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翌日、休暇などほとんど許されない騎士達は、二日酔いの頭を抱えながらもふらふらと練習場へと集まってきた。何人かいつまでたってもやって来ない騎士があるが、そういった連中はおそらく寝室で死んでいるのであろう。減給の対象になるとは知っていても、動けないのだ。 シバリスも珍しく、頭の芯辺りに酒の悪い種が残っているのを感じていた。普段はどれほど酔っても翌日まで引き摺りはしないものだが、今朝は額が重く、気分がすっきりしない。 「やだなあ。年かなあ」 「ああ、あるよな。年」 などと、気の抜けた会話を同僚と交わしていると、戸口のところにヴィクシス大尉がやって来て「バートレット!」と彼女を呼んだ。 普段と寸分違わぬ無駄のない所作で彼女がそちらに向かうのを見ていると、その同僚がにやにやしながら彼をつつく。 「おい、シバリス知ってるか。最近、ヴィクシス大尉殿は、バートレットにやけに親しいんだぜ」 「はァ? 大尉が気に入ってるだけだろう」 「でもバートレットも満更じゃないみたいじゃないか? 別段逆らうでもなし。昨夜なんか、月下祭に来る前はヴィクシス大尉の墓参りにまで付き合ってたらしいぜ」 「墓参り?」 「大尉の元同僚の墓参りだったそうだけどな、バートレットにしちゃえらく優しいじゃないか。大尉、人当たりがよくて大人だし、頭のいい男前だし、元々女どもに気に入られていることは知ってるだろ?」 「……でも、まだ勝負してないだろ」 「おっ、穏やかじゃなくなってきたな。やっぱ大尉くらいが対抗馬だと燃えちまうか。こないだの青二才なんかよりもなあ」 「……さては楽しんでんだろ、お前!」 愉しみに弱く人の悪い同僚を小突く。ちょうどその時、戸口にまた別の騎士が立って、今度は「クレイ少尉!」と彼を呼んだ。来客だと言う。 「多分、貴族のご令嬢だと思いますよ。応接間にお通ししましたから」 「気が利くようになったな、お前」 シバリスは受付役の後輩の頭を、ぐりぐりと撫でた。 応接間は本当は私用は禁じられているのだが、使われていない時には特に文句も言われない。中に入ると、質素で清潔な椅子に腰掛けているのはラエティア・ノルドだった。 昨日の今日で、しかも白昼騎士団兵舎にやってくるなどと言うことは初めてだったから、シバリスはひどくびっくりした。 「……どうしたの、ラエティア。何かあった?」 応えたラエティアの微笑に、妙な曖昧さが浮かんでいるのに気がつく。昨日からこんな風な微笑だっただろうか、それとも今、始めて? シバリスにはしかと思い出せなかった。 「……ええ、ちょっとね……。 ……シバリス。突然で悪いんだけど、あなたに貸してあるご本、返してくれないかと思って……」 「え? ああ、いいよ」 用事の他愛なさにほっとしながら、シバリスはようやく笑った。 「なんだ。そんなこと。 ……でも、どうしたのこんな突然に。今度、部屋に行ったときにでも言ってくれればよかったのに」 「……ええ、そうね……。でも……」 その問いに答えるまで、ラエティアは少し間をおいた。だが、口を開いた時には声ははっきりしていたし、口調も寧ろ他人事のように明瞭だった。 「……残念だけど、シバリス。もう、私はあなたをお部屋に入れることが出来なくなってしまったのよ」 沈黙があった。 シバリスの目から放たれた光が、彼女の瞳孔に反射にして戻ってくるまでの間。 「――ああ……」 声が高いところから、ゆっくりと理解の地平まで落ちてきた。 「そう……。そうか……、君…………」 笑わねばならないと分かった。 「結婚することになったんだね。おめでとう……」 九割方成功したと思うが、胸に生まれた違和感がざらりと不快で、最後の一瞬、彼はつい眉をしかめてしまった。それを隠すために、額に手をやる。 「ありがとう、そうなの。 お相手は昨日、夜会に到着した途端に紹介された方よ。少し年上だけど……、頭が良くて優しい紳士だったわ」 こちらも年上の頭脳派か。掌の下でシバリスの頭が頷いたためか、彼女はその必要も無いのに先を続けた。 「財産もかなりおありだし爵位もちょうど釣り合うし……。……父様も義母様も本気だわ。