<< novels <



故森幻想
The Dream Killing You
= 4 =




「―――街道はますます緊張しています。昨日、男爵の私兵と、街道を監視している国軍兵士が小競り合いを起こしたとのことで、兵士や騎士達が目に見えて殺気立っているのです。この手紙は何とかあなたもとへ届くでしょうが、この先はどうなることか本当に分かりません。
 ……私は相変わらず令嬢を相手に、聞き取りを続けています。昔実に引っ込み思案な少女であったという彼女ですが、このような状況の下で今や一人の戦う語り部となりました。
 彼女は語ること、そして腹の中に赤子を抱えているということ自体を武器にしています。子供は卿が彼女に、彼女が卿に捧げた真摯な愛の証であり、それ自体が宮廷の宣伝工作に対抗する一つの有効な象徴なのです。
 騎士キールは伝説と卿との関係を否定しましたが、領民達がそう受け止めることは避けられません。事実、卿は今や『地の精』たる宮廷にだまし討ちにされた気の毒な『風の精』として、そして腹の子供はいつか親の敵を取る『青杉』として扱われているのです。
 危険な状態であると言えるでしょう。もしもこのまま令嬢やその子供のために東部世論の硬化が進めば、早晩宮廷側から何らかの反応が返ってくることは必至です。卿に刃物が振るわれた事実を考えれば、それが直に令嬢やその胎内の子供に牙を剥く過激なものである可能性も否定できません……。
 しかし騎士達は警戒を強めているのに、令嬢本人は落ち着いています。彼女は『青杉』が母を助けてくれると信じて疑っていません。
 それは無論、根拠のない確信です。
けれど、ざわめく不動の森を背後にそう微笑みながら言われると、この私でさえ槍の切っ先、刀の白い稲光を一瞬忘れ、彼女も東部も大丈夫なのではないかと思ってしまいます。
 彼女は森に棲む神々と直接会話をします。私がどれほど近代的な知識でもって『森とは木の寄せ集めに過ぎない』などと宣ったところで、そんなことが彼女に何の影響をもたらすでしょうか。
 この世界には所詮、自分が真と信じられるもの以外の真実などないのですから、神話は彼女の真実に他ならないのです。』



*





 少女レンシアが書庫から出て一週間ほど経った頃から、卿は彼女に一種の講義を行い始めた。これは父男爵が彼に依頼したことで、気ままに本を貪っていた彼女に、理論だった文章の読み方を教えて欲しいとの希望だった。
 卿は快く承知し、午後、ほとんど毎日、二人は離れで勉強をした。卿にすっかり心を開いていたレンシアにとってもその時間は愛しいもので、彼女から講義を休むと言うことは本当に一度もなかったくらいである。
 それどころか卿が「所用のために」家を空け、その間講義が滞るようなことがあると、彼女は拗ねこんで書庫に籠もった。そして再開した日の始めには必ずちょっとした恨み言を並べるのが常だった。それに対し卿は微笑みながら、しかし丁寧に謝ったものだ。
「あなたの感性は実に深くて素晴らしいですね」
 と、卿はある時を境に彼女に文章解釈の技術を教えることを取りやめてしまった。
「こんなつまらない文明の約束事で、その想像力を狭めてしまうのは無益ですよ」
 卿はいつも少女の感覚の鋭さ、その小鳩のような思考の自由さを讃えていた。
「無理に賢しくなることはありません」
 それでも心配する父男爵に彼は言う。
「光に向かって一途に伸び盛る力を持った魂は、世界にも驚くほど稀有なんですよ」
 レンシアは日を追うごとに卿を好きになった。穏やかな灰色の眼差し、安心をもたらす手、全てを許容する心優しさ、落ち着いたその声。彼の存在そのものが彼女の心に安らいだ暖かみを点した。
 二人で静かに本をめくっている昼下がりには、この時が永遠に続けばいいと思っていた。卿はありのままの少女を受け入れ、それを曲げることなく、育んでくれたのである。



