていた少女の目が現実へ下りてきた。 ジリオも振り返る。彼女が玄関へ通じる道だと教えてくれた左の扉の向こうから、力強い足音が響いてきたのだ。 「姫様! ……姫様!」 その声にレンシアはちょっとだけうるさそうな顔をすると、呼び返す。 「ここよ! キール」 扉が開くとそこに一人の騎士が姿を見せた。 黒髪を刈り込んだ三十くらいの男で、いかにも真面目そうないかつい眉をしている。入ってくるなりジリオの顔を睨み付け、それに飽いたかと見えた頃、おもむろにレンシアの方へと体を向けた。 「姫様! 昼間あれ程申し上げましたのに、お一人で森へ行かれましたな? その上、得体の知れぬ男を拾って参られたとか。大概になさいませ」 「拾って」来られた当のジリオは目を真ん中に寄せて天井を見上げる。 「怒鳴らないで頂戴、キール。彼は大丈夫よ。その森を通り抜けて来たのをこの目でちゃんと見たのです。それともあなたは、あなたの先祖も眠るあの森を信用できないとでもいうの?」 「そうではございませんが! このような時期に外部の者を!」 「それではあなたの目でよく確認なさい。そして気が済むまで尋問すればいいわ」 「……そうさせていただきますとも!」 途端にずかずかと歩み寄ってくるのでジリオは二、三歩と後退する。騎士は東部には見られないジリオの金髪と、女みたいに細い顎、締まりなく苦笑を浮かべている唇などを改めてじろじろと見回した。 が、やがて、 「うん? お前、どこかで……」 その眉が不審げに上がる。しまいに素っ頓狂な声が出た。 「……ああ?」 ジリオは笑いながら両の掌を見せた。 「お久しぶりです……。お武家さま」 「お前……! イステルの……!」 「ジリオと言います。あらためて宜しく」 彼のほうは顔を合わせた瞬間から気がついていたのだ。このキールと呼ばれた凛々しい騎士は、公国での勤務中ずっと卿に貼りついていた護衛役のあの男であると。 「まあ、あなた達は顔見知りなの?」 主人であるレンシアの問いに、驚きと困惑のないまぜになった複雑な顔で騎士は答えた。 「……はあ、一度だけイステル公国で……。確か騎士団長シバリス・クレイと一緒に……」 「記憶力がいいですねえ」 「なぜお前がここにいるのだ?!」 「今、私は卿の人生を辿って彼に関する話を集めているのです。お話を聞こうと思いまして……、宮廷側の警戒厳しい街道を避けて森から」 くるり、と白い指を空中で回す。 「…………」 「そういうことなのよ、キール」 黙ってしまった騎士に、レンシアが言った。 「もう疑念は晴れたでしょう。この人は味方なんです。 あなたに悪気がないのは分かっているわ。さあ、機嫌を直して館で一緒にお茶を飲みましょうね」 と、彼女はまるで母親のようだ。背の低く幼い彼女に言いくるめられた騎士の大きな肩が滑稽に見えた。 人の悪い笑みを押さえながら離れを出るジリオの背中を、騎士は恨めしげに睨み付けていた。 邸宅は離れにも増して趣深く、落ち着いた建物だった。名前も知らない独特の透かし彫り――、ディオラント紋様とでも呼ぶべきだろうか、名工の手になる植物が館の随所でとぐろを巻いている。館自体が一つの森といった感じだ。 独特というならばこの緑色の茶もそうだ。苔を乾燥させて湯に溶かすのだという。ジリオにはやや青臭い味だったが、飲み下せないものではない。旅する彼は様々なものを消化する術を心得ているのだ。 仏頂面(これが普段の顔なのだろう)の騎士の隣で、彼はレンシアから問われるままに今までの道のりを喋った。 二ヶ月ほど前に養父シバリス・クレイの元を出て旅路についたこと。クレイの用意した偽の通行証で面白いほど簡単に首都に潜り込み、生存する証人を訪ね歩いたこと。彼等から受けた好意的なもてなし、或いはおびえの籠もった拒絶の扉。そして―― 「イリアからここへ直接来たの? 間違いではないけど、卿のご友人はあちこちに散らばっておいでなのを知っている?」 「ええ。私もいずれこちらには必ず来ねばならないと思ってはいましたが、地理的に近いところから訪ねて行って最後に東部、と考えそうするつもりでいました。しかし、イリアを出た頃、……その、とある噂を聞きまして……」 ジリオはそこで躊躇を見せた。今まで蕩々と喋っていた彼のつまずきに、騎士も視線を向ける。 「あなたをこっちに向かわせたのはどんな噂?」 「いや……もしかすると、やや不愉快なものかも知れませんから……」 「平気よ。中央の人達が何を言っていようが私は傷つかないわ。教えて頂戴?」 奇妙な迫力の少女から逃げるように視線をさまよわすと、騎士のそれとぶつかった。彼の求めていることも同じのようだ。仕方なく、ジリオは白状した。 「……それはその、口の迂闊な行商人が話していたことで……、ロシャ男爵領内に、卿の子供がいるらしい、ということでした」 レンシアとキールは驚いたように顔を見合わせる。それを見たジリオは、やはり黙っておけばよかったと思いながら、くしゃくしゃと見苦しく付け足した。 「……あの、もしそれが本当なら、卿が深く情を交わしたご婦人がこちらにいらっしゃることになります。それでその……申し訳ありません」 と、どんどん調子が悪くなる。レンシアが面白そうに笑い出した。 「ふふふ……、謝らないで。なんだ、そんなことだったの」 「え?」 きょとんとするジリオに、騎士が苦々しげに言った。 「これだからよそ者はいかんのだ。姫様がお召しになっているものを見て、気がつかなかったのか?」 「そんなことを言っても仕方がないわ、キール。こういう服を着るのは東部だけのことだもの」 とりなすレンシア。そのばら色の頬を眺めるうち、ジリオの脳にもじわじわと彼等の言うことが飲み込めてきた。 「……え……それでは…………?!」 誇り高い微笑みで、少女はジリオの驚きに応えた。繊細な手が、まるで縛りのない彼女の黒い衣服をなぞり、腹へ落ち着く。 「…………!」 華奢な彼女の周りから何か熱いものでもこぼれ落ちているような気がした。森の母の強い眼差しで少女は遠く憐れな中央を嗤う。 「噂は本当よ、ジリオ。……あの人の子は今、お腹の中にいます」 レンシアの茶色い目に微かな潤みが宿った。 「彼が東部を去るときに、神が私に与えてくれた『青杉』なの……」 ―― 苔の精は風の精の子を孕んだ 嘘ではなかった。 確かに子供はいるのだ。彼女の体の中に。 ジリオは森で感じたような手足の痺れに戸惑いながらも、隣の騎士が微かに表情を曇らせたのを目の端に素早く捉えていた……。 * 『……ある貴族の方がどういうわけか私のことを非常に好いて下さってましてね。ここへ来るまでは随分親切にしていただきました。世の中にはそういう方もいるのですね。 ……そこに若い娘さんが一人おりまして、三人姉妹の末子ですが、二人の姉のように結婚するのが嫌だと言って男の子のような髪の毛をしてるんです。 とても面白い子で、手紙をくれろと言われたのですが、私信は残らず封を切られる始末でして。仕方ないので信頼できる男に――先程の騎士ですが――渡してわざわざ届けてもらっています……』 |