……今度こそ、私を結婚させるおつもりみたいよ」 今まで、少し焦らしすぎたのかしら、と彼女は苦笑する。 「それで、相手の方の希望もあって、夜会も今後は一切、出席できないことになったの。だから本を今、返してもらおうと思って…………」 「え? 今?」 シバリスはびっくりして、いつのまにか胸の前で組んでいた腕を解いた。 「返すって、今なの?」 「そうよ。部屋に持ってるんでしょう?」 「……で、でも、実のところまだ半分くらいしか読んでいないし……。今夜まで借りることは出来ない? 暇を見つけてすぐに読んでしまうから」 あの本を半日で半分読破するのは無理よ。 その言葉を飲み込んで、ラエティアは首を傾げた。零れた髪の毛が彼女の喉元をくすぐる。 「……それで、どうやって私に返すおつもり?」 「部屋に持っていくよ」 「それはだめだわ」 失笑する恋人に、シバリスは俯くと首の後ろへ手をやった。 「だって……」 ひどく自信のない小さな、低い声を出す。 「あまりに、なんていうかな……。そう、急すぎるよ。確かに僕達はそういう約束でお付き合いをしていたわけだけど、つい半日前には確かに……」 修辞に達者な彼が言葉に詰まった。 言いたいことははっきりしている。彼は残念だったのだ。だのにその深さが上手に表現できなかった。もどかしさを覚えながら、シバリスは代わりに手を動かす。そう振舞う自分のあまりの幼稚さに顔が赤くなりそうだった。 しまいに役立たずの口を押さえ、一緒に胸の昂ぶりをなんとか奥へ押し返した彼は――――、苦心して回り道な提案をした。 「……ラエティア、もう半日くらい余裕が欲しいし、それくらいは大した問題じゃないとは思わないか? 君もそういう思いはあるだろう? その、かなり……唐突だって。 ……約束するよ。もう君には婚約者様がいらっしゃるんだし、……本を返して、真面目にさようならを言って、そしたら僕は帰るから。本当に、約束するから……」 「……それは当然、約束してもらわなくては困るわよ」 微笑を作りながら、ラエティアは裏で躊躇していた。 彼を許してはいけないのではないのか? それならば本など要らないと言わねばならないのではないだろうか。道を過たないためには。 ……けれど、彼女の中にも確かにあった急激な変化への戸惑いと、何か自尊心めいた心が、その場では彼女に「わかった」と言わせてしまった。 「じゃあ、普段どおりに部屋へいらっしゃい。私はきちんとした格好をして、お茶を淹れて差し上げるから……。お友達としてね」 「ああ、わかった……」 約束が出来ると、彼等は二人とも急に余裕が出来た。今までどこかに入り込んで、隠れていた普段どおりの雰囲気と微笑みとが、現金に舞い戻ってくる。 「じゃあ、わざわざご足労頂いたのに悪いけれど……」 「ええ、退散するわ。さようなら」 あまり貴族の人間が出入りするようなところではないし、シバリスにも訓練任務がある。ラエティアは気も悪くしないで身軽に席を立った。 「あ、そうだ。参考までに」 扉のところで彼は彼女の背を呼び止める。 「君の旦那さんになる幸運な男は、どこの貴族だか聞いていいかい?」 「ええ、多分あなたは知らないと思うけど……」 彼女はそれだけが相手の欠点だ、とでも言いたげに眉を八の字にした。 「シン・イングリット男爵よ。―― 国軍少佐の」 シバリスが瞬きを忘れている間に、彼女は部屋から出て行った。 * 夜がやって来た頃には、シバリスは自分がずっと思っていたほどよく出来た人間ではないことを、はっきり認めなければならなかった。 それはラエティアのほうも同様で、昼間には精一杯にこやかな会話をして別れた二人だったが、その九時間後、いつもの通り彼女の部屋で再開した時にはめいめい、どうしようもない深刻さをあちこちのほころびからはみ出させていた。 それでもなんとか分別じみた芝居を続けていた彼らだが―――― 「……やっぱりこんなことするんじゃなかったわ……!」 約束どおりお茶を淹れ終わった瞬間、ラエティアは露骨に口調を荒げて緞帳を破った。 「まるで馬鹿な女のすることよ、こんな見苦しいこと……!」 そして自分自身に耐え切れないかのようにテーブルに肘をつく。形のよい眉毛を無残に崩して、彼女は心から不愉快そうだった。 