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蒼 天 無 音
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 一二八四年、春。
その日、公国騎士団の朝は騒々しい事件から始まった。
 突然、蹴破るかのような荒々しさで剣技練習場の扉が開かれると、一人の女騎士が誰か別の(体格からすれば多分男の)騎士の頭を引っつかんで、中へ入ってきたのである。
 女の方はその朱い髪の毛を見さえすれば少尉バートレット・キーツであることが知れたが、頭の方が誰だか分からないで、騎士達はおっかなびっくり首を伸ばす。
「グレンだ」
「ああ、グレンか」
「あのバカ」
 囁きが風のように渡っていく。だが、バートレットが相手を練習場のど真ん中に引きずり出し、壁に掛かる剣を二本取って、うち一本をまだうずくまったままの彼の前に投げた時、――硬い鋼の音と共に、辺りはひやりと静まり返った。
 乱れた黒い前髪の間から、グレンの二つの目が立ちはだかるバートレットを見る。女は怒れば怒るほど平坦になる口調で一言、
「拾え」
と命令した。
「今後もさっきみたいな下らん説教を垂れる気なら、俺を負かしてからにしろ」
 周囲の騎士達はグレンが何をしたのか知って、その馬鹿さ加減に首を振った。バートレット・キーツに説教を試みるなんて!
「おいおい、あいつ気でも狂ったんじゃないのか」
「私、見てたわ。あのバカ、よりにもよってバートレットが例の坊やの部屋から朝出て来た時、彼女にものを言おうとしたのよ」
「しかも少し慎めって言ったんだろ」
「死ぬよ。あいつ殺される」
「――― 立てッ!!」
 怒声に周囲の連中が皆、飛び上がる。既に練習場の壁は騎士達であらかた埋め尽くされ、入りきれなかった人間達は出入り口に人垣を作りつつあった。
 グレンがようやく剣の柄に手をかけ、ごくゆっくりと床から立ち上がったが、目には喧嘩などしたくない、まだ話し合いをしたいという意思がありありと見えた。
「バートレット、話を聞いてくれ……」
 この軍曹はバートレットと同期入団の、誠実だがやや頭の固い男である。今まで仲間として彼女との仲は決して悪くない方だったが、いかんせん、騎士達が貧血を覚える程に根っからの不器用だった。
「ただ、俺はお前が堕落するのを……」
「――ふざけるな、何様のつもりだ!!」
 怒鳴りつけるや、バートレットは踏み込んだ。戦場を駆け回る常備軍人としての習性でそれを受けてしまった瞬間に、憐れなグレンの末路が決まる。
 海峡でイリリア王国が滅亡し、友好的なトリエントーレが誕生して二年来、実際の戦闘が乏しくなったとは言え、彼女は相変わらず馬鹿げて強いのだ。グレンなどが敵う相手ではなかった。
 既にサーブルがぶつかり合う音すら不均衡だった。騎士達は絶望的な面持ちで、二人の対決がぐんぐんと赤毛に偏って行くのを眺める。
 薄情かもしれないが、剣を抜いたバートレットを止めるなど自殺行為なのだ。目や腕の一本や二本、不自由にされかねない。
 それに――― 手を出す暇もなく、片はすぐについた。
 最後の一撃で体ごと吹っ飛ばされるグレン。もつれた足が体重を受けきれず、彼は彼の憐れな剣の隣へ倒れこんだ。ニ、三人の騎士が目を覆う中で、髪の毛を一度背中へ払ってから、バートレットは悠然と獲物に近寄って行く。
 人々は、床にうずくまるグレンさえ、彼女がどのような法則の元に生きているか知っていた。それははっきりとした弱肉強食の掟、容赦ない戦場の法律だった。