「――だから私も、この子が生まれたら生まれたままの器で育てるわ」
 愛おしげに両手で腹を押さえ、レンシアは美しく微笑んだ。
「私がしてもらって嬉しかったようにしてあげるの」
 赤裸々な母性が、少女の中から惜しげもなくあふれ出してきた。それに直撃してしまったジリオは、冷静でいるのに苦労する。心臓がじりじりと焦げるような、何とも言えない気持ちがした。
 ……アルアニスがこの少女を枠にはめたがらなかった気持ちが分かる。レンシアには、文明の持つ嫌みったらしさや衒いの罪悪がないのだ。
 愛すること、産み出すこと、言葉をかけること。自分が最も苦手としている諸々の柔らかい人間的な営みを、ひどく自然に行うことの出来る女性なのだ。当たり前だが、確かに類い希な才能である。
 頬を染めて幸福そうに笑う彼女に、照れ屋のジリオが唇を噛んだ、その時だった。
 ――突然中庭の方が騒がしくなって、ジリオははっと現実に目覚めた。最近は中庭にも騎士が随時立っている。それほど事態が切迫しているのだ。
 数人の男が叫んでいる声が聞こえるが、内容が聞き取れない。ただ、不穏な空気だけが伝わってくる中で、ジリオはともかく立ち上がる。中庭に面した出入り口に対し、少女を背中に庇った。
 がた、がたっ、と近場で音が飛び上がった。ジリオが華奢な全身を緊張さした瞬間、目前の木の扉が蹴破られる。
 一見使用人といった格好をした若い男が飛び込んできたが、その血走った目に見覚えはない。「刺客」などという言葉の浮かぶ前に、男は誤差のないなめらかさで身構えると同時に、腰から細身の短剣を抜いた。
「……姫様、廊下へ」
 言い捨てて、ジリオも携帯用の剣の鞘を払う。旅の安全を確保するために、長らく愛用している母の短剣だ。だがこんなものがこの男相手に、本当に役に立つだろうか……。
 そんなことを思ったとき、廊下に通じる扉が開いてキールが騎士を引き連れ、飛び込んできた。場違いなほど落ち着き払っているレンシアを、左右から隠すように立ちはだかる。
 不利になった状況を前に、男の顔に悔しげな色が浮かんだが、躊躇は一瞬だった。明らかに未経験な目の前の優男に向かって、大きく踏み出す。
 ぶん、と刃先が唸るので、威圧されたジリオは思わず退いた。その隙を逃さず、今一度中庭へ駆け出していく。
「馬鹿野郎! 逃がすな!」
 ほっとしそうになったジリオの背を平手で殴りつけると、キールも走り出した。慌てるジリオと同時に二、三人がそれに続き、残りはレンシアを取り囲んだまま動かない。
「大丈夫よ、みんな」
 少女はまるで予言でも告げるような厳かな瞳でそう言った。
「心配しなくても、森が私達を護ってくれるわ……」



 男はしつこい追っ手から逃げに逃げて、とうとう以前ジリオが飛び出してきた獣道から森へと入っていった。遅れた二番手を走っていたジリオは森の手前で、頑健な騎士の体が凍り付いているのを見る。
「キール! 何している、追わないのか!」
 後から追いついてきた別の騎士が、ジリオの疑問を代わりに口にした。
 キールの反応は変だった。強張った青い額には冷や汗が流れ、どうしても森へ入っていけないらしいのだ。
「……すまん、行ってくれ」
 とうとう、唖然としている同僚にそう言って、彼は道からどいた。二人の騎士は釈然としない表情を見せながらも、気を取り直して走っていく。
 ジリオは残り、苦しそうに眉を歪めている騎士を気遣った。
「……大丈夫ですか?」
「触るな」
と、あらかじめ肩を振るので、ジリオは大人しく宙ぶらりんの手を引っ込めた。
 騎士は大きく一度ため息をつくと、
「大丈夫だ……」
自分に言い聞かすかのように呟いた。
 やがて、騎士二人は暗殺者の亡骸を抱えて帰ってきた。が、体の何処にも刺し傷などがない。説明を求めるようなジリオの視線に、騎士は軽く顎をしゃくった。
「水苔に足を滑らして、後頭を大岩に打ち付けたんだ」
 それから至極当然だといった調子で付け加える。
「『彼等』が通すはずがないだろうが」
 今更ジリオの肌に泡が立った。
信じられないという面差しでキールを振り向く。騎士は頷いた後、もはや垂れ下がるばかりの男の顔からつと目を逸らした。



