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風の中に春の匂いがする。 慣例の訓練報告を行うために昼過ぎ、連れ立って宮廷に足を運んだ時だった。 前を歩くヴィクシス大尉の靴が床を蹴る規則正しい音が、ふいに微かな乱れを刻んだかと思うと、やがて完全に止まった。 「…………」 後を歩いていたバートレットは、苦もなく歩調を合わしたが、道半ばに立ち竦んだ上司の背中に怪訝な視線を投げる。 「…………シ、シン……?!」 ヴィクシスは死に別れの戦友に、ばったり巡り合ったかのような声を出した。だが相手の男、シン・イングリットは反対に落ち着き払って同じではない。 「やあ、アール。久しぶりだね」 杖を小脇に抱えて、手袋をはめにかかっていた為か、イングリットはヴィクシスに握手を求めようとはしなかった。 「元気そうで何よりだ。だが少し痩せたかね?」 「あ、ああ……」 ヴィクシスの言葉は相変わらず明瞭ではなく、男達はどこかぎくしゃくとした、隔たりのある再会をしたように見えた。 バートレットの両目が後ろからじろりとイングリットの細い体を一瞥し、それからすぐと不愉快げな皺を瞼の下に刻んで視線を逸らした。 バートレットがうんざりしたのは彼の手だ。しなやかさを保ったままの、ちょっと不自然なまでに細く白い指。 それは戦場で剣を握るものではない。日当たりの悪い執務室で、署名を書き散らす事務屋の手だった。身を危険にさらしたことなど無いくせに、人に突撃を命じる書類をばら撒く、そういった迷惑千万な役人の手だ。 一気に興を失した彼女は、二人の話が終わるまで、一歩下がって知らん顔をしていた。そんな部下の姿も目に入らないで、ヴィクシスはたどたどしく会話を続ける。 「……いつ、こちらへ出てきたんだい?」 「なあに、月下祝祭からだよ。君はそう言えば祝祭にはいなかったな」 「ああ、ちょっと所用で……」 と、ヴィクシスは泡を食ったように表情を曇らせた。 「……すまなかった、シン。ずっと何の連絡もせずじまいで……。 いつか謝ろうとは思っていたんだ。俺は君や君の家族のことを傷つけるような、そんなつもりではなかった……」 「昔のことだ。気にするな、アール。私は過去のことはもうどうでもいい」 箱は焼いてしまったし、と彼はよく分からないことを付け加える。 「…………」 大尉は複雑な表情を浮かべた。一応ほっとはしたものの、片やその言葉に対する疑いを払い切れない様子だ。 そんな彼にちっとも気兼ねせず、イングリットは速やかに話題を変える。そのさりげなさは自然で、傍で見ているとヴィクシスが何故慌てているのか理解しかねるほどだった。 「ところで今度私は結婚することにしたよ」 「そ、そうなのか?」 「ああ、公爵殿下の許可も先ほど頂いてきたのでね」 「それは……、おめでとう! ……あ。では……、こちらに老男爵も……?」 「ああ。明日にでも出て来るだろう。イストレは何しろ娯楽に暇の無い都だから、父にはもってこいだ」 丸い眼鏡を押し上げると、狼狽の色を消し損ねている迂闊な旧友に、彼は一言だけ付け加えた。 「なかなか麗しい騎士を連れているようだが、君はまだ独身かね?」 別れ際、イングリットは自分の婚約者の名前を告げていった。ヴィクシスは眉間に皺を刻む。 「ノルド男爵令嬢と言えば……、シバリスの恋人じゃなかったか?」 「そうでしたか」 無感動な受け答えをする部下を振り向いた。 「……知らないのか? 月下祭も一緒に行動していたと聞いたぞ」 彼の言葉に、バートレットは目を閉じる。 「私の知ったことではありませんので」 それから遠い意識でやっぱりそうだと彼女は思った。 午後に渡る風の中に面倒くさい、春の甘い匂いがするのだ。 * 中空に月が、意地悪な密告者がほくそ笑む形をして浮かんでいた。 肌に温い春の夜はどんよりと濃い青色で雲を浮かべ、月以外の星の光をほとんど消している。 眼鏡を外して辺りなどほとんど見えないであろうに、窓枠に腰を下ろした無作法な男は 「よく見える」 と、でたらめを呟いた。 「そうかね」 ヘキガティウスは書き物の手を止めないで、素っ気無く答える。この学者は全身が付き合い悪く出来ているのだ。酒も全然嗜まないので、窓際のイングリットは一人でゆっくり飲んでいた。 「自分でも目が醒める心地のするくらい色んなものがよく見える。丘にでも登ったような気分だよ。 ……やはりどんな処でも一度離れてみなければ分からんものだな。……君には普段からさぞ色んなものが見えるのだろう?」 どんな故郷にいても何故か必ず異邦人となってしまう偏屈な彼を、イングリットはそうからかった。