 つまり彼女は自分が負かした相手には何をしてもいいと思っているらしいのだ。長生して強くなるまでに、公国騎士だった父親に厳しく扱われ過ぎた結果だと言われていた。
「――貴様如き実力でよくもまあ……」
 惨めな表情で床に転がっている男を、王者たるバートレットは死体でも見るみたいな目で見下ろした。
「……さて、三文芝居の結末はどこで償う? 髪か、目か―――、それとも耳か?」
 美しい唇が空想に膨らむ。その様に人々がともかくもぞっとした時。
「……もういいだろう、バートレット」
東の壁から男の静かな声が猛禽の戯れを止めた。
「………………」
 振り向くバートレットと共にそちらに集中する視線が、次の瞬間には西の出口へと翻る。騒ぎを聞きつけて上官が飛んできたのだ。如才ない騎士達は即座に集会を放棄して、そそくさと流れ始めた。
「任務中だぞ、これは何の騒ぎだ? バートレット! 説明しろ」
 やって来た苦労人のヴィクシス大尉は、子供のような大きな黒目を眉で厳しくさせてバートレットに尋ねる。が、彼女は肩をそびやかして臆することなく不敵だった。
「グレン軍曹に礼儀を教えてやっただけです」
「それだけか? グレンの顔が腫れているぞ」
「ちょっと手が滑りましてね」
「グレン」
「…………」
 大尉が心配げに問い掛けるも、グレンは無言だった。打ちひしがれて座り込んだまま、沈痛な表情をしている。
 しまいに練習場中を義理で見渡して、ヴィクシスはため息をついた。
「もう、よろしい。おいエッシャー」
と、まともな騎士を一人呼びつける。
「グレンを医務室へ連れて行ってやれ。ここで呆然としていても怪我をするだけだ」
 彼を片付けると大尉は、涼しい顔に些かの酷を残している、扱いづらい部下を振り向いた。
「……バートレット。何があったか知らんが、あまり他人を苛めるものじゃない。グレンは悪い人間ではないし、あまつさえ敵ではないんだぞ。奴に悪気が無いことくらいお前だって分かっているはずだ」
 表情を変えない彼女にいいか、と彼は続ける。
「お前は喧嘩っ早すぎる。何か腹のたつことがあったとしても、まず話をしろ。話しても無駄な相手なら、喧嘩する価値もない。やり過ごしておけばいい。
 ……とにかく、ここは戦場ではないんだ。あまりやくたいもない喧嘩をして、徒に他人と衝突するな」
 大尉は有能で優しい物腰をした男で、騎士でありながら荒事が少しも似合わなかった。出て行くそのすっきりした背中の線を見送りながら、バートレットは後ろに立った男に問う。
「お前も同じ意見か?」
「……さあな」
 同僚の少尉シバリス・クレイは言いながら身を屈め、グレンが忘れていったサーブルを拾い上げた。先程彼女を止めたのと同じ声だが、今は普段どおり、ずっと軽い。
「お前は確かにグレンよりも強い。それで十分じゃないか。ぎりぎりの線まで追い詰めるのは無益だし、かわいそうだろう。
 誰だって無人の屋敷に独りで生きているんじゃないんだ。あまり人から恨まれるようなことをするもんじゃない」
 それは、一種の説教であったかもしれない。しかしバートレットは不思議なことに怒りだしたりせず、うるさそうに眉を動かしただけで上司からの忠告と同じように甘んじて受けた。
 それから二度と通りたくない道を避けるかのように速やかに、何も言わないで同僚の側を離れる。シバリスも喉元に詰まるものを持て余す顔をしていたが、結局黙って彼女を解放した。
 見送る青い北方の瞳に燃えるものは大きな憧れで、それは彼が十七の頃から、少しも変化していない。




*





