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故森幻想
The Dream Killing You
= 10 =




 たとえそれが美しい愛のためだとしても、誰もが死んだ彼を都合のいいように解釈し、その部分を、或いは全体を自分の目的の達成のために利用しようとする。それで彼は、殺された上もう一度殺されそうになっているその男が本当は何を望んでいたのか、少し汲み取りたくなったのだ。


 森は真っ暗だった。本当の闇だった。月の光さえ届かないひんやりとした地面に、何が落ちていても見えはしなかった。
 それだのにジリオは獣道を走り出す。まるで来たときのように、苔を踏みしめてがむしゃらに走っていく。
 最初は石に足を取られた。体勢を崩し右から転んだが大したことはなかった。
「…………」
 手を払い、立ち上がると、軋む足首も労らないで彼はまた走る。
 すぐにまた転んだ。今度はちょっとした傾斜に足を滑らし、後ろへ倒れる。なかなか派手に腰を打った。
 だが顔をしかめたのは、痛みのためではない。どうしてだと。
どれほど痛くとも、
「……腰じゃ、しょうがないよ…………」
 呟いてまた立ち上がる。彼は自分を取り囲む静寂の闇に、声をかけた。
「なんだよ……。いるんだろう」
 あの刺客を殺したように、どうして俺を殺さないんだ。いるんだろう。行きにはあんなに俺をからかったじゃないか。
「……もっと、もっと派手にやってくれよ……」
痛む腰と足首を無視し、もう一度走り出した。
 水っぽい足音が盛んに鳴っているが、どこか現実味に乏しかった。走っても走っても、何処までも闇は続いていく。彼はまるで宇宙に投げ出され、果てしない苦役を受けているかのような永遠を走る。
 肋骨の下で心臓ばかり忙しく動いていた。赤子のようなその鼓動が森の呼吸とぶれ、誰かの吐息がジリオの耳をかすった。やがて、やや前後した後、その二つがふいにぴったりと重なり――。
 瞬間、ジリオの体が空を飛んだ。木の根か何かに引っかかって、前に吹っ飛んだのだ。
 顔から苔の山に突っ込む。ぶつかった上下の奥歯が嫌な音を立てた。そこに倒れ伏したまま、彼はしばらく動かなかった。


 しかし、ややあって両手が握りしめられる。指と指の間から水が四方に飛び散り、ジリオは下を向いたまま、
「まだ生きている」
ぼつりとそんなことを言った。
「まだ生きてるぞ……」
 顔がひりひりする。あちこち切っているらしい。でも、この床はなんて気持ちいいのだろう。どこかで嗅いだ香りがする。
 ああそうだ。レンシアが出してくれた、あの緑色のお茶の――――……思い当たると、突然涙が出てきた。
「………………」
 好きだったのだ。
レンシアが大好きな卿のことを無邪気に、嬉しそうに話すのを聞くのが大好きだった。彼女は何も知らないのだと分かっていても尚、アルアニスを素晴らしい人だったと断言してくれて、自分は、……愚かな自分は死ぬほど嬉しかったのに。
 その嘘に便乗して、少女と一緒に偽物の彼を愛してしまいたかった。たとえそれによって彼の真実の大半を見失っても、どうせ本物はもう何処にもいはしないのだから、それを愛情によって創作して何が悪いのだ。信じえるものだけが真実なのだと、自分でもいつか言ったではないか。
 そうしたら自分は『青杉』を殺さないで済んだだろう。
 あれが一体どのような破局を迎えたにせよ、あの兵士達のように自分は自らの血を喜び、涙しながら心地よく死ねたのかも知れない。
 誘惑は絶えずあった。
――――でも、駄目だった。
 卿の話を人から聞く度に、書かれたものに触れる度に、彼は爪先から忍び込むように解ってしまったのだ。彼がただ無慈悲な理解だけを人から望み、愛情に彩られた盲目の賞賛など欲していなかったということを。考えるより先に知ってしまった。無視できなかった。
 だからジリオは、彼の理解して欲しかったように彼を理解し、その望みを汲んで叶えてやりたかった。そこに現れてきた男の姿が、いかにいびつで、どれほど汚らしいものであっても、それが彼の望みだったのだから。
 ……人に白昼の夢を見ることは、その人を殺すことだよ。愛する胸板にぐさり、甘い短剣を突き立てることだよ。
「だからと言って、彼女らを傷つけた罪はどこにも行かない」
 ジリオはやっとのことで肘をつくと、顔を上げた。
「だからこの咎人には罰がいります――――。
あなた」