彼等は親子ほども年が離れている上に身分違いだったが、互いにいつも砕けたもの言いをする。 だから今も、学者はすくめて、遠慮なく彼の意見を感傷と断じた。 「見えているものはいつもみな同じはずだ。君は懐かしさや感情のために、なにか多くのものが見えていると思い込んでいるに過ぎない。 非科学的な物言いも悪くはないが、人を納得させるのは難しいぞ」 「そうかな。ではカイン、……君は今、雨が降っていることを知ってるかね?」 ヘキガティウスは顔を上げた。彼ははったりを言うような男ではない。だが、ペン先が紙をこする音が止まっても、耳に雨音は響いてこなかった。 「……降っているのか?」 「降っているとも。絹糸の舞い散るような霧雨だ」 窓の外は真っ暗のはずだ。しかも、シンは眼鏡を外している。学者の表情に鈍い現実の影が落ちた。 「―― 本当にか?」 「ああ。明日の朝は木々が濡れて生き生きとしているから見てるがいい。……分かったろカイン。私は今、見えるんだよ」 辺りが本当にしんとして、そして確かにほんの微かな雨音が天井から染み入った。 「…………」 友人がちょっと言葉を無くしているのを見ると、イングリットはむきになったのをわびるように苦笑を浮かべる。 「……ところで父は明日到着するそうだ。カイン、申し訳ないが以降は彼の世話を見ていてくれないか。 あまりに素行が悪くて、前途多難な僕の結婚がぶち壊しにならないように、ね」 * 長い廊下だった。 あの夜からこっち、馴染みの廊下を永遠の長さに感じる。 この道のりが尽きなければいいとも思うのだ。だが必ず廊下は終わって、男爵家の夜へと続いた。 それでもいつも道の半ばに迷っているような気がするのは何故だろう。世界を曇らすこの霞のせいだろうか……。 シバリスはその夜、兵舎を抜け出そうとした廊下の先で、ばったりバートレットに会った。彼女はややうろたえる彼に構わず、脇に抱えた小さな本に一瞥を与えると、 「今夜もか?」 とあけすけに尋ねる。 「……ああ」 「よくもまあ、そこまで入れ込んだものだ」 バートレットはおかしそうに、冷たく言った。つられて、こんな状態なのにシバリスもおかしくなる。 「……そうだな」 感情が変になっているのか涙まで出てきた。目尻にたまるそれを指先で散らしながら、シバリスは自分の情けなさがつくづく骨身に染みた。 「俺も彼女も確かに変だ……。奪い取られると知った途端、獣じみた感情がぼこぼこと湧いて出て……」 彼女は知りはしないけれど、シバリスとラエティアはつい一週間前には、バートレットのことを寝床で平気な顔をして話していたのだ。ところが、今や彼女との恋愛を、その終わらない苦しみをバートレットに話している。 ―――― どういう寸劇なんだ、これは。 シバリスは苦い笑いを奥歯で噛み殺す。戦場で砂まみれの羽虫を噛むように。 こうして今はお前の前に立っているのに。彼女は俺がお前に執着していることも重々知っているのに。今は直接お前にからかわれても、その姿が目に映っていても、それでも彼女に逢わずにはいられない。 「……お前の方は? 今まで仕事か?」 「ヴィクシス大尉の用事が長引いた」 「……バート」 思わず息を飲むシバリスに、先を言わせず彼女は眉をつり上げた。 「下らん話が聞きたいならまたにしろ。俺にもお前にもそんな暇などないのだろうが?」 そのまま兵舎の方へわき目も振らず戻っていく。答えを求めるかのように、彼女の後ろをかなり長い間眺めていたシバリスだが、やがて引き剥がすかのようにきびすを返すと、終わらない廊下をまた歩き始めた。 そしてシバリスという名の惹かれやすき獣はその夜、本物の罠にかかった。手順どおり開け放たれた窓から灯りの消えた部屋に下り立つと同時に、ひやりと冷たい金属の匂いが彼をはっとさす。 身を引こうとしたその瞬間、背中で男の声がした。 「―― 動くな。貴様のためにならんぞ」 脅し文句ではなく、現実の力を持った男の、冷静な一喝だった。ただそれだけで、シバリスの全ての動きが封じられる。 蝋燭にかけられていた覆いが外され、完全な暗闇だった部屋が現実に浮かび上がった。そして彼はそこに、武装した兵士達に完全に包囲されている自分を見出す。 どういう状況なのかはよく分かった。間抜けな間男、捕らえられけり――。 そんな地口を思いつくと気分が悪くなった。どれほど自分自身が必死で真剣であろうとも、爾後自分はそう呼ばれるのだろう。下世話な席で下世話な話題として。 「…………」 シバリスは瞬きをしながら眩しげに周囲に目をやった。全て国軍の制服を着た男達だ。銀色の剣は全てが間違いなく自分の方へ向いている。抵抗は考えられなかった。