「………………」 シバリスが無言でいると、彼女は突然素直な声になって、 「ごめんなさい……」 と謝った。 「私、あなたにとても迷惑をかけてるわね。契約違反もいいところだわ、こんなの。 自分がこんなに手が掛かる人間だと思ってもみなかったのよ……。……信じられないわ」 沈黙の中を時計の秒針の音が流れていった。この部屋に時計などあったのか。その存在すら意識したことの無かった小さな細工物は今やひたすらに意地悪く、無慈悲な未来ばかりを目指して進んでいた。 「…………」 「……ねえ、シバリス」 呼ばれる。彫像のようになって、秒針の音を追っていたシバリスはやっと首を動かし、恋人の声に応えた。 「うん?」 するとラエティアはしっかりと組んだ手を赤い唇の前に沿えていた。まるで神の前に立つ時のように。自分の罪を告白する時のように。 ―――― 美しいひとだ。 シバリスは今更打たれて目の焦点がぶれた。 「……私が兵舎から出て、あなたのやってくるほんの五分前までの間ずっと……、何を考えていたか分かる?」 シバリスは応えて眉毛を少し動かしたに過ぎなかった。彼女の低い声が先を続ける。 「私ね、……よかった。あなたが傷ついたような顔をして、って思っていたの」 人の瞳孔はみな鏡だ。だから真っ向から見詰め合う時、そこには無限の回廊が生まれる。 「………………」 「あなたがうろたえた。私を失うと知って傷ついた。本当によ、わかるわ。あれは心から傷ついている顔だった。よかった。嬉しい。私は愛されている。 そう思いながらあなたの顔を思い出しては、ずっと独りでほくそ笑んでいたの……」 思いがけなく身近にあるその底なしの世界に、シバリスは引き込まれ、返事が出来ない。その時ふいに、ぼうと湧いて出た涙に入り口が閉ざされた。 「……なんて馬鹿ッ…………!!」 ラエティアは喉を絞って、テーブルの上に俯く。 「なんて意地汚い女かしら私……!! やってられないわ……!」 「………………」 金縛りから解けたシバリスは、無味の紅茶にやっとのことで口をつけながら、変化のない肋骨の下で心ばかりがわななくのを必死で抑えていた。 ―――― どうして今更。 こんなに飾らない愛の言葉を彼女から受け取ったのは今夜が初めてだったのだ。一年近くこの部屋に通い、もう数え切れないほど彼女と肌を重ねていると言うのに、彼等はいつも一種の芝居がかった耳障りの言葉を交わしてきただけだった。 その幾千の台詞の中には、台詞であるという範囲を超して彼らを突き動かしたものもある。けれど、今彼女が吐露した言葉に勝るものではなかった。 「…………」 シバリスは両手を組んで、熱い額をつけた。そこにはかつてなかった程激しく動悸する血脈がある。 ……今更、こんな気持ちになるなんて。唸り声が漏れそうになった。 残念どころじゃない。別れを目前にした今になって、最も深い愛おしさに辿り付くなんて……! 「……俺こそ思い上がってた……」 全身に染む痛みを小さい声で吐き出してみると、それは確かに懺悔の形をしていた。自分の感情を容易く制御できると思い込んで、偶然と実力との境を見損なっていた自分への、取り返しのつかない後悔と自責だ。 「……最初から、無理だったんだ。君が幼稚なんじゃない……、情けないことなんかない。ただ、俺たちには無理だったんだ。言葉でなんと誓おうと、こんな時、表情一つ変えないで互いのことを忘れ去るなんて不可能だ……。 ……十八の頃を思い返しては苦笑していたよ。青かったなと思って。若くてガキだったからあんな……決闘とか賭けとか下らない真似を重ねていたんだと思って」 まぶたの上から震える瞳を指で押さえる。そして首を振った。 「……違う。 違った。若いから失敗するんじゃない、青いから我慢できないんじゃない。最初から、俺には無理だったんだ。君と出来ない約束をしていたんだ。 それなのに幸運の存在を忘れ果てて思い上がってた。どうだ、俺は大人だ。一線を弁えて、女性と上手に交際できるんだと」 グレンのような騎士の真面目をからかいながら。 「……その罰が……、きっとこれなんだ……。 やっと君を見つけた……。それなのに君を手離さねばならない……。 他愛の無い本が突然惜しくなる……。けれど読まねばならない……。 心から愛しい人ができた。それはきっと幸福だ。