 痩せた男が立っていた。
穏やかで灰色の瞳を持った、短髪の、これは――――……
 ジリオは苦しげに微笑むと自分の意地汚さに愛想をつかして、彼にそっぽをむいた。
「分かっていて尚あなたを見るのか……、うんざりする」
 人間の欲望に果てはない。その意見に対して男はくすりと笑いを漏らした。
「そうですね。
 これを本当だなんて思っちゃいけませんよ。森では皆が皆、自分の見たいものを見るのですから」
「……幻の癖にややこしいことを言わないでくれよ」
 男は構わず、渋面を浮かべる青年を立たせた。
それから、
「着いてきなさい」
と先に立って歩き出す。ジリオも逆らわずその後を追った。
「……彼等はどうして僕を殺さないんだろう」
 やがて彼は誰に言うともなく言う。
「だって僕は彼等の子孫を害したんです」
 男は静かに答えた。
「あなたも東部に捕まりましたね」
 ジリオは自分の足音しか聞こえないのに気がついた。目の前の砂色の頭が振り向く。
「森は木の集合体に過ぎません。言ったでしょう」
 衣服の左胸に、大きな裂け目があった。
「あなたは夢を見ているのです」


 それから二人は無言のまま、長い道のりを歩いた。同じように真っ暗闇なのに、足下はどこか森を歩いているようではない。
 しかもジリオは、今現実に足を動かしているというのに、どういうわけか猛烈に眠たくなってきた。
 …………裁きは…………いつも…………自らの……
 気がつくと、前の男がまた何か喋っている。それなのに意識がどうしてもはっきりしなかった。
 彼の言葉を聞きたくて必死に耳をこらしたが、なぜか途切れ途切れにしか、聞き取ることができない。
 …………あなたは…………偶然に…………来たので…………
―――産まれてきたので?(聞こえない)
 ……きっと…………世界と……鏡に…………一線の……
―――世界という鏡面に着いた一線の傷?(どうしてこんなに眠いんだ……)
 ……それは………………せば……ひどく……小さく……
(眠い…………ああ…………聞こえな…………)



 けれど、それならばいつまでも真実を見続ける傷でいなさい。
 はっ、と目が覚めた。気がつけば彼はずいぶん明るい出口の前に立っていた。男も変わらず側にいたけれど、溢れる光になんだか身体の左半分が浸食されているように見えた。
 不安げなジリオの眼差しに気がつくと、彼は初めてにっこり笑って釘を刺した。
「くれぐれも言っておきますが、これを本当だなんて思っちゃいけませんからね。森ではあなたの見たいものを見てもいいけれど……、そこに迷ってはいけません」
 でも、ともの言いたげなジリオの背中を思いがけない強さで押す。
「いきなさい」
 体に力が入らず、踏ん張ることが出来なかった。赤子のように光に押し出され、まぶたを絞ったその瞬間、
「会いに来てくれてありがとう」
と、確かに彼は言った……。




*






 気がつくと、森を抜けたところに立っていた。
顔に手をやったが、何処にも傷はない。ひねったはずの足も打ったはずの腰も、全く痛んでいなかった。
 眦を歪め、ジリオは思わず後ろを振り返る。だが、そこには獣の通る狭い道が一本、闇に向かって伸びているだけで、誰一人立っていなかった。
 もう一度入ろうかとも考えたが……、思いとどまった。頭に彼の言葉が蘇ったのだ。
『これを本当だなんて思っちゃいけませんよ』……。


 ……なんて懇切丁寧な男なんだ。ジリオはひどくおかしくなって、一人で笑った。一緒に涙も出てきたので、変な具合だったが、とにかく。
 確かにあれは夢だった。だが私の夢は――――ややこしい。これは夢だと囁く夢なのだ。
 森のなかでは自分の見たい何を見てもいい。
けれど開き直って、そこに迷うことはいけない。
 あなたは森にあっても厳然と真の実のみ、拾い続ける傷でいなさい。硝子戸に縦に走る傷のように、美しく……
いきなさい。



 はい。
ジリオは頬を拭うと、体を反転させ、歩き出した。彼の父親も眠る神棲む森に背を向け、神無き露わな世界へと、再び。
 雲間から顔を出した白い太陽が、霧なす大地に明るい線を幾筋も引いていた。それがまるで少女のスカートのように、たおやかに世界を包み込んでいる。
 ジリオはまぶしげに目を細めた。
――――白日の下に全てが曝されて尚、自分は世界を愛する。隠されぬ人の性と夢とを、どこまでも理由もなく、愛し続けてみせる。



 ジリオの長い砂色の髪に風の手がまとわって戯れた。
夢見る東部の長い夜は、終わったのである。





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