 「本当に強いもの勝ちなのね。……じゃあ彼女の中では、全ての人間が自分より強いか弱いかで完璧に分類されてるというわけ?」
「いや、全てってのはどうかな。強いか弱いかは闘ってみなければ分からないから……。
 その確認を取らないで勝手に思い込んでるような人間じゃただの蛙だし、戦場じゃ長生きなんか出来ないからね。ただ少なくとも彼女と一回でも闘ったことのある人間に関しては、上下で分けてあるんだろうねえ。
 で、尊敬する相手は自分より上の人間だけど、寝台に押し倒す相手は絶対に自分よりも下の人間だけ。つまり彼女と喧嘩して、負けた相手だね」
「すごいわねえ。考え方がとても男性的」
「そうだよ。あいつはだから、女性の体を持っている男性なんだ。生き様から言えば男女じゃなくて、女男なんだろうな」
 衣ずれの音を立てて、ラエティアは彼の裸の体の上に乗った。まだ少し湿った、意外に厚い胸板の上に両腕を組む。
「ねえ……、本当に彼女とは寝たこと無いの?」
 目の奥を覗き込まれているのを感じたので、シバリスは正直に言った。女の腕が肋骨を押すのを半ば苦しく、けれど心地よく感じながら。
「無いよ。前に言ったでしょ」
「あれ以来一度も? だって、宮廷や多分騎士団の人たちだって当然、あなた方は愛人同士だと思ってるわよ」
「それは知ってるけど……」
「……だって、あなたはしたくないわけじゃないんでしょう? 口説かないの?」
 情けない顔をして、男は両目を上に寄せた。
「出来ません」
「出来ない?」
ラエティアは大袈裟に繰り返した。
「今、出来ないって言ったの? シバリス・クレイが!」
「そういう言い方して男が傷つくとか思わないの?」
「だって、おかしいわ。ほんの子供じゃあるまいし。出来ないですって」
「本当に出来ないんだもん。無理強いはできないし怒らせたくないし、怖いし、文句が喉に引っかかるんだ。……あー、もう。返す返すも下らない賭けなんかしなければよかったなあ……」
 閉じてしまった過去の扉にため息をつく。そんな彼をからかうラエティアは、なんだか妙に楽しそうだった。
「ふふ、彼女のこととなるとシバリス・クレイもまるで思春期ねえ。かわいそうに、いい気味だわ」
「ご同情ありがとう。おかげで百万力だよ。んー」
 皮肉を言い合う唇を軽く触れ合わすと、ラエティアは白い体に弾みをつけるようにして寝台から起き上がった。辺りはまだ薄暗いものの、カーテンの向こうがぼんやりと青くなり始めているのが分かる。
「さ、そろそろ時間よ、シバリス。身だしなみを整えて退散して頂戴。ノエルを困らせてしまうわ」
 はいはい、と胸の余韻を紛らわせながらシバリスも動き出す。朝が来る前に、この貴族様の屋敷からは退散しなければならない。やってきた時と同じように、窓から。
「月下祭のご予定は? また例年通り田舎の方へ?」
 シャツを羽織ったシバリスの問いに、風を入れる窓を開けたラエティアは首を振った。
「残念でした。今年はどういうわけか父様が気まぐれを起こしてこちらよ。宮廷の夜会に出ることにしたんですって。一体どうしたのかしら」
 月下祭は大きな催し物であり、宮廷中の広間の扉を開け放って宮殿のほとんど全体が会場になる。それだけに目が行き届かない祭りの、風紀の乱れを嫌って娘をそこへ参加させたがらない親貴族も多かった。
「やっぱりそろそろ娘にも結婚してもらわなくちゃ困ると思い始めたんじゃないの」
 手ぐしで髪の毛を整えながら、復讐の男は笑う。
「余計なお世話よ、憎たらしいわね。
 この間のお話は本当に相手が悪かったんだったら。あなただって一目見ればわかるわよ、馬鹿貴族の木偶の坊だって」