……それなのに、その人が他の男の妻になるのを…………ただ……」 シバリスは顔を伏せた。青白い眉間に深い溝が刻まれているのが、落ちた前髪からのぞく。 「見ていなければならないなん…………」 「…………シバリス……」 ラエティアは呆然として呟いた。 「……どうして……? あなた……、どうしてそんなことを言うの……? 今夜に限って……」 彼女もまた、今まで聞くことのなかった言葉を彼から聞いて慄然としていたのだ。 「だって……、あなたはそんな柄じゃないわ……。こんな時には私の子供っぽさを……、叱ってくれなくちゃだめじゃない……」 言ったって仕方のない文句。皿から零れていく水のきらめきを前に為す術もなく、ただただ心惜しさの矢が背骨に何本も突き刺さる。ラエティアの声がぐしゃりとなった。 「ずるいわ……。どうしてもっと早く……」 「……すまない」 シバリスは本を差し出した。結局終わりのページまでたどり着けなかった。残りの紙の枚数がそのまま、自分達の終わりに直結しているのだと思うと、シバリスは指が震えて、とても文章など理解できなかった。 そして足掻いて末に、思い知った。 「時間を無駄にしていたんだ……」 と。 「もっと早く気がついていれば……」 滲み出た涙を指で掬うと、シバリスはただ快楽だけを追い求めて過ごした日々の遊惰を悔やんだ。 やろうと思えばすぐにここまで到達できたはずなのに。そうすれば、少なくともこんな自責の中で彼女を他人の手に渡すなんてことは、許さなかったかもしれないのに。 シバリスが顔を上げると、ラエティアも同じように泣いていて、正面を向いたまま頬を涙が一筋、伝っていた。 こんな美しい彼女を見たことがない。今まではいつだって自分も彼女もここに向き合って座っていたのに。核心はすぐ側へ眠っていたのに……。 一体自分達は何をして三百日もの長い間を過ごしていたのだろう。 言葉で表せば震えてしまいそうだった。シバリスは手を伸ばし、テーブルの上で力無くなっていた彼女の手を握る。すると彼女の指と脈動とが一緒に、彼の皮膚を握り返した。 いけない―――。 雷のようにそう閃いた時、外は春の夜だった。そして彼等が出会った日とまるで同じように、青白い三日月の晴れ渡る空だ。 その下でもうすぐ終わりのはずの女のその唇に自分の唇を合わせるのを、彼は止めることが出来なかった。 * 「―― おい、シバリスはどこへ行った?」 大尉からの言伝を預かって彼の部屋を訪ねたのに中が空なので、伝令が広間でカードをやっている連中に尋ねた。 「ああ、あいつは今夜もラエティア嬢と逢引だよ。相変わらずまめな男だね」 一人がそう答えるが、別の一人がそれに、 「えっ?」 と異議を挟んだ。 「彼女、結婚するって噂だぜ」 「ええ? そんな話聞いてないぞ」 「そりゃそうだ、今朝、宮廷に流れ始めたばかりの情報だからな。俺は朝、騎士団長殿のお供で王宮に行った時、聞いたんだ。 なんでも相手は国軍少佐のイングリット男爵らしいぜ。そのために男爵も領地から出てきて、こちらの屋敷の準備期間中、ノルド男爵家に滞在してるんだそうな。そうなると、もう本決まりだろ?」 「え。でも、じゃあ…………」 小さなテーブルを囲んでいた四人の騎士と伝令係は顔を見合わせる。沈黙の後、一人がカードで口元を隠しながら言った。 「……う、うっわ〜。あいつ、やばい橋渡ってるんじゃないの……」 これは罠だわ、シバリス……。 掠れる彼女の言葉の意味は分かった。 これは愚かしい人間達が辿るつまらない末路。 身軽でない男と女が迎える陳腐な醜聞。 分かったし分かっていた。 けれども彼女の抗いが本当でないのと同じように、彼の理解も建前に過ぎなかった。それは分別の一種だったが、肌に痛む真実ではないのだ。 その名で呼ばれる判りにくいものがどこにあるか、シバリスは今なら言うことが出来るような気がする。 真実は今、両腕の中にあるのだ。 明日や来世のことなどどうでもいい。たった今のこの強烈を手放すことなど出来ない。とても出来ない。じいさんになっても俺には不可能だ―――。 それでも危うさの炎が背中辺りに熱風を吹き付けて、自分らしく自らを見失った彼等の、揺れ動く夜を震わす。 |
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