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蒼 天 無 音
- 5 -




 月下祭を過ぎた後の春の夜は、ただもう静かで眠たいものだ。この平穏な数週間は人々を油断させ、この後に控える乱暴な季節の到来を毎年失念させる。だが、この夜の沈黙が来るべき嵐の揺籃であることを知っている者達は、不安げにせかせかと急かされていた。
 夜分、シン・イングリットの帰京以来一時も安らがぬ胸を抱えて、大尉ヴィクシスはノルド男爵家を尋ねる。
 その目的は、彼の部下の処分についてイングリットに直接(そして多分に個人的に)問い質すことにあったが、運の悪いことにイングリットは既に引き払った後だった。
「イングリット男爵家へ直接お問い合わせ下さいませ」
「そうか……、分かった。……変わりないか?」
 偶然対応に出たのは、ヴィクシスの死んだ戦友の娘、ノエルだった。黙ったまま頷く彼女が、シバリスの一件に密告の形で関わりを持っていることなど知らない彼は、いつものように優しく彼女の肩を叩く。
「体を大事にして、仲間達と仲良くな。
 ちょっと面倒な事件が起こっているから、戸締りに気をつけてくれ」
 騎乗して、再び夜の闇の中へ消えていく親切な彼の後姿を、侍女は遠くから見送る。扉を閉めると、近くの居間でノルド男爵夫人が、
「ヴァン・クルス家の不良息子が今頃! 汚らわしいわ!」
と叫んでいる裏返った声が聞こえた。




