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故森幻想
The Dream Killing You
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 一二八六年、建国後四年目の春は、後に「国史上最悪の危機」と言われるほどの困難と共にトリエントーレにやって来た。東方からの船によりもたらされた新種の伝染病が、王都イリアで弱き者を相手に猛威を振るったのである。
 ようやく国内の体制が整ってきたというその時に、齢六十を数えていた内務長官バジル伯が病死。多くの官僚や兵士が同様に倒れる中で、病はオッシアの産まれたばかりの子どもと、出産後体力を落としていた妻にも襲いかかった。
 リキシルにもシリーにも、黙って彼女らの回復を祈ることしか出来なかった。オッシアは取り乱したりはしなかったが、子供がまず死に、そして妻ソフィリアがいよいよ危険と知らされると、王の戒めを破って彼女の死を看取りに、隔離された病室へ向かった。
 扉の前にはギードが立っていた。王から命令を受けていたのだ。だが、通す通さないの問答の末に、とうとう騎士隊長の良心は負けてしまった。
 ソフィリアの側についていたシリーは、入ってきてはいけない男が死の部屋に入ってくるのを見た。青ざめて悲しげな男は、王の命令を破ったのだ――――。
 シリーは何も言わず、静かに彼女の側を明け渡した。
 死にゆく妻の優しい手から、病は感染した。彼女が死んだ直後、今度はオッシアが倒れたのである。
 それからは、全てがめまぐるしく過ぎていった。病はまるで麦穂を刈り取るかのように、多くの顔を土の下へ追いやり、トリエントーレは窮地に立たされた。そしてその危機につけ込むかのように、隣国ガラティアがナリタリアにて戦端を開いたのである。
 宮廷中が不安に騒然となっていた。どうにか体制を維持しようと、残された人間達が努力を重ねた結果、半年後にはどうにか危機を脱したが、その途中リキシル・エリシウスはナリタリア戦役で死亡した。二二歳の若さだった。
 そして二人の人間が現世に取り残される。シリーは病気に感染することすらなく、オッシアはその体力の無さにも関わらず、医師達の必死の努力によって奇跡的に「助かってしまった」のである。
 しかし、一旦死に魅入られたオッシアの心は容易に戻ってこなかった。無論彼は起きあがれるようになった時から文句も言わず働きはじめ、迅速に混乱を収拾し、再び国につくした。
 だが、自分の命を救った王に対しては、実に一言の感謝もなかったのである。王は友の変容に狼狽し、気を悪くし、最後には苛立ちすら覚えた。
「一体何が不満なのだ」
と、正面から問い糺したこともある。だがオッシアは自分の心に巣くった拭いがたい生への戸惑いに関し、彼に説明をすることはついにしなかった。
 恐らく彼は知っていたのだろうとシリーは思う。王のような人間には、その感情は絶対に理解し得ないどころか、真摯に耳を傾ければ傾けるほど逆に傷ついてしまうということを。



