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蒼 天 無 音
- 4 -




 シバリス・クレイが国軍に捕縛されたという報はすぐ、宮廷と軍の全関係者に知れ渡り、騎士団は騒然となった。
 どたい、自由を標榜する一人前の公国騎士が貴族の娘と恋愛をしたことを罪と咎められ、当事者によって国軍律で裁かれるなどという出来すぎは、騎士に対する露骨な嫌がらせと受け取られても仕方がない。
 国軍と騎士団の関係が現実的な問題を孕むまでに悪化することを恐れた騎士団幹部は、何とか事態を収拾しようとイングリットとの交渉を始めた。シバリスの身柄を国軍から騎士団へ移し、少なくとも騎士団律で処分を決定するところまで持ってくるのがその目的だった。
 だが、まるきりそんな心労に構いつけない男爵の慇懃の前に、幹部連の努力は空振りし、彼らの焦りは募るばかりだった。




「……時間の無駄です、大尉」
 痺れを切らして、バートレットは腰を浮かした。テーブルについて馬鹿な同僚のために無益な折衝を繰り返している上司に、そう囁きかける。
 目の前の男は以前にも増して鉄面皮で無感動であり、短気なバートレットはほとんど交渉開始直後から、説得は無理だと思っていた。
 結局どうあっても、彼はシバリスを手放す気はないのだ。どんな条件を出されても、あの白々しい顎が縦に動くことは絶対にない。
「こんな石頭相手にこれ以上話を続けても何も進展しませんよ」
 無遠慮な声がイングリットの方へも聞こえたと見えて、彼は無表情をちょっと崩し、愉快そうに彼女の方へ視線をやった。
 だが、大尉アール・ヴィクシスの方は腕を組んだまま、まだ諦めようとしなかった。一段と難しい表情で部下の方を振り向くと、
「……ではバートレット、お前は先に戻っていろ」
と言う。
 バートレットはしばらく彼の顔を見ていたが、二、三度首を振ると「わかりました」と言って部屋から出て行った(多分、ヴィクシスが彼女に待っていろと言わなかったのは、廊下で小競り合いなど起こして欲しくなかったからだろう。)。
 あまり広くない部屋の中に、男二人はなかなか手の込んだ机を挟んで対峙していた。二人とも腕を組み、ものを言わないでいたが、互いに互いを視界の中に入れることに抵抗は無かった。
 それでありながら、特にヴィクシスはイングリットを真っ向から睨みつけることが出来ないでさっきから長らく苦労している。
 つまり彼等は破綻した古馴染みだったのだ。互いの出自も人生も、些か抜き差しならぬところまでよく知っていて、だのに苦い結末を迎えた恋人同士が再会したようなものだった。
「彼女は君が昔、国軍にいたことは知らないのかね?」
 やがて、イングリットが世間話でもするみたいな口調でようやく言う。ヴィクシスは眉を上げた。
「……分からない。彼女のことだから何か気が付いているかもしれないが……」
「まあ君が子爵級の人間であったとはまさか思うまいな。あんな中途半端なところで辞めたりしなければおそらく私などよりずっと職級は上だろうに」
「国軍は肌に合わなかったんだ」
 ヴィクシスはテーブルの上で指を組んだ。
「いつかは必ず辞めていた……」
 かつては自分と同じ、華美な制服に身を包んでいた男に、シンは皮肉な視線を投げる。
「そうかね。国軍の何か馴染まなかったと?」
「貴族が貴族であるという理由だけで上位職級を独占するあの構造だ。……そのために無駄死にを強いられる有能な一般兵士達だ。そして貴族対平民の、無いことになっている激しい反目だ」
「ふうん」
 シンは首を傾いでうそぶいた。彼にはこの気持ちが分からないのだろう。ヴィクシスは悲しくなって横に逸れた会話を打ち切る。
「それよりもシン、シバリスを放してくれ。何度も言うようだが、彼は目立つ騎士だし人望のある男だ。
 彼が捕らえられたとあっては、騎士達は黙っていない」
「暑苦しい連中だ」
「君が顔に泥を塗られたというのは分かる。だが、こんなやり方はやめて公正な裁きに掛けてくれ。これでは私恨の暴走と言われても仕方がない。少々子供じみているとは思わないか?」
「思わないな」
 シンは突然テーブルを立った。気分を害した様子でもなかったが、薄い唇から吐き出される言葉は冷淡だった。
「君も一度婚約者を目の前で寝取られてみるがいい。そうすればそんな説教は出来ないだろう……。
 悪いが失礼するよ。私には色々仕事があるし、君達のためには十分時間を割いたつもりだ。これ以上何か言いたいなら、書面にしてくれたまえ」
「逃げるな、シン!」
 彼を引きとめようとしたヴィクシスの言葉は空回りした。三日月のような薄笑いを浮かべたイングリットは旧友に背を向け、部屋から出て行ってしまう。
 取り残されて感じたものは時の流れだった。
明らかに彼は変わってしまっていた。昔はもっと誠実でもっと柔軟な、公平さの塊のような男だったのに。自慢の友だったのに……。
 ヴィクシスは悲しみを込めた眼差しで閉じられた扉を眺める。