*





「―― これは、一体何の冗談です?」
 シバリスが漏らしたのも無理はなかった。
イングリット家に運び込まれた途端、彼は湯を浴びるように言われ、部屋と衣服を貸し与えられ、今は豪華な料理の並ぶ食卓に着かされていた。
 急にこんなに手をかけられても、訳もわからず不気味なだけだ。
「毒でも入ってるんじゃないでしょうね」
「君は、御前試合をする兵士が惨めな格好をしているのを見たことがあるかね?」
 正面でくつくつと笑うイングリットの問いに、シバリスは首を振る。
「いえ」
「では、不健康な男二人による決闘は?」
一瞬、間があった。
「…………どうやら、俺の処罰の内容が決まったようですね」
 やや掠れた声を出していたイングリットは葡萄酒で喉を潤し、それから咳払いをして続けた。
「引き分けなしの勝ち抜き剣闘試合――」
 彼との間に幾本も蝋燭が立っているのにも関わらず、シバリスは男爵の眼鏡を凝視した。
「勝利条件は相手の絶命に限る。武器は剣。防具の類は一切許可しない。制限時間は設けず、全試合を公開する」
 つまり――、公開処刑というわけか。
シバリスの下瞼が持ち上がり、顔がしかめられる。
「布告は明朝日の出とともに行う。会場は国軍訓練施設の円形闘技場だが、……大変な賑わいになるだろうな」
「……相手は?」
 あまりの悪趣味さを指摘する気にもならなかった。この賭けに乗ったのは自分であるし、恐らく今更、この男の気分は変えられまい。
「その情報は教えられない。だが安心し給え、勝ち抜きとは言っても総勢は君を入れてたったの四人だ。君は二人殺せば自由になれる。公国騎士になら訳はないだろう?」
 目の前で白い湯気を上げる肉料理の断面が赤く、底には滴る肉汁が油と一緒に湖を作っていた。
「…………」
「嫌になったかね? 君に拒否する権利はないことは忘れていまいね」
「分かっていますよ。自分で選んだ道ですから。……しかし一体、あなたは人の人生をなんだと思っているのかと……」
「若造、小賢しいことを言うな! 命を賭けぬ賭けなどせぬも同じなのだぞ!!」
 そうだみ声で怒鳴ったのはシンではない。シバリスの左隣に座っている彼の父親、アルバ・イングリット老男爵だった(無論、家督は相続しているので彼は男爵ではないが、引退した男爵は普通そう呼ばれるものだ) 。
「時にカードの前へ出ても金すら賭けぬ臆病者がいるが、あんなものは漢ではない! 賭けは失うか失わぬか、ぎりぎりの線を楽しむものなのだ! それが漢の甲斐性なのだ!」
「老男爵」
 息子がたしなめにかかるのを一蹴する。
「黙れ、シン! お前の小うるさい意見など必要としておらん! それより父に酒を運ばせんか!」
 皮下にかなりの脂肪を蓄え、酒にも料理にも娯楽にも欲望の尽きない老醜を目の当たりにすると、シバリスはこれが「カソトリアの英雄」かと信じられない思いである。
 これがかつて、逆転し得ないと言われた形勢を一気にひっくり返し、領土の消失を防いだ国軍の猛者だろうか。
 確かにイングリット家は歴史のある貴族ではない。寧ろ荒々しい功績で成り上がってきた軍服の血筋だ。だが、それにしてもこの内部の荒廃は……。
 シバリスはこうなると、今も目の前に老男爵など居ないふりをして静かに食事を進めている知識人のヘキガティウス氏が、何故こんな血なまぐさい家族と親しくしているのか、そちらの方が不思議だった。
「この男など、毎日わしと賭場へ出ても見ているだけで何一つ賭けはせん!」
 老男爵はシバリスの心情にも構わず、そのたるんだ腕を無抵抗な学者の方へ向ける。
「かといって戦場へ出るでもなし、毎晩書物とにらめっこ。結婚して子を作るでもない。
 ……え? カイン。一体お前は何のために生まれてきたのだ?! それでも男か? それでも人間か? 一人前の面はしているが、さては貴様、不良品だな? 精神も肉体も……、そうなのだろうが?」
下品な笑い。
「澄ましていないで白状してしまえ、喜ばせられんのだろう? それでシンなどにいつもくっついているのだろうが! 病人が!」
 ―― それは、教養のない人間にだけ言える侮蔑の言葉だった。公国の生んだ最高の英知と言われる万能学者に唾する野蛮に、思わずシバリスが眉を歪めたその時だった。
 使用人がつま先で歩くようにやや急いで部屋へ入ってくると、シンの隣へ片膝を付き、玄関先に約束のない客が来ている事を告げた。
「誰だ?」
「アール・ヴィクシス様とお名乗りでございますが」
 苦労人の上司の顔を思い出して、シバリスが申し訳なさと懐かしさにはっとなった次の瞬間、
「―― アール・ヴィクシスだと?!」
老男爵の野太い両手が食卓を殴りつけ、飛び上がるシバリスの目の前で葡萄酒の瓶が宙へ浮いた。
 その間に、肥満した体が思いがけないほどの早さで出口へ突進する。シバリスの目の前で瓶が落ち、白いクロスへ血のような中身をぶちまけながら回転した。
「その男を止めろ!!」
 仰天した召使達が稲妻のような命令に鞭打たれて動く。老人の大きな暴れる体を三人がかりで、扉を出たところで何とか押さえ込んだ。
 老男爵は完全に行く手を阻まれながら、両手を無駄に振り回し、いつまでも怒鳴り続けた。
「人でなしが! 人でなしが! 今更、のこのこ何の用でここへ来たか!! 脳みそを叩き潰してくれるぁ!!」
 自分の発した一言が招いた事態の凄まじさに唖然としていた召使に、立ち上がったシンは指示を出した。
「ヴィクシス大尉には帰って頂け。ここは彼の入って来られる場所ではない」
「殺せ! シン、あいつを殺せ!! お前の妹を殺した男だぞ! 八つ裂きにしても足りん!!
殺せええ――――ッ!!」
 老男爵の割れた声が、後へ撫で付けた息子の髪の毛を微かに震わせ続ける。
 その時、どこかから戻ってきたヘキガティウスが暴れる男の側へ跪くと、大きな白いハンカチを端から泡を吹いている老男爵の口へ押し当てた。
 怒鳴り声がくぐもる。そしてそれでも数分は要しただろうか、老男爵はふいにぐったりし、男たちの腕の中で頭だけが廊下へ崩れ落ちた。
 そのままヘキガティウスはものも言わず、使用人たちと一緒に老男爵を部屋へ運んでいく。滅茶苦茶になった食卓には、もう席に落ち着いているシンと、瓶を片手に痛ましい顔をしているシバリスとが残った。
「……シバリス君。まだ食べるかね?」
 男爵の妙に物悲しい問いに首を振る。
「そうか。では、引き上げたまえ」
「…………あなたの妹は……」
「下世話が聞きたいならまたにしたまえ」
 何か言おうとしたシバリスの先をぴしりと遮って、イングリットは口を開いた。
「私にも君にもそんな暇などあるまい」
 シバリスはしばらく無言のままイングリットを見ていた。確かにどこかでこんな台詞を聞いたことがあったと思っていたのだ。そして答えに辿りついた時、そうかと――。
 この男が誰かに似ているといつも思っていたのだ。脳髄が痺れるような気がした。
 どういう皮肉か与り知らないが、シン・イングリットは彼女にひどく根本的な部分でとてもよく、似ているのだ。




