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故森幻想
The Dream Killing You
= 3 =
レンシアは父と森と本とに育まれた子供だった。年の離れた姉二人は彼女が物心ついた頃にはもう婚姻の年齢を迎えていて、ほとんど交流のないまま他家へ嫁いでいった。 少女は老男爵の深い愛情、規律正しい騎士達の敬愛の中で,、まるで若木が枝を広げるように自由に育った。一人で好きなだけ森を歩き回り、帰ってくれば館の東の一角を占める父の大きな書庫に潜り込んで書をめくった。 薄暗闇の中に浮かび上がる精霊の姿。嵐の夜は力強い大男が空ととっくみあいをしているのだと思った。風、花、空、森、全てが彼女を受け入れ、彼女を祝福して周りで幸福に跳ね回った。 東部では古来から、末に産まれた女の子はもっとも霊感が強いと言われている。彼女はその点でまさに男爵家の末娘だったのだ。 だが、老男爵の「いつか大人になるときが来るのだから今はあれの好きにさせてやりたい」という口癖が、現実のものとなる日もやはり来た。彼女が十六の春、上の二人の娘に婚姻をもたらした少女の伯母が、そろそろあの赤ん坊も適齢期になっただろうと見計らって、彼女を訪ねてきたのである。 読書の時間を邪魔され、呼び出されたレンシアは、客間に座るいやらしい伯母の笑み皺、悲しげにしおれている父男爵の横顔を見るなり、何かおかしなことが起こっているのだと本能的に察知した。 伯母は警戒する彼女に構わないで、えらく大きな肖像画を三つ見せた。そしてそのうちどれが最も「好ましい」と思うかと彼女に尋ねたのだ。 どれも見知らぬ少年の顔だったので彼女は迷った。 「これは一体なんなのですか?」 困惑して訪ねたとき、老男爵の首がまた一際深く垂れたような気がした。 「あなたの将来の旦那様を決めるのですよ。嬉しいでしょう?」 レンシアは結婚について何も知らなかった。ただ、この家から出ていくことだという以外は。 「……いやよ! あたしはどこにも行かないわ」 一見大人しげな少女が突如として翻した反旗に、伯母は気分を害した。最初はあなたの気持ちも分かる。でもそのうち慣れて相手の家があなたの家になる、などと言っていたが、頑として少女がうんと言わないのを見ると、まるで森に棲む鬼のような顔になって男爵に食ってかかった。 やはりあなたの教育が悪かったのだ。母親がいないとすぐこの始末だ。こんなひねくれた娘がこの後どうなるか分かったものじゃない。今からでもいい、すぐに女学院に入れるのだ。 そして少女を捕まえようとした。何もすぐ女学院に連れていくつもりでも無かっただろうが、少女には同じことだ。 レンシアは扉を破って逃げ出した。後ろから家庭の悪魔のように追いすがる伯母、そして慌てて走ってくる気の毒な父を書庫の扉の錠で食い止めた。 大人達が焦り狂って鍵を探し出し、扉を開いたときにはもう遅かった。燃えさかる暖炉を背に無言のまま立っていたレンシアの姿を見て、伯母は悲鳴を上げる。 足下に栗色の髪の毛がまき散らされていた。そして古びた銀色の鋏一丁。 何が起こったのか、二人の大人はようやく理解した。レンシアは耳元までがむしゃらに髪を切って、成人女性たることを厳然と拒否したのである――――。 * ジリオは男爵から邸内に一つ部屋を与えられ、領内に留まる許可を与えられた。真っ白い髪の毛を清潔に刈り込んだ男爵は武人らしく矍鑠(かくしゃく)としていたが、娘には滅法弱いことが一目で知れた。 「ジリオと言ったか。……お前、どことなく卿に似ておるのう」 その意見に、レンシアはジリオの髪の毛のせいだと言う。 「気のせいだわ、父様。金髪だし痩せてるからって」 「そうかの。西の人間の顔は生白くて見分けにくいわ……。そうじゃ、お前の青杉も金髪かも知れぬな」 「そうでなければきっと私やお父様のように栗色よ」 親子の会話を前に、ジリオはただ黙って微笑んでいた。 その後レンシアは彼を書庫へ案内した。一面を暖炉に割いてある正方形の書庫は、あの離れなど問題にならないほどの規模だった。 ジリオは個人の邸宅にこれ程見事な書架が備えられているのを見たことがなかった。 「こいつはすごい……。一体どれくらいあるんですか」 あまりに膨大すぎてどこから目を当てたらよいのか分からない程だ。ジリオは取り敢えず目の前の書棚に歩み寄りながら尋ねる。 