<< novels <



故森幻想
The Dream Killing You
= 7 =




 罠にはまったような気がする。
と、多少ぶつくさ言いながらもアルアニスは徐々にまともな生を取り戻していった。少なくとも不眠に苦しむことは最早なく、彼の(精神はともかく)身体は、生活という時計のようなくり返しの規則にもう一度服従することが出来るよう、彼女によって矯正されたのである。
 だがその後も、彼等は真面目な恋人達が見れば唾棄したであろうような、不誠実で理解しがたい関係を持ち続けた。二人は愛情や貞節といったものを驚くほど尊重しないまま、何十年という長い期間、日常を共にしたのである。
 彼等はお互いにきっぱりと頭脳と身体だけを求めていて、他のものは何一つ受け入れる気がなかった。その文法を理解できるかどうかといい、その意味で慎みを守れるかという問題といい、おいそれと別の人間にその役割を期待できるものでもない。
 だから、彼等二人はなまじの夫婦よりも長い時間関係を維持しながら、打算と護用の領域から逸脱することはなく、正しく人でなしの道を走り続けた。
「私たちはどう考えても病気だそうです」
 ある晩、もどかしげに背中に手をやりながら、オッシアが言ったことがある。
「いてて……、爪が伸びてますよ、シリー」
「あらごめんなさい。誰が病気って?」
「王が」
 袖を通す白いシャツの背に微かな血が滲む。
「彼は、私のどこかが壊れてしまったんだと言ってましたよ。なんだか文学的な表現ですよね。
 ……それを言うなら、私は本格的に『壊れ』ないためにこうしているんだけれど。解って頂けないだろうなあ」
「あなたが不親切なのよ。ちゃんと説明しないからだわ」
「説明か……、……説明ね……」
 この頃からだっただろう。生来、他人に自分のことをくどくど話したがらなかった彼が、益々その労を厭うようになったのは。
 元々彼は、王に向かって子が、妻が死んだ時のことをほじくり返し、自分がどのように感じたか、それから何が変化したか、そしてシリーに何を救われ、どうして手放せないのか、そんなことをつらつら話せるような男ではなかった。
 王は一心にオッシアの身の上を憂慮し、その友情は間違いなく本物だった。しかし皮肉なことに、根本的に的外れだったのだ。相思は一二八六年を境に育まれることなく断絶し、爾後一方的なはたらきかけばかりが目立つことになる。
 やがて王は「病んで」尚かけがえのない友に、イステル公国公女との婚姻という幸福まで用意した。背後には無論、再び家庭人として望ましく穏やかな男になってくれれば、という彼の願いがあった。
 オッシアは逆らわず再婚する。しかし、年若い花嫁に誠実と愛情が注がれる日は、とうとう来なかった。シリーは変わらず彼の側に生き、激務に追われる彼を実質的に支え続けたのである。



*





「けれど王は、少なくとも一三一二年までは、落ち着いておいででした。卿と王の間に、年上の友人、騎士隊長のギード・ファレが存在していて二人の緊張を緩衝していたからです。
 でも一二年の夏に彼が病気で亡くなったために、その均衡が崩れました。王は最後に残った友にあらん限りの友情と献身を求め始めました。卿もそれに応えないではありませんでしたが、二人の仲が接近すればするほどに、やはりあの年のことが問題として蘇ってきたのです。
 ……結論から申し上げれば、王は自分と彼とを隔てたものがなんなのか、結局お分かりではありませんでした。彼にとって生還とは嬉しさであり、幸運に他ならないものでした。
 けれどそれこそが卿にとっては悪夢の始まりであり、彼は強制的に『生かされ』ている人生を諦めて受け入れはしても、それに対する感謝は口に出来ませんでした。
 王は次第に苛立ちを強め、時々は二人が言い争うことも多くなりました。無論、卿はのらりくらりと逃げていたと思いますが、あまりに王が必死なので、ある日つい、本当のことを言ってしまったそうです。
『王、本当は私はあの時、心の底から死にたかったのです』
 王はきょとんとなさったそうでした。そしてそれから、恐ろしいことに気がついて彼は愕然としました。
 ……王はとうとう、一時とは言え彼に恨まれていたことに気がついたのです。卿は自分を『生かした』王の親切と自らの生存に対し深い恨みを持っていて、その痛みを執務と女によってうやむやに緩和してきたに過ぎないのだと。
 自分が『友情』と呼んでいたものが単なる十数年間の思いこみに過ぎなかったと知って、王は言葉を失いました。
 そしてやはり、狼狽の王には卿の感情を理解することが出来ませんでした。彼は青ざめ、ひとしきり卿を怒鳴りつけた後、罷免しました。
『そんなに死にたいのなら、今すぐどこぞで死ねばいい! 役目が邪魔だというのならすぐにお前を自由にしてくれる! 私にはお前なぞ必要ない!』
 卿は礼を言って、その足で引き継ぎ業務を始めたそうです。彼は自分が抱え込んだ出口のない迷宮が、真っ直ぐな王を傷つけたことを知っていました。
 変わってしまった自分がいけないのだと言っていました。その不運を悲しんでいたとしても、宮廷から退くことには何の不満も無かったのです」