「ま、どちらにせよ今年の月下祭は僕は寂しい思いをしないで済むってわけだ」
「どうかしら。他にいい殿方がいたら、あなたとの約束なんてすっぽかすかもしれなくてよ。あなたは私が幾つになっても結婚なんかしてくれないもの」
「ラエティア。おっと」
 シバリスは両手を広げた。
「僕等はそういう約束じゃなかっただろ」
「…………ああ……」
 いつでも平和裏に解消可。共に人生を楽しく過ごすために、節度を守って互いの人生には干渉しない。
 憂鬱な恋愛を幾つか経て、二人が交際をすることになった一番最初に、交わした不文律がそれだった。
 近年ではそれに似た取り決めをして、互いに無用な面倒事を避けようとする男女が多い。道徳的とは言い得ないかもしれないが、平民と貴族という立場の違いを超えて結婚することはほとんど絶対に出来ない、という現実を前には、この一線は妥当な理性なのだ。シバリスもラエティアも若さだけで盲目になることの出来る十代は既に見送っている。
「そうね……。分かってるのよ……、口から零れただけ」
 それでも―――人間の心ほど操り難いものはなく、たまにどちらか一方が均衡を崩して踏み込んでしまいそうになることがあった。
 そういう時にはもう片方が彼らの約束事を思い出させて冷静にさせる。そうやって彼等は面倒くさいことの多いこの世で、面倒を起こさず、概ね楽しくやってきたのだった。
「機嫌を悪くしないで。君は最高の恋人だ、ラエティア」
 一言では方便と知れるそんな地口も、積み重ねれば心情の潮を変えられる。シバリスは捕まえたかわいらしい彼女の額に口づけをすると、耳元に囁いた。
「多分、俺は生まれ変わっても再び君を見つけ出して、きっともう一度愛するよ。
 ね、君もそうしてくれるだろ?
同じように窓を開いて、お袋さんに見つからないようにそっと手招きしてくれるよね。
 もし何かの手違いで俺がよぼよぼのじいさんでも、がんばって庭木を上って行って命がけの行為するから」
 ラエティアの大きな瞳が無益な戯言に思わず綻ぶ。
「やだ、何言ってるのよ」
「本当だよ、ぜいぜい言いながら。ラエティア〜、ラエティア〜。愛してる〜。お願いだ〜。扉を開けてくれ〜。そしたらワシの財産はみんなくれてやるうぅ。ラエティア〜、開けて〜」
「ばか」
 いつもの調子を取り戻して、贋ものの拳が贋ものの声を出す胸を叩く。シバリスは彼女からそんなふうに軽く胸を小突かれるのが、とても好きだった。




*





 規範に厳格と言われる軍備国家イステル公国でも、月下祭は年を追うごとに確かに派手になりつつあった。これもやはり、アルベラ海峡にトリエントーレが誕生した一二八二年を境に顕在化した現象の一つだ。
 前イリリア王国と公国は、かなり頻繁に国境紛争を起こしており、その毎、軍事費は国庫を圧迫していたし、国境付近の貴族達は自分の領地を迂闊に離れることができなかった。
 それが今や戦争は遠のき、月下祝祭には以前に比べれば非常に多額の費用が投入されるようになっている。そのためにわざわざ国都に出向いてくる地方貴族の数も、年々確実に増えていた。
 月下祭に限らず全ての宮廷行事の安全確保は騎士団の勤めであるが、近年では任に就いてそれなりに長い騎士でも、宮廷で見知らぬ貴族を見かけることが珍しくない。大理石の白い床の上にやや田舎っぽい新しい顔を見るたびに、シバリスは平和を強く感じた。自分の腰を見ればそこには確かに闘うための剣が下がっていたけれど、こんな場面では特にその重さに違和感を覚えたし、戦場を駆け回った昔がほとんど不思議ですらあった。