*





「……怒ってらっしゃらないのですか?」
 目の縁が赤く腫れて、自分は女優のようにひどく悲劇的な顔をしている。それと向かい合っていると、鏡の右端で侍女がそう言った。
 二日前の昼過ぎ、ずかずかと部屋に入ってきたイングリット。その後でただ黙っていた彼女の姿を見たとき、ラエティアは長く仕えてきた侍女が何を彼に喋ったのか、すぐ察した。
「……私を首になさって当然ですわ」
 貧相な頬をした少女が落ち込んで言うのを、ラエティアはいつもよりも鼻にかかった声で、否定した。
「いいのよ、ノエル。私は寧ろ……」
口を噤む。
 相手が女であり、長い使用人であるがために言える言葉だった。彼女は寧ろ――ほっとしていたのだ。
 永遠に続くなどとはまさか思っていなかった。けれど、あの甘くて強烈な日々には出口がなかった。転落を止めるためには、無作法だが容赦のない外部の手が必要だったのだ。
 事実、彼女はこうして現へ戻ってきている。
一晩は確かに泣いた。しかし悲嘆に沈む欲望の裏側では、彼女の冷静な頭脳が、こう囁いていたのだ。
 これであの果てしなきは終わった。と。
これで私は人々から愚かな女と言われないでも済む。あの人と同じだと言われないで済む……。
「……あなたに感謝するわ。……これで私は少なくとも……、母の二の舞はしないで済みそうだもの……」
 牢の中でシバリスが辛い目にあっていることを考えると、このような感情を抱くことはひどいことなのかもしれない。
 だが、ラエティアは間違いなく安堵しており、脈拍の正常さをごまかすことは出来なかった。
 ……きっとこれからは、私はイングリットの細いが理性の力を持った手に導かれていくのだろう。二度と間違いを起こさず、静かで成功した道を歩いて、いつかは人々から一目置かれる女性になることができるだろう。
 長い廊下の先、扉は閉じてしまったのだ。それはきっと優しいけれど無分別な少女時代の終りなのだ。
「だからこれで、よかったのよ……」
 呟く主人の肩口に作られた狭い世界の中で、若い侍女は悲しそうに、青い大きな目を伏せた。




*





「シバリスへ
 幸運に助けられてこの手紙があなたの元へ届くことを願いつつこれを書きます……。本当はたった五分でもいいから直接会い、あなたとお話をしたいけれどとても望めそうもありません。だから、手紙でお別れを言います。
 ……誰かに強制されて、私がこれを書いているとは思わないで下さい。私はあの悲しい夜以来、毎日泣きながらずっと考え続けました。そして今朝、まだ口数の少ない家族達と朝食を摂っている時、思ったのです。
 このテーブルも、この白いナフキンも、磨かれた食器も、活けられた花も光が差し込む東の窓も、みんなみんな私が産まれてからずっと私の身の回りにあった物だ。私は生活といった時これらを思い浮かべるし――――、いえ、裏を返せばこれらなくして私の生活はないのです。
 シバリス。あなたとは確かに宮廷という同じ場所で出逢いました。そしてきっとあなたが騎士として教育され、洗練されていたためだと思いますが、私はあなたといる時に何らかの落差を感じたりしたことはほとんどありませんでした。
 だからきっと……、夢を見てしまったのです。もしかしたらあなたと人生を歩むことは楽しいことかもしれない、ずっと歩んでいけるかもしれないなどと。
 けれど、本気になって考えてみれば無理に違いありません。世の転落した貴族の娘達が、非常に苦労した挙句、恥を忍んで出戻ってきたりする。その図式が今私には分かります。結局のところ、身分の差はともかく生活の差を越えることは、不可能なのです。
 ……シバリス。
聡明なあなたのことです。私は今頃きっと、あなたも同じことを考えていると信じます。
 あれはやはり過ちでした。私たちは元々道が違っていることを知っていながら、動揺したのです。別れと知ってまるで子供のように、分別も他愛もなくうろたえたのです。私の言うことが分かりますね。
 ……だから、私のために辛い目にあっているあなた。もう、私のことは忘れてください。そして、あなたの身を守るためにありとあらゆる手段を尽くしてください。
 屈辱的なこともあるかもしれません。けれど、私の望みはただあなたが生きてくださることです。私も出来るだけイングリットを刺激しないように気をつけて、あなたの処置を軽くしてもらうよう働きかけようと思います。彼はじき整備の済んだ私邸に戻る予定ですが、それまでの間だけでも。
 それでは、もうお会いできないかもしれませんがどうか、どうかお元気で。さようなら。
 あなたの恋が早く報われますように…………」



