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故森幻想
The Dream Killing You
= 8 =




「どういうわけか、オッシア・アルアニスという人は虚像にされやすい人でした。普通の人よりも仕事の部分が大きく、私の領域が極めて狭かったせいかもしれません。そのことは彼も知っていたし、どちらかというと自分の責任と目していたと思います。
 だから、あなたが自分に明るい夢を見て影のある部分を見損っても、彼は黙っていました。あなたの想像力を褒め、『悪気がない』と言っていた彼です。今ここに生きていても、あなたを責めたりはしなかったでしょう。
 けれど、何らかの破綻がきたことに間違いはありません。なぜなら彼は……、子供など欲しくないと、思っていたからです」
 ジリオは微妙な間を置いた。それから改めて、力を振り絞るようにして先を続ける。
「実害が無い範囲なら彼は甘受してもよかった。けれど子供となると話は別です。
 もしも卿が無事に東部に戻ってきていたら、そしてあなたの姿を見ていたら、彼は初めて明らかに顔をしかめ、その瞬間にあなたの夢を壊していたでしょう。多分懇々とあなたを教え諭した後、もう二度と男爵家に近寄らなかったと思います。
 ……お分かりだと思います。彼は残忍な官僚の手を持っていました。
 散々面倒くさがっていても、仕事をしなければならない時が来れば、彼はします。それが嫌な仕事だとしても、躊躇したりしません。
 幻想が問題を孕んだ以上、彼はそれを堕胎させるつもりだったでしょう。しかし運悪く彼が殺されたことによって、あなたの目覚めは先延ばしになり、夜は維持されてしまった……」
 これだから暗殺は……。ジリオは目を閉じ、きっぱりと言った。
「だから朝は、私が連れてきます」
 椅子の上で老男爵がはっと体を強張らせた。その盲目の愛情のせいで少女の自我は膨張し、夢は広がり続けたのだ。
 ジリオは迷いを振り落とすかのように立ち上がり、獲物である少女と真っ向から向かい合った。それでも脈と視界が乱れている。
 目の前のレンシアはどうして? と裏切られた顔をしていた。
どうして私を傷つけるの?
 ジリオは惑うた。しかし、ここで容赦をすると言うことは、ふわふわと優しいこの悪夢を続けるということだ。
 それはいけない。自分がこの手で無残に終わらせるのだ。
 たとえ永遠に彼女の好意を失ったとしても――――
 ジリオは息を吸い込んで、結論を先延ばしにしようとする自分の緩みに決別した。
「あなたに恨みはありません。しかし私は自らと、自らの父を守るためにあなたのその幻想に抗します」
 決然と顔を上げ、そして告げる。
「姫様。
 私は、オッシア・アルアニスの息子です」




 やって来た朝は、冷たくて厳しい二月の静寂だった。かつん、と誰かの靴底が固い床を叩く。
 その目覚めの鮮烈さに圧殺されそうになりながら、ジリオは口を開いた。
「……無論母は彼の妻ではなく、私は這いつくばった獣の情交から産まれた、不貞の息子です。だから言えませんでした。
 あなたが何も知らず、それがいかなる罪か知らないで卿を神格化していたので、ずっと言えませんでした」
 実際、風の精などと、笑かしてくれる……!
「彼は確かに一個の頭を持った人間でした。しかし総体としては普通の男だったのです。欲動だって湿り気だって持っていた。
 ……そこを見たくないと言って、髪の毛のように切り落としたあなたも、宮廷と同じです。一人の人間であった彼を半分にして、それを虚飾に塗すのなら、そこに愛情があろうが憎しみがあろうが結果は同じなのですから。
 あなたは卿の真実を世に伝えたいと言いましたね。けれどそれがどのようなものであるかは、最初から決めておいでだった。
 その『真実』が現実の卿を損ない、シリー夫人を嘘つきと呼びました。あなたの愛の始まりはいかに無垢であったかもしれません。しかし彼が死んだ今、あなたはその屍の上に一方的な夢を乗算させ続けている……。
 自分が心地よい思いをするために、あなたはとても多くの真実と人間を犠牲にしているのです。死者を冒涜することにかけて、宮廷に劣るものではありません。いや、彼が生きていた時でさえ、あなたは本当に彼を…………」
 愛していたのですか?
 その瞬間、少女の頬を音もなく涙が落ちる。二粒の宝石だった。多くの人を黙らせてきた無邪気な罠だ。
「…………!」
 ひるんではいけないと分かっていながら、ジリオは痛々しさが胸に迫り、最後の一言を失うて思わず口を噤んでしまった。苦しげに唇を噛んで、目を逸らす。
 ……しかし、少女の本能が示した抵抗もそこまでだった。
 揺らいだジリオを支えるかのように、今までずっと黙っていたシリーが、後ろで穏やかに言ったのである。
「……姫様。あなたは長い夢を見ていたのです。
 あなたのお父様や、騎士達や、近しい諸々の人達が、そうと知りながら手をつけることをしなかった長く醒めがたい夢です。
 ……でもお分かりでしょう、姫様。……もう朝は来てしまったのですわ」
 そして優しく微笑みかける。不動の母の厳かさで。
「だからもう、戦わなくていいのです。あなたは充分愛しました……」