 公国にもたらされたこの思いがけなく長い安寧のことを、難しい顔をして批難する者もある。軍規の形骸化、軍隊の官僚化、戦力の低下、奢侈と無闇な怜悧の台頭。
 確かに一月ごとに戦争のあった頃よりも、全ての雰囲気が緩みがちなのは確かだ。一歩下がって宮廷を見ている騎士なら尚更にそれはよく分かる。
 それでも、
「今年はまた去年に増して盛況だな」
ノルド男爵家ご一行様がまだ来ないので、おとなしく壁際に納まっていたシバリスの感想は無害なものだ。
 音楽が鳴り始めてまだしばらくだったが、もはや広間は七割方着飾った貴族達で埋め尽くされている。その華やかさの前にしかつめらしい意見など生きる余地は無かった。
「祭りが素直に楽しいのはいいことさ――。
 ……お前は何か予定はないのか? せっかくの月下祭だ、独身生活を返上する好機かもしれないぞ」
と、鼻を向けた先には陰気なグレンがいた。
 頬の腫れはさすがにおさまっていたが、心の傷の方はまだ癒えてないらしい。それは顔色の悪さにも声の暗さにも滲み出ていた。
「…………任務だ」
「まあそう不景気な面をするなよグレン。
 バートレットは根に持つ女じゃない。お前が反省していれば気にしないで今まで通りにしてくれるさ」
 この優男は親切に助言をする。しかしグレンの表情は硬いままだった。
「俺は反省などしない。悪いことなんかしていないんだ」
 ―― その言い草は、少しシバリスの琴線に触れた。彼とて人づてに、グレンがバートレットになんと言ったかは聞いている。
「そうかねえ」
 現実にバートレットをあそこまで怒らせておいて? シバリスは素直に賛成できなかった。
「……悪くはなくとも、余計なお世話だってことはあるんだぜ。お前、彼女に態度を改めろと言ったんだろ」
 それはグレンは規律に従った模範的な騎士だから、彼の言うことそれ自体は正しいことかもしれない。だが、正しいことならば何もかもを言ってもいいということにはならない。
 この坊やはバートレットが何に対して怒ったのか分からないのだろうか? 優等生じみた人間によくあるように、規律の権利を自分の権利とでも思い込んでいるのではないのか?
 少し咎める風な響きになったシバリスの言葉に、グレンは顔を上げ、必死な目にぎらりと光を点した。
「俺以外、誰も言おうとしないからだ。このまま放っておいたら彼女はどんどん堕落するばかりで、とても俺には見ていられない」
「言葉が大袈裟だよ、お前は」
 体重の重い奴だ、とシバリスは皮肉っぽく笑う。
 堕落。自分ならば、自分に対しても他人に対しても、一生使用しないような言葉だ。
「そりゃ坊さんが使うお札だぜ。それをあいつに切るなんて無分別だ。バートレットは別に……」
「―― あれが堕落じゃないと言うのか?」
 ふいに、強い調子でグレンは彼の言葉を遮った。彼にはシバリスのように、胸に感情をしまっておくことなど出来ない。一気に吹き零れてきた。
「……かつてはただ一筋に栄誉のために戦場で剣を振るっていたあの美しい彼女が、今、練習場で同じように剣を振るっている理由は何だ? 何だ? お前は考えたことがあるか?
 ……答えは、言いなりになる男を増やすためだ。彼女に逆らわない騎士団の人垣の中で、したい時に、したい相手と、やりたいようにやるためだ!」
「…………」
 何事かと数人が振り向く中、余波を食らって、シバリスの表情に一抹の影が走る。
「そんなに頻繁ではないとは言っても、戦争を失って尚戦場の思想を体現している彼女が、どれほど下らない人間になりつつあるか、お前にだって分かっているはずだ。
 ……あれが堕落で無いというのか? お前は本当に、心からそう思うのか……?