 シバリスは細かく折りたたまれて食事と共に持ち込まれた手紙を大雑把に閉じると、寝台の上、草臥れたように壁に背を預け、ため息をついた。
 上を向くと「調査」と称して気ままに殴られた傷が引きつって痛む。目頭に手の甲を当てたのは涙が零れそうになったからだが、実際には少し目じりに滲んだだけで泣くといったほどではなかった。
 神さまとやらは感情に溺れることすらもう許さないらしい。脱力に任せ、壁からずるずるとずり落ちるまま上体を倒した。そのまま仰向けになると、雨漏りの染みのついたかび臭い天井を見上げる。
 まつ毛に縁取られた水色の半球の上を涙が滑っていった。
 あの――……。と、咽喉が波打つ。
あの、鮮烈な執着。あの愛しさ。あの鳥肌の立つような恐怖感と果てしなく続く無限の回廊……。
 これほど鮮やかに思い出せるのに。一つ一つが胸で暖かいのに…………
 君には騎士団に思い人がいるのではなかったのかね?
 イングリットの言葉に寝返りを打つ。思い出すといつも、甲冑の隙間から突き立てられる槍の冷たさを感じた。
 蝋燭の芯が焦げる音が麻痺した耳を打つ。暗闇の中で唯一の光は頼りなく、心細かった。
「…………」
 疲弊した瞼がじきに下がり、体の痛むシバリスは心に痛い夢を見た。
 やはり、十八の時だった。
予備役としてまだ毎日を訓練に明け暮れていた頃(そう言えば戦争のない今の日常は何よりもあの日々に近い)、彼はわざと頭の悪い賭けをした。
 既に同期の中でも勇名を馳せていたバートレットに、
「もしも君が勝ったら以後、僕を部下として好きなように扱っていい。その代わり僕が勝ったら……」
 世の幸福も、不幸せも何も分かっていない焦り狂った子供だった。とにかく彼は堂々とした彼女の立ち居振るまいに心から憧れ、どんな形でもいいから彼女と関わり合いを持ちたくてたまらなかったのだ。無論バートレットは今と同じで、挑戦から逃げるような女ではなかった。
 そして試合は設定され、幼くて浅はかな見習い達は皆、周りに二重三重の輪を作ってニヤニヤしながら、シバリスが惨めな顛末を迎えるのを待ち受けていた。邪気もなく。
 当然、バートレットが勝つはずだった。賭けを持ちかけたくせして、シバリス自身だってそう思っていた。
 隙あらば兵舎を抜け出しては、先輩騎士から大目玉を食らっていたような彼と、ちょくちょく特別措置で戦場へ同行を許されていた彼女とではどだい立ち位置が違う。
 だのに、何が転んでそうなったのか―――――バートレットの剣が練習場の固い床に跳ね返った時の音を、彼はまだ覚えている。
 まるで夢に描いたそのままの形で床に身を横たえた赤毛の少女。シバリスはその時図らずも、意外な自分の実力を知ったのだ。
 勿論、仲間達も彼自身も次の瞬間にはそれを偶然だと言った。だがバートレットだけはそれを信じず、敗北の屈辱と怒りの記憶を忘れていない。
 そして賭けの契約は―――、履行されたといえば履行されたし、されていないといえばされていない。
 やはり十代だったバートレットは約束を果たしにきた。
 だが彼女はひどく傷ついていて、同じくらい深く怒っており、結局、困り果てたシバリスは「僕はこんな形は望んでいない」と言わざるを得なかった。結局何も行わないまま、二人は気まずく別れたのだ。
 あまりに感情を直接的にぶつけたあまり、未だに修復を果たせないほど相手を害してしまった馬鹿な子供であった自分。後悔の中で二度と繰り返さないと思いながら、彼女との破綻の思い出は彼の中で、消えやらぬ飴玉のようにいつまでもいつまでも、不思議に甘い。