シバリスは動きが起こるのをひたすらに待つ。 ―――― なかなか潔いな少尉。 声がしたのは廊下に通じる扉の方だった。黒々として大きな木の扉を背に、シン・イングリットが腕を組んで立っている。蝋燭の明かりが眼鏡に反射して目の表情を消していた。 三度目になるのだろう。シバリスは今一度男の顔をしげしげと眺めながら、初めて口を開く。 「……少佐、私はあなたとは待ち合わせをした覚えがありません……。彼女は?」 「ラエティアかね? 部屋を移ってもらったのだ。君との『待ち合わせ』を私に告白して、今は……」 「白状の間違いでは?」 「ご母堂の胸に抱かれて泣いているよ」 「嘘だ。彼女は後妻である義母が大嫌いです。独りで泣かしてるんでしょう」 応じず、イングリットが顎をしゃくると、シバリスの背後の男が彼の両手をつかみ、否応もなく後へ回した。 持っていた恋愛小説が床へ落ちる。 分厚く重い本が、彼の後ろでごとりと音を立てた。 「いて……」 皮膚を傷つける荒すぎる感触に、手縄を掛けられたのだと分かった。どうやら何らかの手続きを踏む気らしい。 「クレイ少佐、君の身柄は国軍査問局が預かる。異存はないだろうね」 恋敵の言葉に、シバリスは薄笑いを見せた。 「つまりあなたの島ですか」 「このまま騎士団調査室に渡したのでは、貴族階級全体への侮辱になるからね」 「男爵。記憶に間違いが無ければあなたは確か、以前は僕にとても寛大だった……」 過去を共有する二人の男は見合う。やがてイングリットは大股でゆっくり歩み寄ってくると、ものも言わず突然に、笑みさえ浮かべていた彼の横面を思い切り張り飛ばした。 避けることも叶わなかったシバリスと彼の前髪が乱れ、よろめく。 「―― 洒脱もいい加減にし給え」 周囲の兵士達をも圧迫する低い、冷静な怒りの声。 「私はあの間抜けな子爵と同じではない。こんな真似をしてただで済むと思うな。貴族の顔に泥を塗った償いは存分にしてもらうぞ」 「…………く……」 男から力いっぱい殴られたのは久しぶりだ。 そうだ……。この痛み。血の集まってくる感覚。そして頬が熱されると同時に跳ね返る、手に余るほどの強烈な……――― 憎しみ! 「イングリットぉ…………ッ!」 突如覚醒して突撃せんとした彼の体を、幾本もの手が引き戻す。 「人生を狂わされて憤怒する権利は貴様にだけしかないのか! 俺には青い血がないだけだ! それだけで手縄を掛けられ、屈辱の中で貴様に彼女を奪われるこの理不尽は…………ッ!!」 「おや――」 無事なところに立つイングリットは笑った。白い歯を見せて。 「君には騎士団に思い人がいるのではなかったのかね?」 瞳孔に翻る朱い髪。そして、 「――…………」 シバリスの意識から言葉が消えた。 「聞いたよ。君達は契約を結んでいたそうだね。今となっては無益な約束だったようだが、そんなものを真剣な相手と結ぶ人間がどこにいるかね?」 「…………」 「君のしたことは、玩具を奪われるのが嫌な子どもが地団駄を踏んでいるのと一緒だよ。 ……永遠でないことに気がついて、恐ろしくなったのだ。泡を食ったろう? まだまだ先があると思っていたのに。 ……それ自体は下らない小説でも、半ばで奪われるとなると惜しくなるものさ」 イングリットの振り回す言葉という名の剣には狂いが無かった。的確な手つきで、シバリスの急所を一々突き刺す。返り血も意に介さず、彼はさらに刃を押し込んだ。 「八つ当たりは止めてもらおう。私はそんな文句に耳をかす暇はないのだ、君と違ってな」 若い男はもう暴れなかった。ただ斜めになった小説の表紙を呆然と眺めていた。それを見た少佐は鼻を鳴らすと部下の方を向き、 「シバリス・クレイ少尉を国軍第三級営倉へ。但し、特殊犯扱いとして、独房だ」 ほとんど引き摺られるように脱力した四肢で歩みながら、シバリスは血が足りなかった。真っ白になった頭の中で思っていた。 ――――どこから始まっていたのだろう? どこからが『子どもの遊び』だったのだ? 出口のないことを薄々感じながら尚、夜を重ねた辺りからなのか、そもそも履行不可能な約束を交わした頃からなのか。 いや、それとも ―――― 夜の廊下を流されながら、シバリスの思考は直視できない恐ろしさへ向かっていた。 それとも……。ラエティアとの関係自体が初めから、何らかのごまかしのために結ばれたとてつもない…… 『時間の無駄』だったのか。 やがて空気の冷え込んだところへ運ばれた彼は、縄を解かれ、冷たい石壁に突き飛ばされて背中を打った。 |
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