*





 幸福なレンシアの生活に終わりが訪れたのは、卿との邂逅から約十ヶ月後、一三一五年の夏のことだった。西の方イステル公国が崩壊したとの驚くべき報に続き、見慣れない紋章の馬車が盛んとやって来ては、彼女と卿の時間を邪魔するようになったのだ。
 館で父親が知り合いと交わす、苦々しい会話も耳にした。
「虫が良すぎる、今更卿に助太刀を頼むなどと」
と、父は首を振って嘆息していた。
「宮廷には人がいないと言いますが、なぜですか」
「軍服貴族のシルバート家に有能な行政官の当てなどあるものか。非常事態となれば、結局こうやって、一旦追放したものを権力によって呼び寄せるほかないのだ」
 客は吐息をついた。
「無様ですね」
「しかし……、卿もイステルには特別ご縁がおありのようだし、……もともと両国友好の立て役者だから……」
 閉じられた扉の前で、レンシアは絶望的な気持ちを味わいながら、その後を受ける男爵の言葉を聞いた。
「……卿としては……やはり、行かれたいだろうのう……」



 その午後も書斎で待たされた。募る不安に爪をいじりながら、レンシアはじりじりしていた……。
 やがていつもと同じようにゆったりした様子で彼は寝室から出てくる。そして何の説明もしないまま講義を始めようとした彼に、レンシアは聞いた。
「イステルに……行かれるのですか」
 驚いたような顔で、卿は少女の短い髪の毛を見つめる。そして唇が笑って、冗談になりそうになった。
「噂の方が速いってのは厄介ですねえ……」
「卿、教えて下さい」
 語尾をさらうと、少女は真剣な眼差しで身を乗り出した。
「イステルに……、行かれるのですか?」
 やっと男は真面目な表情になる。そしてちょっと躊躇った後、彼は頷いた。
「明後日の朝、発ちます」
 幻想の余地のない明瞭さだった。自分が伸び上がったのか世界が沈み込んだのか、少女には定かでない。
「昔お世話になった方がイステルで投獄され、苦しんでおいでなのです。……私は行かねばなりません」
 卿は静かに続けた。
「あなたとのお勉強を長く中断させるようなことになってしまって、本当に申し訳ありませんが……」
 その言葉が終わらないうちに、レンシアは涙をこぼす。彼女はイステルが何処にあるのかさえ知らなかった。だが、いかなる事情を話されようが同じことだ。行ってしまう、行ってしまうのだから。
 両手に顔を埋める少女を、卿は何とかなだめようとする。
「レンシア。任務が終われば帰って参ります。長くて……そうだな、一月ですよ」
 嫌。
嫌よ。一ヶ月もあなたに逢えないなんて嫌。一月もあなたの声を聞かれないなんて嫌。二度と帰っていらっしゃらないんだ。私を棄てて行かれてしまうんだ。私をまた、独りぼっちにして……!
 動揺したレンシアはただただ泣き続けた。困った卿は講義を諦めて、泣きじゃくる彼女を館へ送り届け、男爵に侘びた。
 卿はちゃんと帰ってこられる。遠縁の忠実な騎士キールも着けることにした。
 だが父の諭しや慰めは以前のように、彼女に何らの影響も与えなかった。少女は再び書庫に籠もり、まんじりともせずにじっと考え続けていた……。
 彼女は今まで、自分の幸福が一体いかなる偶然に支えられたものだったか、自覚したことがなかったのだ。森も、父も本も屋敷も騎士達も、全てはあらかじめ用意されたものだった。
 だが卿は違った。彼は外からやってきた人だ。だから、外へ帰っていってしまうこともありえるのだ……。
 寂しい寂しい、怖い……嫌……、行かないで。
 レンシアは彼に対し、自分が強い執着を抱いていることにようやく気がついた。それが父に対するものとも、森に対するものとも違う、何か特殊な感情であるということに。
 これは父様が母様を思っていたという、あれなのだ。数少ない恋愛小説に記されていた、あの不可思議で捉えがたい思想――――男女を神聖な結婚へと結びつける、あの感情なのだ。
 梯子の上で口元を覆う。なぜだか涙が溢れてきた。どうしてだろう。ただ私は、あの人を愛しているんだと気がついただけなのに。どうしてなんだろう……。
 夜が白み始めた頃だった。レンシアは灯りの側で、答えを求めるように本を広げ、頁をめくった――――。