 少女の体が揺れた。まるで木偶の人形のように、いびつに前後したかと思うと――――
「姫様!!」
 その場に崩れ落ちる。騎士が飛び出していなかったら、頭を打っていただろう。
 間一髪で彼女を受け止めたキールはしかし、今まで彼女が立っていたところを見てはっとなった。
 血が二三滴落ちていたのだ。
少女の靴にも、少しばかり―――
 アルアニスの『子』が……、流れたのである。






 慌てて彼女の体を抱え上げ、駆け出した騎士キールが戻ってきたとき、森閑とした客間には男爵しかいなかった。あの男は? と尋ねると、男爵は出ていった、と短く答える。侘びの言葉を残して。
 聞くや騎士は身を翻して走り出した。残された老男爵は左の肘掛けにもたれ込み、苦しそうにその白髪を抱える。




*





 修道院の馬車は、門から少し離れたところに用心して停めてあった。ジリオは彼女が乗り込むのを手伝ったが、自身は乗らなかった。
「僕にはもう少しやることが残っています」
「そう……」
 シリーは窓から出した右手を出し、ジリオの頬を近寄せるとそこに口づけした。
「……命を粗末にしては駄目よ」
 青年はただ笑って約束はしなかった。それから、
「あなたは……、あの夜あったことを、喋りませんでしたね」
と、静かに言った。


 ――――夜中、引継の仕事を終えて部屋に戻ったオッシアは、室内の様子がおかしいのに気がついた。椅子が倒れ、床にものが散らばっている。
 シリーに荷物をまとめるようにとは指示していたが、目の前の乱れには理路というものが無い。胸が騒いだ、何か変だ。
 そして開け放たれた寝室のドアをくぐった彼は、眼前に広がる光景を見て慄然とした。
 渦巻いて乱れた寝台の上。かろうじてシーツをまとい、うずくまっていたシリーがのろのろと顔を上げ、戸口に凍り付いているオッシアを見る。
 目の回りと頬に、赤と青が気持ち悪く混ざった痣が浮かんでいた。唇は縦に切れ、髪の毛は乱れきって、オッシアは一体彼女に何が行われたのか知った……。


「……その必要が、あったかしら」
「そうすれば、少なくともあなたは彼女たちから恨まれないで済みましたよ」
「そうやって片方をかばい立てするような真似はやめましょう。私たちは、いつも二人で一緒に人でなしをやっていたの。だから、今回もそれを守っただけ」
 懐かしさに触れたように、彼女は微笑む。
「彼との唯一の、取り決めだものね……」
 ――― 取り決め、か。
彼女がオッシアにそっくりだと言った苦み走った笑いを、ジリオは浮かべた。
 ……貴様のせいで彼がおかしくなったと王は言ったが、そうではない。誰がなんと言おうと、彼は自らの意志で彼女を、生き汚い人生の同志として選んだのだ。そして理由無き生をどこまでも生きるという、彼女との暗黙の約束に、彼は現実に勇気づけられていたのだ……。
 馬車が走り出すが、二人は見えなくなるまでお互いの目を追っていた。
「…………」
 胸の中で感謝の言葉をつぶやくと、ジリオは門の中へとって返した。
やり残した用事を片づけるために。




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