*




 オッシアはシリーを伴い、その晩のうちに王宮から出奔した。補給をしながらも夜通し馬車で移動を続け、翌日の朝方には彼の支持者が営む修道院へ着いた。
「また、会いに来ます」
 彼はシリーにそれだけ言うとすぐに発った。宮廷側が彼女の居場所を関知しないようにと気を遣っていたのである。
 やがて残してきた家財を移動して、東部で生活を始めた彼だが、シリーとの連絡は絶やさなかった。毎週欠かさず手紙が届き、月に一度は顔を見せにやって来ては、近況などを話していった。
 彼等は政治や道徳や宮廷などの煩雑なもの達から逃れ、穏やかに言葉を交わし合うことの出来る落ち着いた環境をようやく手に入れたのだった。
『とても面白い女の子がいますよ』
 ある時、彼は手紙で書いて寄こした。
『かなり自由に育てられた森の子で、押さえつけることを知らない想像力を持っています。ただ惜しむらくは、それがまだ人に向けられていないと言うことです。
 ……悪気は無いのでしょうが、彼女は人を大事にするということがどういうことかまだ解ってません。育てられた環境のせいなのかも知れませんね。どうしても、ここは田舎です。
 特に愛情の示し方に関して、彼女はやや乱暴です。例えば私が宮廷を追われたと聞けば、王の悪口をひとしきり喋ってくれるといった調子なのです。私がそれを聞きたいかどうかは思考になく、彼女は彼女が正しいと思ったことをすぐしてしまうのです。
 そして物事の仕組みを理解する部分が未発達なので、時々相手が望んでいないことまで平気でやってしまうことがあります。
 ある意味で、彼女は『彼』に似ているのかも知れません。本質的に真面目で、相手に対し実にひたむきです。ただ、見知らぬ部分もくっつけてしまうと言うか……、良くも悪くも、誤解には違いありません。
 ……私は今、彼女が私に抱いている幻想を取り払うべきかどうか迷っています。彼女は、私が今のところ彼女の気に入らないことをしていない、というだけの理由で私を素晴らしい人間だと勘違いして下さっているのです。
 いずれそれに対し修正を加えるべきだと思いますが、そんなことをしなくても自然に誤解が解け、正しい幻滅の日が来るのかも知れない。わざわざ少女の自然を傷つける必要があるのでしょうか。
 それともシリー、この怠惰こそが私の罪悪なのでしょうか。どうか意見を聞かせてください…………』
「――――あなたの言うことはみな嘘よ!!」
 突然、激しい否定の声が彼女の話を遮った。
 皆の視線が集まる先に、立ち上がってぶるぶると拳を振るわすレンシアの姿があった。
「騙されないわ、恥を知りなさい!」
「……姫様。私、嘘は申しておりません」
「お黙り!!」
 傍らの男達を飛び上がらせた激しい叱咤の声に、彼女はまぶたを閉じる。
 嘘だ、――― 嘘だ!
「所用で」と言って出かけていたあの遠出が、この汚らわしい女に逢いに行くためのものだったなんて。私との幸福なあの一時まで、全てをこの女に喋っていたなんて!
 ……違う、そもそも卿はそんな人ではない。奥様や子供を亡くしたからと言って、そんな不道徳なことへ逃げ込むような心の弱い人じゃない! もっと強くてもっと誠実な、優しい方だった!
 そして私を真摯に愛して下さったのよ……! 私をあの嫌な「王」に似ているなどと言いはしない! そんなことが有り得るはずがない!
「ジリオ! 一体どうしてこんな不愉快な人を連れてきたの?! 宮廷側の回し者よ! この女は自分を高く売って、死んだ卿を辱める気なのよ!」
「そうだ、ジリオ……! 一体、お前はどういうつもりなのだ!」
 男爵の老いた手が肘置きを握りしめる。
「それともお前は、はじめから私たちを愚弄する気でこの女を呼んだのか!」
 キールは息を詰めて、主人らの激昂と、それに対しまだ腕を組んだまま反応を見せないジリオとを代わる代わる見つめていた。