*





「とにかく、どうしても卿に私の気持ちを言いに行かなくては、と思ったの」
 ジリオはただ頷いた。彼は顎の下で指を組み合わせていた。用意した紙に何か書き記すこともなく、黙って話を聞いていた。
「でも書庫の中で散々迷って、どうしよう、どうしようってやっているうちに……、まるで意地悪でもしてるみたいにすぐ夜になったわ。それでとにかく卿にお会いしようと思って離れに行ったの。
 卿は荷物の整理でまだ起きておいでだったわ。そして私が夜中にやって来たので、驚いておいでだった……。
 でも何か、用意していった言葉も全部どこかへ行ってしまって。また涙ばかり流れてしまって。
 ……卿が、頭を撫でて下さったわ。それで私言ったの。お願いだから行かないでって。髪の毛を伸ばすから行かないでって」
 私あなたのために大人になるから、行かないで。
「それで、あなたのことを愛していますと、言いました」
 静寂そのものの部屋の中に彼女の言葉は響いた。ジリオは微かに身じろぎする。
「そうしたら卿は抱き締めて下さったわ。
ありがとう、とおっしゃって……。
 その後は……一緒に寝室で眠りました。起きたら、やはり卿はいらっしゃらなかったけど……、行ってしまわれたけど……、気持ちは落ち着いていたわ」
 そして少女は髪を蓄える女になり――――、
「少し後、お腹の中に何かが産まれていると気がついたときには尚更……」
女は母になった。
 目を閉じる。
それなのにアルアニスは帰ってこなかった。
「本当に……、悲しかったわ。でも、この子のためにと思って……」
 そして取り残された愛は同じ深さの哀しみに変わり……
「……ジリオ、私は中央なんかに負けないわ。この青杉は私に、まるで無限の力をくれるのよ」
反目は現実の戦いへと。
「やがて必ず、森に眠る父の無念を晴らしてくれることでしょう……」



 それで少女の話は終わりだった。
ありがとうございました。
ジリオはそっと礼を言う。
「私の方こそありがとう、ジリオ」
 突然のレンシアの感謝に意表をつかれ、彼は少しだけ目を見開いた。少女はばら色の頬して笑う。
「毎日あなたとお話をしていたでしょう。私ったらいつの間にか、毎日卿とお勉強をしていたときの心地になっていたのよ。
 なんだかとても懐かしくて、嬉しいわ……。確かにあの方はいらしたのよね。当たり前だけど、その感触を忘れるところでした。
 私、あなたに会えて、本当によかったわ……」
ジリオの喉、ちょうど手の届かないところが変に熱くなった。それで顎を引きながら、どこか面目ないといった調子で、彼は頭を下げる。
「実にご過分なお言葉でございます……」
「どうか、卿の真実を世に伝えるために手を貸して頂戴ね……」
 続くレンシアの言葉に、ジリオは黙ってもう一度頷いた。



 男爵は密かに徴兵を始めていた。娘と孫の命を狙われたことが、いい加減迫っていた老人の胸に、はっきりとした火を点けたのだ。
 そしてレンシアは現代の「苔の精」として、「青杉」の母としてその旗印となった。キールは気勢を上げ、騎士達は武器の手入れをし、その中でジリオの歌だけが、未だ完成しないでいる。




<<Back  < top >  nexT>>