*






 朝、彼はまだ早い時刻に兵士を引き連れたシン・イングリットの訪問を受けた。就業の鐘はつい先ほど遠くから聞こえてきたばかりだ。几帳面な性格と見える。
「男前が台無しだな」
 イングリットは無精髭が伸びて、あちこち青くなっている彼の顔を見るや、まるで他人事のようにそう笑う。
「だが、懐かしい。私たちが最初に会った時も君は顔を腫らしていた。思い出さないかね?」
「――――」
 シバリスが答えないでいると、
「君に選択の余地を与えにきたよ」
と眼鏡を押し上げた。
「ここにいる君は知らないだろうが、世間は君とラエティアに同情し私に石を投げつけんばかりだ。彼等は私が君たちの純愛を引き裂いたと言っているんだよ。
 君等は恋愛に一途になったあまり、やむを得ず道を踏み外してしまっただけの純粋な恋人達なんだそうだ。本当にそんな過程を経ていたかどうかなど、分かりはしないというのにね」
 シバリスの眉が乱れを刻んでいるのを見て、小食なイングリットは満足したらしかった。
「ともあれ」
 息を吸い込みながら話の風向きを変える。
「私もあまりに世間に叩かれて反省した。
 それにラエティアが――、彼女があまりに君に寛大にとうるさいものでね。まあ私もあまり将来の妻をないがしろにはしたくない。この一件をいつまでも恨まれていても困る。
 だから、これから言うことは私の最大限の譲歩だと思って聞いてもらうと話が短く済むんだがね」
 シバリスは体重を左足に移動し、腕を組んだ。
「……で?」
「そうだな。もしも君が、今回の件を暴走した若気の過ちだったと認め、未熟な精神のために我を忘れてつい節度を失ってしまったことが原因であるとして反省するならば、私は君の罪の一切を忘れてもいい」
 今やはっきりと眉をしかめて、シバリスは先を促した。早く付随の条件を話せよ。
「―― 但し、その際にはノルド男爵令嬢ラエティアに対する感情は全て気の迷いであり、本来はあってはならないものであったことを認めたうえで、二度と貴族の女性には近づかないことを約束する誓約書に署名をしてもらうことになる」
「下衆だこと」
 上唇を歪めるようにして、シバリスが呟いた。
「ご無理ごもっともだがシバリス・クレイ。君の署名付き懺悔文章を見て、世の青い血を持つ親達がどれほど安堵すると思うかね。加えて、宮廷中の風紀の引き締めにもそれなりに益があるだろう」
「その代わり俺は今までの生き方を自分で全否定した憐れな負け犬になるわけだ」
「どんな状況におかれても生存は生存だ」
 その警句を否定せず、シバリスは首を傾げる。
「……で、もう一つの選択は?」
 イングリットは下を向いて笑った。顎が引かれたので、瞳が眼鏡の間から直接見える。意外なほど潤いに満ちた、子どものような丸い瞳孔。
「君は何も認めないでいいが、少々辛い目を見ることになるよ」
 ――― 数年前、相手の親兄弟から集団で暴行を受けた騎士がいたっけ、とシバリスは考える。結局その男は右目と左足の自由を、そして引いては騎士としての人生も失った。
 恫喝だ。
イングリットは、後に控える部下から一枚の書状を受け取ると、
「さあ?」
と笑いながら彼に示した。
「この屈辱を甘んじさえすれば、君はここから出られるのだよ」
「それで外では自由が骨抜きになった人生が俺を待っている、と」
「それに赤毛の恋人もだ」
 付け加えられる大きな存在。シバリスの丸い瞳が彼を見る。
「譲歩は一瞬で、痛みはごく僅かだ。言っておくが現実は厳しいぞ。ここらで折れ方を学んでおくのが大人の分別と言うものだ」
 事実だ。
シバリスは目を閉じ、昨日殴られて触るとまだ痛む顎の痣に触れた。そして今後来るであろう、若さと力だけでは解決できない問題たちのことを考える。
「さあ、どうするね? 婚礼の準備であまり時間が無くてね。悪いが今、答えて欲しいのだが?」
 イングリットは相変わらずのんびりとした口調だったが、確実に彼の出口を塞ぎにかかっていた。音も立てず、静かに、重い扉が閉じられていく。その予感の中でシバリスは問うた。
「……この場で?」
「そうだ」
「今すぐ?」
「しつこいぞ、少尉」
すー、と音を立ててシバリスは肺に空気を入れる。
「…………そうか」
 眼鏡の奥の目が丸くなったその瞬間、シバリスの拳が唸って、小柄なイングリットの体が薙ぎ払われた。