*





 レンシアは悲しげに、まだ膨らまぬ自分の腹を撫でた。シリーは先を続けた。




*




 シリーは宮廷が混乱した結果、一時的に別の人間に仕えていた。だがある日、その時オッシアの担当だった別の侍女から次のように相談を受けた。
 アルアニス卿には困っている。一見するとどうと言うことはないけれど、まず食事にほとんど手をつけない。それに、休息をとるということがない。
 夜も随分遅くまで働いているし、朝は早い。まるで自分の体のことを気にかけていないのだ。病気ではないのだろうけれど、こちらとしてはとても見ていられない……。
 新しい侍従長の勧めもあって、結局二人は仕事を交換し、シリーはアルアニスの部屋住みへ戻った。
「あれ」
 真夜中過ぎて官舎に戻ってきた彼は、懐かしい顔をそこに見つけ、驚いたように言った。
「久しぶりですね。彼女は?」
「昨日まで私が仕えていた人のところへ。職場を取り替えたんです」
「そうでしたか」
 一旦台所へ引っ込んだ後、寝室に寝酒を持っていくと、彼は襟元も緩めないまま机に向かっていた。ぼんやりと中心を失った灰色の瞳に、月の光が浮かんでいる。
「…………」
 入ってきたシリーが無言でいると彼は振り返り、落ちくぼんだ頬でぞっとするほど意味のない愛想笑いを浮かべた。
「どうも」
「あまり人に迷惑をかけるものじゃないわよ」
 盆を彼の前に置きながら、彼女は友人に戻った口調で言った。
「……過労で死ぬつもりなの?」
 オッシアは目を細くする。
「……そうですね」
 それから椅子にきちんと座り直すと、両手を組み合わせた。シリーの鳶色の瞳を懼れもなくのぞき込みながら、洒落のめして
「死にたいなあ」
と笑う。
 そこには大きな喪失があった。薄っぺらい現実を愛せなくなってしまった心があった。
 その麻痺があまりに深いので、一体この事態を悲しむべきなのか喜ぶべきなのか、彼は自分でも分からないのだ。
 シリーは右手を持ち上げ、ゆっくりと男の頬に触れた。冷たい骨張った皮膚。窪みをなぞりながら、彼女は分別に棹さすことを言う。
「……でも、あなたが公人である以上、勝手な真似は許されないわ」
「わかってますよ」
 冷淡に、オッシアは頷いた。そうだ。それぐらいこの男が心得ていないわけがない。
 彼は禁を破り妻の傍らへ行った。その結果、国の危機が深まったことは事実だ。それでも誰も彼の逸脱を責めはしなかった。王ですらもやむを得ないと。
 ……だからこそ彼は死ねないのだ。人々から必要とされすぎている彼にとって、生きる理由はあまりにも多く、死ぬ理由はあまりにも少ない。
 ところが彼の中にはそれを納得しようとしない分からず屋が棲んでいて、そいつが彼にも制御不可能なのだ。
「眠れないんです」
 オッシアは白状した。彼が人前で不調を吐露するのは珍しい。
「らしいわね……」
「多分、鬼みたいにわがままなのが頭の奥の方に生き残っていて、それが全身を蝕んでいるんでしょう。もう、いい加減に……」
「……眠りたい?」
 後ろを受け継ぐと、彼女はオッシアの襟元に手を差し入れ、軽く緩めた。それから自分の頭に手を回し髪留めを外す。ばさ、っと音を立てて彼女の黒髪が流れた。
 落ち着き払った目が、揺らぎもせずにオッシアを見る。相変わらず無感動な彼の唇が少し、開いた。
「ああ……、そういう手がありましたね……」
 自嘲の虚しい笑みがこみ上がる。
「知っていたはずなのに、本当に思い付かなかった……」
「あなたは確かに一対の手をなくしたのよね」
 シリーは静かに言いながら、こなれた手つきで上着を脱ぎ棄てていった。
「けれど生きるための手は巷に幾らでも溢れているわ。これもそれらの手ならぬ手のうちの一つの手。
 根本的な解決にはならなくても、少なくとも不眠に効くわ」
「あなた……、いつもこんなことを?」
「私みたいな人間が辛いだの死にたいだのと言ったところで、誰が振り向いてくれるというの?」
 シリーの声は乾いていた。
「私のような役に立たない人間の悩みは、悩みともならず自分で解決するほかないのよ。
 その方法について、人からとやかく言われる筋合いじゃないわ」
「あなたは……」
 彼の声は大きなものにうたれ、恍惚となる宗教者のそれだった。目の前でどんどん白くなっていく女性を、惚れ惚れと見つめる。
「……迷うことをやめたんですね」
 シリーはにこりともしないで、最後に残った下着を外した。
「心臓が鼓動を躊躇うかしら。
 ふさがらない傷があるかしら。
 ……人は皆、理由もなく生き理由もなく死ぬわ。だから一瞬とは言え頭と体とが生き別れになってしまった私たちこそが……、異端なのよ」
 女は汚れに染まった両手を彼に差し出す。そして静かに、
「オッシア……」
その名を呼んだ。
「―――― いらっしゃい」
 次の瞬間、息を吸い込むようにしてオッシアは迷いを投げ捨てた。捕らまえた彼女の裸の胸へ顎を埋め、冷たい唇を押しあてる。
 そこに波打つ他者の血脈から何らかの手応えを得ようと、貪欲に舌を動かしていった。



*




 彼女が言葉を切ると、客間には凍り付くような沈黙が流れた。
 男爵と騎士は椅子の中で強張って彫刻同然となっており、ジリオは不可思議な表情で俯いて何も喋りそうにない。つまりその場にはただ、女二人が対峙しているのだった。
 だがシリーも、レンシアも少なくとも見た目には平静だった。やがて令嬢が先を促す。
「それからどうしたの?」
 シリーは静かに告げた。
「私たちは愛し合ったのです、姫様」



*




 眠るための仕事が終わった後だった。
隣で横たわっていたオッシアがふいに顔に手をやったかと思うと、彼女から逃げるように反対側に首を曲げる。
 そして甲の下から涙が幾筋も、頬をつたって向こう側のシーツへ落ちた。音もなく、声も立てないで、彼はただ時々、掠れるように胸を上下さしていた。
 きっと、自分の汚らしさに涙が出たのだろう。こんなふうにしてまで尚、生きてしまう自分の生存に、心底愛想が出涸らしたのだ。
 シリーは逆らう頭を強引に自分の胸へ抱き込む。二人は寄り添い合って、そのまま眠りに落ちた。


 彼が何にせよ泣いたのは、それが最初で最後であった。我慢したというのではなく本当に、ちっとも悲しくなかったのだろうとシリーは思う。
 死との縁を切断したその後も心的な麻痺は深部に生き残り、長らく彼を困らせ続けた。




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