 ところがゆっくりと顔を上げたジリオは一番最初に、誰でもなく騎士の方をはっきり見据えたのだ。彼ははっとして目を逸らす。無言でそれを見届けた後、ジリオはようやく少女達の方へ視線を移した。
 だが、それでも、
「……ごめんなさい、シリー」
落ち着いた第一声は隣に向けられたものだった。 レンシアの表情が一段と強張る。
「答えなさい、ジリオ!」
「はい、姫様」
 ジリオはまるで切り返すかのような調子やっと返事をした。
「……私はアルアニス卿について、あらゆる話を集めたいと思っておりますが、それは確固とした一つの定型を作る作業とは違います。
 誰かの認識をもって他の誰かの認識を修正したり矯正したりすることが目的なのではありません。しかし」
 青い瞳が少女の怒りを見た。
「あなたのためにも、今回ばかりはそのような嫌な手続きが必要であるかと思うのです、姫様。
 ……シリー夫人とお会いしたのは、東部に参る直前でした。その後こちらで男爵様や姫様のお話を聞いた私は、あまりの落差に正直混乱いたしました。
 ……これではまるで、アルアニスは二人いたことになります。
 片方は宮廷から迫害された被害者であり、優しく、暖かい心を持った方で、心休まる東部で美しい少女と恋に落ち、子孫を残して死んでしまった正しき人。
 だが夫人は、彼は誤解と不運の果てに宮廷を出たのであり、それを恨んではいなかった。そして妻以外の女性と関係を持ち続けるなど不道徳な道に敢えて染まっていた上、人に対して正直でない一面を抱え、姫様から『誤解されている』と書いて寄こしたと言います。
 ……どちらが本物なのですか? 一体オッシア・アルアニスとは誰だったのです? 今や……、はっきりさせなければなりません」
「お前は離れを見なかったの?! 書庫を見なかったの?! そして私の話を聞かず、私のいでたちが見えないとでも言うのですか?!」
 レンシアは、戒めのない服を握りしめる。
「私には証拠があるわ。こんなにもたくさんの!」
「姫様。シリー夫人にも証拠は幾らでもあるのです。卿から送られた手紙の束、預けられた本や、面会の時に残していった品物が」
「お、お前は……!」
 怒りを通り越し、悲しみに打ちのめされてレンシアは喘いだ。目の前に座っているこの男は、私と私の『青杉』の味方だと思っていたのに! 信じ切っていたのに……!
「私が……、嘘を言っているとでも言うのですか……?」
「姫様……」
 顎を引いたジリオの眉間に、深い皺が刻まれる。
「シリー夫人が彼の愛人であったことには、多くの証言があるのです。けれどあなたのお話に……、お許し下さい、証人はいない」
「お前は……、何が言いたいの?」
 涙の盛り上がった瞳で、少女は笑う。
「私のお腹の中にいる子供が何よりの証人よ……!」
「それは本当に卿の子供ですか? 姫様」
 ジリオが恐ろしいことを言った。客間が再びしんとなる。少女は呆れ果て、まるで狂人でも見るかのような目で、裏切り者を見下ろしていた。
「失礼をお許し下さい。姫様。……ただ、夫人がお持ちの卿からの最後の手紙には、こう書かれているのです」


『……今日、東部のレンシアから手紙が来ましたが、どうも何か手違いが起きているようです。彼女は月経が止まり、つわりを覚えたので、妊娠しているのだと医師から告げられたと言っているのです。
 文面からして、彼女がそれを私の子供だと考えていることは疑いの余地がありません。しかし、私と彼女の間にそういう関係が結ばれたことはないのです。
 確かに出立前、あまりに彼女が泣くので一緒に横にはなりましたが……、彼女が寝付いた後は荷物の整理に戻ったので、実際には一時間も添い寝していません。
 少し面倒なことになりました。ことがことなので、帰東してから問題をはっきりさせたいと思いますが、レンシアは思いこみの強い少女なので、いささか心配です……』