 木戸でも壊れるかのような音がした。線を引いて飛ぶ体が、後を固めていた国軍仕官の胸へ突き当たる。差し出された手と手に、彼はやっと倒れずに済んだ。
「…………ふ……」
 イングリットは脈打つ左の頬を冷たい手で押さえると、逆上した兵士達によってたかって捕まえられたシバリスを見つめた。
「そうか。シバリス・クレイ、君の採るのはあの馬鹿娘の方か……!」
 するとシバリスは初めて笑った。乱暴な手に押さえつけられながらも敢然と頭を上げ、もがきながら閉じることは出来ない口で言い放った。
「そうとも、あいつは馬鹿だ。……だが俺は確かにその馬鹿な女を魂のありったけで好きだった……!」
 ―― その陳腐な言葉のもつ不思議な熱さに、兵士達が吸い込まれる。そして一瞬の後、我に返った彼等はむきになって両手に力をこめた。
 しかし、
「聞こえたか! 俺はお前の婚約者を愛していたんだ!
 始まりも形もどうでもいい。確かにあれは現実だった……!」
 全力の人間の口を塞ぐことは不可能だ。
「命を奪われ未来を奪われようが、あの日々を嘘と認めることは死と同等だ! 俺は絶対にお前の方便には屈しないぞ!」
 シバリスはもう迷っていなかった。入り口がどんな形をしていようが関係ないのだ。あの瞬間、彼は確かにラエティアに触れていた。
 それまでの何百日は否定を許してもいい。だが、あの数日を譲ることは出来ない。
 もしこの事実を適当な出口でごまかしたら、いつか自分は人を好きになることがどんなことだったか、説明できなくなるだろう。
 だから彼は、やめたのだ。
たとえどんな道がその先に待っていようとも。
「貴様の言う分別などくそくらえ! 延々と感情と剥離した人生を送るくらいなら、俺は一瞬のために破滅する方を選ぶぜ!」
 魂の底から湧き上がる彼の微笑に、イングリットは顔を引きつらした。何か強烈な感情を抑制しているのだ。それを上書きするかの様に指を突きつけ、叫ぶ。
「後になって四の五の聞きたくないぞ。君は自分で険しい選択をしたのだからな!」
「誰が言うか! どうにでもしやがれ、下衆野郎!」
 イングリットの奥歯が軋んだ。彼はまるで残酷な君主のように無気味に笑いながら、シバリスの腹を蹴る部下達に号令する。
「ただの一人も護送馬車に近づけるな! 行き先はイングリット男爵邸だ!」





*






 そしてその昼、国軍査問局は不義密通の罪を犯したとされる騎士シバリス・クレイの処分についての発表を、布告として貼りだした。
「――― 当該事件は多分に私的関係に基づく要素がみられる為、査問局として公的な判断は下しかねる。
 従って被害を受けた当事者イングリット、ノルド両男爵家にクレイ少尉の身柄を受け渡し、その処分如何を任せるものとする」
 人々はまず布告を読むその目を疑い、次にそのあまりに私刑的な決定に唖然とした。
 そして屋敷でその噂を耳にしたラエティアは、シバリスがひどく愚かしい決断をしたことを知って呆然とした。震えた手から婚姻の際、身に付けるために選んでいた首飾りが零れ、床へ輝きを撒き散らす。






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