「五百冊と聞いたわ。でも古い本ばかりなの。卿の蔵書はこれよりもずっと小規模だけれど、でも新しく珍しい本がたくさんあるのよ」 「これ、全てに目を通されたんですか……?」 「ジリオ。私は十六からまるまる二年間、館の中から出なかったのよ。離れに卿が越していらしたことすら知らなかったの。朝起きたら部屋でご飯を食べてそのまま書庫へ。暗くなるまでここにいたわ。 ……五百冊なんて、あっという間よ」 それでもジリオは首を振る。それに二年間何処にも出なかったという日常は想像がつかなかった。同じ頃、彼はまるで浮き草のようにあっちこっちふらふらしていたのだから。 「……卿が、あなたをここから?」 「そう。私はこの階段のてっぺんに座ってね……」 「姫様」 と、彼女が躊躇もなく階段を上ろうとするのを止めた。 「お体にさわります」 「……そう。そうね。……じゃあ、役割を変更しましょう。 あなたが上へ登って」 言われるままジリオは、ぎしぎしと鳴る階段を一段ずつ踏んで天辺へとたどり着いた。 高い。 「っと……、まるで天国ですね」 バランスに注意しながら、体を入れ替えて骨の上に座る。勝手に足がぶらぶらした。 「そう。そこにいたのよ。そうしたら彼はノックもしないで入ってきてね……」 『こんにちは、レンシア』 「こんにちは、レンシア……」 『本をお借りしたいのですが』 「本を……」 口を噤んだかと思うと、レンシアはジリオを見上げ、にっこりと微笑んで見せた。遠いその目が潤んでいる。 ――― 扉を開けて、痩せ男は入ってきた。 砂色の髪の毛……、よそ者だった。危険そうな男では無いけれど、と用心深い彼女に『ディオラント民話集はどこですか』と尋ねる。五百冊の場所を全て把握している彼女は教えてやった。 彼は書庫を褒めた。また来てもいいかと少女に尋ねた。私はあなたのお父様のご好意で離れに住んでいる。そして自分もささやかな書庫を持っている。もし、よろしければ。 ……あなたは私に髪を伸ばさせようと言うのではないの? 私をこの家から連れ出そうというのではないの? 新しい書庫にうずうずと惹きつけられながら、まだ少女は疑いを棄てていなかった。 手強い彼女に卿は腕を組み、苦笑する。 『私がいつそんなことを言いましたか? 私は妻帯者ですが、あなたに結婚を薦めたりはしないと思いますよ。その短い髪の毛もかわいらしいと思います。 私は暇だから、あなたと本についてお話がしたいだけなんです。だから気が向いたら、離れに遊びにいらっしゃい』 そしていなくなった。 驚いた少女はすぐにその背中を追いたくなっただろう。掴んでいる階段の骨に、瑞々しいわななきが残っているような気がした。 果たして少女は梯子から下り、久しく踏んでいなかった玄関の敷物を踏んだ。そして突然現れた思いがけない理解者に会うために、離れへ向かったのだ。 レンシアが外へ出た。それを聞かされたときの老男爵の喜びは、いかばかりであっただろう……。それ以後、卿は彼の娘にとっても、非常に重要な客人となったのだった。 一人になってジリオは中庭を歩いた。卿も踏んだであろう青草を踏みながら、噴き出す物思いに耽っていた。 やがて向こうからキールがやって来たので足を止める。彼の方は自分のつま先だけをみて何やら一心不乱に歩いていた。ぶつかるという一瞬手前で、ようやくジリオの存在に気がつく。 「おっ……。……お前か」 「私です」 「西の奴らはみな人を喰った物言いをしやがる。……見ろ」 と、彼は持っていた粗悪な巻紙を芸人に押しつけた。 破かないように注意深くそれを拡げたジリオは中身を目にした途端、殴られでもしたみたいに軽く顎をのけ反らせる。 アルアニスの幼女趣味について、それによって孕んだ東部貴族の好色な娘……、二人の秘密の儀式……、異教のまぐわい……。眼球を水で漱ぎたくなるほどの汚らしい文言が踊っていた。 すぐに巻き戻して騎士に返した。彼も不愉快そうに目の下に皺を引いている。 「中央の連中は技術だけは立派だが、肝心のおつむは退化しているようだな。……だが、これで取り敢えずお前の言い分は確認された」 「疑ってたんですか?」 「俺は誰であろうと、よそ者は信用せん。これからもあまりおかしな行動を見せるなよ。姫様が何と言おうと、斬り捨てるぞ」 「そりゃ痛そうだ、気をつけます。……ところでキール、私はあなたのお話もお聞きしたいのですが」 「俺の?」 