 嘘をつくな……、シバリス。嘘をつくなよ……!」
 ……きっとこの男は、戦場で鬼のような顔をして血まみれになっていた彼女のことが死ぬほど好きだったのだろう。シバリスは無言のままそんなことを考えていた。
 無抵抗の彼を前に、グレンの表情がまたすぐと暗くなる。
「……それは、お前が言えばまた違ったんだろうよ……。何せ彼女に『勝った』、ほぼ唯一の騎士なんだからな……。
 だが、お前はいつだってにやにや笑って彼女を見てるだけだ。だから俺が言ったんだ……。
 それだけのことなのに……、お前等は俺をからかって……」
「………………」
 吐き出して、かわいそうなグレンはまた黙り込んだ。眦に青い苦しみを滲ませ、視線を落すと、唇を噛む。そのまま二人はしばらくの間、最近流行りの優しい音楽の中に突っ立っていた。
 柔らかい夜。娘達の香水と翻る裳裾の波。穏やかな人々の笑い声と固い大理石の床。小さな嵐はすぐに喉もとから消え去り、心は未だ晴れなくとも、自然と瞼が重くなった。
 どうせ寝ちまえば忘れる些事だ。
平和だな…………。
 それが一部の人間の人生を疲弊させているとは言っても、やはりシバリスは現状を喜ばしく、そう表する以外に無いように思う。




「―― シバリス君?」
 ぼんやり会場に目を注いでいた彼の名を呼ぶ者があった。
 振り向くと、そこには国軍の制服を来た一人の貴族と、初老の紳士とが連れ立って立っていた。二人とも痩せて、眼鏡なぞかけた学者じみた人間で、シバリスには見覚えがない。
 だが、向こうは彼のことを親しく思っていると見える。背の低い、……ちょっと酷薄そうな印象を与える軍服貴族の方が、小さな骨格に微笑を浮かべた。
「ああ、やっぱりそうか。相変わらず男前だが、少し印象が変わっていたので迷ったよ」
「……は?」
 シバリスが目を丸くしているのにも構わず、彼は連れの方を振り向いて彼を紹介する。
「カイン。これが例のシバリス・クレイ少尉だよ。やっと現物を見せられたね」
 連れの男は穏やかな鳶色の瞳をちょっと彼のほうへ向けただけだったが、すぐに、
「しかし、坊やの方は君の事を覚えていないようだが?」
「…………あの」
 自分の戸惑いに気付いてくれたその男にシバリスは感謝しつつ、やっと口を開く機会を得た。
「申し訳ありませんが、どこでお目にかかりましたでしょうか……」
 軍服の男はつやの無い色の薄い唇をしていた。それが横に伸びて少し奥深く笑う。
「……そうか。まあ、無理に思い出さなくても構わないよ」
事実、彼は腹を立てた様子も無かった。
「どうせそのうち、また会うだろう」
 釈然としないままのシバリスを残して、二人の男性は行ってしまった。他に誰も仲間がいなかったので、グレンの方を見たりして、はっきりしない胸の当惑を表現しようとする。
「……なんなんだ? 一体、あれは誰なんだ?」
「イングリット少佐だよ」
 意外にも仏頂面のグレンが、ぼそりと助け舟を出してくれた。
「しばらく領地に引っ込んでた男爵だ。『カソトリアの雄』と言われるあのイングリット将軍のご子息だよ」
 十五年ほど前に、劇的な逆転勝利を収めて一躍有名になった国軍将の名だ。それだけでも十分なのに、
「……それで隣の紳士は、哲学者のカイン・ヘキガティウス氏」
 グレンがそう続けるので、シバリスはびっくりしてしまった。
「なんだってえ? そんな大物なのか?」
 ヘキガティウスといえば非オデッスス産の巨頭としてイステル公国が誇る大学者だ。何の係累も無い自分に面識などあろうはずが無い。
「なんだよ、やっぱり初対面じゃないか」
 半分安堵しながら文句を言うと、記憶力の良い同僚は体を揺すった。
「ヘキガティウス氏はそうだろう。でも……、少佐には世話になったことがあるはずだ」
「ええ……? 思い出せない。どこで?」
「彼は七年前、国軍査問官を務めてた。お前、ちょうどその頃、どこかの若貴族と決闘騒ぎを起こしたことがあったじゃないか」
「ああ、それは覚えてるが……」
 それが? と問う彼の眼差しにグレンは肩をすくめた。