*





 真夜中、草臥れ果てて帰舎したアール・ヴィクシスは、自室の前の小さな広間に赤毛の部下が一人で腰掛けているのに気がついた。
「………………」
 暗闇を背負ったまま無言で彼女へ目を当てると、バートレットは「ああ」と無感動な声を出した。
「ノルド男爵邸へ向かったと聞きましたので、夜明けまでに帰っていらっしゃらなかったら略奪をかける気でいました」
 さらりと語られる物騒な言葉に、ヴィクシスは疲れた笑みを浮かべる。ご無事なら何の問題もありません、とすぐに立ち上がったバートレットの腕をつかんだ。
「いい。そこに座っていろ」
「……大尉。私は控えている騎士達に解散命令を出さねばなりません」
「では……」
 ため息のように呼吸を吐き出して、アールは言った。
「戻ってきてくれ」
 静寂の夜の中、バートレットの靴の下で砂がじり、と鳴った。ヴィクシスの指に力がこもる。
「頼む」




*





 長い廊下。
ぼんやりした橙色のなかに浮かび上がる、長い廊下。
 進んでいる。風景が動くから。足音が響かないのは敷き詰められた絨毯のせいだ……。
 どこかから子供の泣き声が聞こえる。
だのに、閉じられた扉は無数にある。
一体どこで泣いているのだろう?
 一番目の扉を開けると、大きな寝台に埋もれるように、真っ青なドレスを着た女の人が寝ていた。彼女はどこか患っているらしく、目はぼんやりと窓の外を窺うばかりでこちらを振り向きもしなかった。
 当然、子供の泣き声など聞こえないのだろう。静かに扉を閉める。
 次の部屋は、明るい少女の部屋だった。趣味のよい、手の込んだ家具が並んだ部屋の中で、彼女は柔らかい服を着ていた。テーブルに肘をついて、少し乱れたなりで、こちらを見てはくすくすと笑う。
 私あの男の人と結婚したいわ。
思わず問い返した。
 あの人って、誰?
兄様のお友達のあの方よ。
 彼は戸惑っているようだ……。
そんなはずはないわ。すぐに私に夢中になるはずよ。父様もそう、男の人はみんな私を好きになるの……。隠さないで、兄様もそうでしょう?
 お前は泣いている子供を見かけなかったか?
扉を閉じた。
 それにしても、なぜこの家にはこう人気がないのだろう。使用人たちとすれ違うことがあっても、みな目を伏せて体を小さくして歩く――。
 泣き声は続いていた。
次の扉を開けたときには中が悲嘆の図だったのでそうかと思ったが、いたのはみな大人だった。
 大柄な男性の背中が吼えていた。誰かが悪いのだと言っていたが聞き取れなかった。背中の右から女性の足が二本、左から髪の毛と零れた右手が見えた。
 その青白い指が小さな薬瓶を持っている。怪しげなラベルがくっついていて、そこには「願いをかなえてくれるあくまをよび出すくすり」という文字が見えた。
 女は死んでいた。男は泣いていた。
それなのに、変に心が冴え冴えとして悲しさを覚えなかった。ただ黙って扉を閉めようとすると、男の声が振り向きもしないで言った。
「出来損ない」
 廊下は続く。
無数のドアを開け尽くしてもまだ泣き声は響いてきた。ある時は見覚えのある学者の顔に、ある時はひどく若い知り合いの顔にぶつかったりもしたが、子供はいない。
 見つからない子供。
廊下は続く。
 見つからない子供。
廊下は続く。
―― 永遠の黄昏の中を。
 ふと考えた。
何故前ばかり探す? 後かもしれない。
 振り向くと肩のところに泣いて青白い子供の顔があった。




 瞼が開いた時、シバリスはやっと自分が夢を見ていたことに気がついた。
 これだから人を殴るのは嫌なんだ。
ぼそりと呟いて額の汗を拭う。






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