「ええ。卿にまつわることについて……。出来れば、その最期も……」 アルアニスが死んだとき、側についていたのはこの男だけだ。今までにジリオが集めた情報によると、卿を刺した「愛国青年」を真っ二つにしたのもキールのはずだ。 だが騎士は、一層不快げな色を深めただけだった。 「姫様から受けたご命令は、卿を守れということだった。任務に失敗した俺に、卿のご無念を語る資格があると思うのか」 彼を脇に押しやるようにして歩き出す。ジリオは小走りになって男の後ろに従いながら、尚も言った。 「でも彼の最期について知っているのはシルバート伯爵とあなただけです。しかし伯爵、つまり宮廷側はでたらめを流し、全ての咎を卿に着せようとしているばかりだし……」 宮廷側は彼の死の直後から、口無しとなったアルアニスに対する中傷活動を盛んに行っていた。現在起こっている国内での不具合のほとんどを死んだ彼の責任に帰することで、国民の不満の矛先をかわそうとしたのである。 特に宮廷側がその財力にものを言わせて行ったのが、印刷による中傷文の配布だ。 その内容はあまりに下劣で、政治とは直接関係のない……主に男女関係ばかりが取り沙汰された。そのような紙があちこちで散々ばらまかれ、印刷技術の独占を前に為す術もないまま死者は冒涜され続けている。 騎士は足を止め、半歩遅れて追いつくジリオの鼻先に指を突きつけた。 「その通りだ。お前がこちら側の人間であると言うなら、お前のすべきことは明らかだぞ」 「……何をしろと?」 「分からんのか。それとも、とぼけているのか? 真実の卿の姿、特に姫様とのことについて、美しい歌を作るのだ」 ジリオの飄々とした表情から茶が抜けた。 「……そして、どうしますか」 「分かっているだろう、宮廷の行動に対抗する。歌ならば、この忌々しい紙屑にも打ち勝つ力がある。来るべき弔いの戦いのために、そういう小道具が必要なのだ」 ……この男はどうも、予想以上に頭がいいらしいとジリオは思った。 いかさま左様、自分も宮廷側の行動のあまりの心無さに反発を覚え、こんなことを始めたのだ。 だが……。 「……しかし、私の技術など拙いものですから、下手に作曲などするよりもこちらの民謡を少し編曲して使った方が簡単でより効果的ですよ」 持ち前の軽さを取り戻しながら、慎重にジリオは言う。 「とりわけ、そうだ、あの杉の話なんか打ってつけですよね。卿がよそ者であるところと言い、謀殺されたところと言い、物語が重なり合って具合がいい。 あ、そういえば姫様自身、子供のことを『青杉』と仰って……」 「何も神話を引っ張ってくることはないだろう。兵士を鼓舞する調子のいい歌であればいいんだ」 遮る騎士の顔が何かに引っかかって斜めに歪んでいた。 「しかし、東部ではもう常識と言っていいほど浸透した話なのでしょう? たしか男爵様もそう……」 「卿は伝説など信じるような方じゃなかった。恐らく心の底では東部民のあまりの迷信深さに呆れておいでだっただろう。 お前と同じように所詮、外つ国の人間だった彼と伝説とは、切り離した方がいい。 ……ともかく、俺は忙しい。お前も卿に少しでも恩があるというのなら、為すべきことをさっさと為せ、姫様のためにもだ」 騎士は決めつけると、館へ入っていってしまった。ジリオは無表情のままそこに突っ立って、彼の消えていった扉の蘇芳を見つめる。 『気をつけろよ』 とは、シバリス・クレイが手紙で言ったことだ。 『東部民は誇り高き尚武の民だ。徒に好戦的ではないが、攻め込まれれば反撃し全滅も辞さない。宮廷軍が今以上に包囲を狭めればあの男爵は――――』 打って出るかも知れない……。 元来、厳格な東部は華美に溺れる中央に対し批判的だった。そして卿の暗殺以来、両者の対立は深まるばかりである。 ジリオは顎を引いて、唇の両端に力を込めた。 ……けれど、なぜだろう。 あの騎士は戦いのために、卿と姫のことを歌にすることは薦めた。というか命令した。それなのに、その歌がこの地に根付いた伝説の形を取ることには反対する。 彼は自分の血にも流れている土地の伝説を信じていないのだろうか。それとも優秀な彼のことだ。醒めていた現代人アルアニスと付き合ううちに「外部の目」とでも言うべきものを獲得した稀有な東部人なのかもしれない。 もしこの緊張が水平に発展し、宮廷対反宮廷、などという大がかりな形を取るようになれば、東部以外の軍隊が男爵側に加わる可能性もある。