「その時、お前を取り調べて不処分にした査問官だよ、あの人は」
「……え?! あ!」
 シバリスは言われてようやく合点が行ったが、決闘相手ならともかく、査問官のことなど覚えていない。
 ぼやけたままの記憶を抱いてもう一度彼の顔を見ようと慌てて顎を返したが、彼らの姿は人ごみにまぎれ、もうどこにも見当たらなかった。




*





 深夜零時が祝祭の頂点だった。それを突き抜けた後、祭りはゆっくりと萎えしぼみ、理性的な家族達が帰ったせいもあって、折れた百合がしおれる様に自堕落な処へ流れ着く。
「あら、あんなところに美青年が余ってるわよ」
 ほとんど野暮の領域へ入ってしまっている警備の任をまるで放り出した格好で、女騎士達はバルコニーに陣取っていた。鍛えられて堂々とした女達の侵し難い雰囲気に、軟弱な連中は寄り付きさえしない。
「本当だ。あれは当てが外れてがっかりの図だね。遊べるかもしれないよ」
 遠慮のない女達の盛り上がりに、そっぽをむいたままのバートレットが水を指した。
「年下なんかつまらんぞ……。すぐに面白くなくなる」
「もう。バートレットはそうかもしれないけど、私たちには違うんだから」
「そうよ。大体あんた、どこ見てるの? こんな時に中庭見ていたって何も……」
 バルコニーの白い欄干に腰を下ろしている彼女の隣から、そう言いながら下を覗き込んだ騎士だが、次の瞬間には「面白い!」と声を弾ませた。
「何?」
 振り向く同僚たちを見ないまま、彼女ははしゃいで手招きする。
「見て見て! ちょうどシバリスがノルド男爵のお嬢様を、悪の道に引きずり込んでるところよ!」
 別段、その言葉に見合うほど非道なことを彼がやらかしていたわけではないが、女騎士達は欄干に殺到した。
「わ、見てあのにやけた面!」
「木の実、木の実!」
 ―― ばら、ばらばら、とあまりに不自然な音が頭上でしたと思ったら、女と寄せ合っていた彼の頭に何か硬いものがぶち当たった。
「いつっ。……なんだ、これ?」
 そう思ったところに口笛と嬌声が振ってくる。見上げると、ちっとも頼りにならない大木の、ぽっかりとひらいた枝振りの向こう側に、拳を振り回す女騎士達の顔がずらりと並んで見えた。
「女たらし! 女たらし! 騎士なんて廃業にしたら?!」
「あんまりお痛ばかりしてるとロクな死に方しないよ!」
「こっちの台詞だ! 出歯亀女共! お前らなんかと結婚してやらないぞ!」
 シバリスが景気よく怒鳴り返している隣で、ラエティアは応酬のあまりの露骨さにふき出してしまった。こんな振る舞いをすることなど自分には考えられないが、ここまで来るといっそ憧れだ。彼女は彼女の両親とは違い、女騎士とその人生というものに一抹の好意を抱いていた。
 だが――、微笑みながら彼女達を見ていられたのもまた一瞬だった。彼女の両目が大勢の中に、並外れて朱いものを掴み取って凍りついたのだ。はっと打たれて、笑いが脳の端から潮のように引いていく。
 朱い髪。結ばれた唇。人を斬る鋭い目。
……ああ、あれはバートレット・キーツだ……。
 燃える火のような印象を与える女だった。そして騒ぎの中にあっても、一人つまらなそうな顔つきで彼女と彼のことを見下ろしている上位の目だった。
 ……あの瞳の中に、本当に私、映っているのかしら?
 ラエティアがその気もなしに吸い込まれていると、唐突に彼女は欄干から下り視界から消えた。
 あっ、と漏らしたのは彼女ではない。
シバリスだった。




 身を乗り出して騒ぐ同僚達の体を擦り抜け、彼女は綻びの目立ち始めた会場を歩く。
 どこかの貴族が批難がましい目で騒ぐ女騎士達を眺めやっていた。舌打ちをするその男の尻をどやしてやってもよかったが(事実それほど彼女は退屈していた)、なぜかやり過ごして会場を出た。
 まさかヴィクシス大尉の台詞が彼女の指に刺として残っていたわけでも、あるまいが。






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