 男爵と騎士の顔が蒼白になった。口を開いたまま、その場に立つレンシアの背中を救いでも求めるように呆然と見つめる。
 長い沈黙の後、レンシアは震える唇で口を開いた。
「そんな中傷を並べられたところで、何でも無いわ」
 その強さにジリオは顔を上げ、小さな母親をまぶしげに眺める。
「……私は確かに、卿と愛し合ったのだもの」
 少女は図らずもシリーと同じ言葉を使った。黙して成り行きを眺めていた彼女が、ちらりと少女に一瞥を走らせる。
 その時、
「……一体、……誰が……」
 思わず呻いた父男爵を、少女はびしりと怒鳴りつけた。
「父様! あなたまで何を!」
「だがレンシア……、……卿が、ご本人が身に覚えがないと仰ってるのでは……」
「あんな言葉に騙されてはいけません。私は確かに卿と愛し合ったんです!」
「では、具体的に何をしたんですか?」
 ジリオが躊躇もなく尋ねた。レンシアは彼を睨み付ける。
「ジリオ……、私はあなたにちゃんと話したわ。覚えていないの?!」
「もっと詳しく教えて下さい。口づけをしましたか? 服を脱いで、裸になりましたか?」
 令嬢の顔色が変わる。
「……は、恥を知りなさい、ジリオ!」
「教えて下さい、したのかしてないのか!」
 何かを断ち切るかのように、ジリオは言葉を叩きつける。
「彼は彼女にしたように、裸のあなたを押し倒して、胸に口づけしたりしましたか。寝台の上で男として彼はどのよう――!」
「やめてよ!!」
 少女は短い髪の毛を激しく揺らして、首を振った。
 そして怒りに狂った彼女は、次にこう怒鳴りつけたのだ。
「卿がそんないやらしいことをなさるわけがないでしょう!!」



*




「恋人なのですか?」
「それは違います。
 ただ、彼等には見られたくないのでね」



*




 ――――――。
木造の客間は息詰まるようなやり取りから一瞬にして静まり返った。
「……え?」
 少女は、自分が呼び込んだらしい沈黙に、狼狽えて辺りを見回す。
「……姫様……」
 ようやくため息を吐き出しながら、ジリオは一人惑うて迷子となった彼女を呼ぶ。
「……あなたはやはり、子供が出来る仕組みについて…………、何もご存じないのですね?」


 引きつるように喉を鳴らして、老男爵の体重が背もたれに落ちた。騎士は魂が抜けたように凝然としている。
「仕組み……? だ、だって……、子供は男女が愛し合うことによって産まれるって……」
 ―――そうだ、レンシア。それ以上を記した本は書庫のどこにもなかったね。五百冊は立派だが古い本ばかりだと君も言った……。
 内容はほとんどが宗教書と学術書で、医学の本も置かれてはいなかった……。もちろんアルアニスは恋愛小説などを何冊か持っていたのだが、目下不要だったので、修道院のシリーに送ってしまったのだ。
 男爵の愛情、騎士達の尊敬、人乏しき東部。
どうして彼女が知ることが出来ただろう。
 だから実に、目もくらむような真の愛の告白のみによって、少女はあり得ない子供を宿したのだ。
 『月経が止まり、つわりを覚えた』……。乏しい知識を総動員して、まるで神話の苔の精のように、強いあなたは容易く、そして本当に嬉しく、子供を宿したのだ……。
「……姫様」
 ジリオの声が少し乱れた。胸が熱くなり、涙がこぼれる。初めて優しい眼差しを取り戻して、彼は首を振った。
「残念です、愛情だけでは………………子供は出来ないのです。
 だからあなたのお腹の中には、現実の命は宿っておりません。
 そこに何かあるとすれば、卿を愛しているというあなたの溢れんばかりのお気持ちが……、それだけが、あるのです」
 永遠にふくらまぬ腹を持つ少女の唇が、微かに開いた。息をしている様子すらなかったが。
「姫様。たしか私は、最初お会いしたとき、自分が楽しき夢をもたらす芸人だと言いましたね」
 微笑んだジリオの青い目が悲しげに細くなる。
「……お許し下さい、嘘を言いました。私が持ってきたのは現でした。
 暁の光が迫っているのです。いずれ山の端からそれが吹き出す前にあなたは……、いえこの地全体が、このオッシア・アルアニスという名に課された夢から、もう解放されねばなりません……」




<<Back  < top >  nexT>>