そうなれば土着的な感覚の歌はかえって反宮廷軍の分母を乱すことになるだろう。それならば、万人が気持ちよく理解できる単純な韻律を持った歌の方が危険が少ないが…… 「……なるほど?」 ジリオは独り呟いた。 どちらにせよあの男は、本気で宮廷と一戦交える気らしいな……。 * あ。 と自分の口が吐き出した音が聞こえた。 それがあまりに無垢な響きだったので、なんだか時間が止まるんじゃないかという気がした。 だが、銀色の先端はどこまでも、どこまでも埋まっていった。目の前の痩せた男の胸にそんな深さがあったのか――――。 呆然とする中で今度は赤い刃が抜かれていく。そして卿の温い鮮血が、風に乗って自分の丸いの目の前を舞ったその瞬間、彼の理性に誰かの指が入り、それを左右へと引き破いた。 獣じみた叫びが喉元からほとばしった。無意識のうちに剣を引き抜きながら、なおも卿を傷つけようとしていた男に右肩から体当たりをする。 危険な行動だった。男の持っていた短剣が彼に刺さっても不思議ではなかったのだ。しかし返り血を浴びた男は、跳ねとばされた拍子に剣をとり落とした。 ひゅうう、と自分の喉が鳴る音が聞こえた。全体重をかけて振り下ろされた白刃に、男の体は肩口から醜く真っ二つになる。 どん、という鈍い手応えと共に、剣先が地面に埋まり、その衝撃に騎士の掌が滑り落ちた。 「ッ……!」 尻餅をついてから、男の崩れる体、悲鳴、広がる人垣がようやく脳で処理される。 「……卿……!」 無我夢中で立ち上がり、今度は卿の体へ走った。場に横たえられた彼は後ろを一人の侍従に支えられ、傷ついた胸を左手で押さえ、苦しそうに息を吐いていた。その荒事に似つかわしくないか弱い指が、もはや抑えようのない鮮血にどんどん染まっていく。 「……卿……ッ!」 「あなた、何も……あそこまで……」 泣き出しそうなキールの顔を見て、卿は紅のひかれた唇で笑った。騎士の肩を空いた方の右手でぽんぽんと叩く。 「……い、医者はどうしたのだ! 早くしろ!」 騎士は振り向いて力任せに怒鳴りつけたが、周囲の人間達は彼をなだめるかのように、今呼びにやっていると言うばかりだった。そして誰一人動かず、誰も彼と目線を合わせようとはしない。 「き、貴様ら……」 ―――― 謀られた……!! 彼は慄然とした。医者など絶対に来ないのだ。ここは人でなしの集う魔窟、宮廷であり、この神無き地に周りは敵だらけなのだ。 自分は今、たった独りなのだ…………! 「よくも……!」 絶望し青ざめたキールの頬に、冷たい手が触れた。 はっとして彼の方を見ると、こんな時に笑いながら卿が言う。 「まくら……、ほしいな」 「はっ?」 思わず屈み込むように問い返したキールの目から涙がこぼれた。それが彼の首筋に落ち、血の赤に穴をつくる。卿はしかしくり返しはしなかった。力の抜けたような騎士の頬から手を離すと、 「世話になりました……、ありがとう」 ぽつりと言った。 「!…………」 その瞬間、思いも依らないほどの愛しさが溢れ出してきて、キールは後頭を叩かれでもしたかのようにどっと泣いた。肩を震わせながら、ただ為す術もなく首を振る。 ――――ふいに、卿の眉が苦しげにひそめられたかと思うと上体が痙攣を始めた。最初は微妙なものだったが、段々と揺れが大きなものになってくる。 「卿! 卿……! しっかりしてくださ……!」 キールは必死で彼の肩を押さえたが、ようやくそれが収まったときには、縦に引きつるようになって、アルアニスはもう死んでいた。 「…………!」 騎士は完結してしまった一つの事実に、死という厚みのない終点に、為す術もなかった。卿の体からじりじりと体温が抜けていくのをどうにかしようと、意味もないのにその体をかき抱く。 最後には男性が二人がかりで、諦めようとしない騎士を卿から引き剥がした。 キールは殺されなかった。公衆の面前で卿が殺されたことについて、宮廷側としても生き証人が必要だったからである。 卿の亡骸と共に帰郷した彼は、そこで初めて東部独特の妊婦着に身を包んだレンシアの姿を目の当たりにしたのである。彼は膝を落とし、主人たる少女に、地にこすりつけるほど頭を下げて、卿を護れなかったことを侘びた。 そしてその後まもなくだった。騎士キールは宮廷との戦いを仲間の騎士や老侯爵に熱く訴える、主戦派の急先鋒となったのである。 |