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蒼 天 無 音
- 6 -




 夜明けと共に貼りだされた布告を手に、大尉の部屋を訪れたグレンは、開こうとした扉が一瞬早く動き出したので驚いて身を引いた。
 零れ出したのはまとめられぬままの朱だった。グレンはそれを目の当たりにすると、いつも上手にものが言えなくなってしまう。
 自分の無骨さが彼女を不愉快にさせるかもしれない。或いはまた拳を突きつけられるかもしれない。そして白紙になった頭が回転を取り戻さないうちに、彼女は足早に階段の方へ消えてしまった。
「…………」
 グレンは体の芯まで痺れるのを感じながら、いつまでも彼女の消えていった闇を目で追っていた。




*





 練習場の扉を開き、全ての窓を開け放つのはいつもバートレットだ。彼女は太陽が顔を見せなくても、世界が十分に明るくなると起床して、まずここへ来る。
 空気を入れ替える準備が整うと、彼女は次に洗面所へ向かって顔を洗った。煩くなり始めた髪の毛を縛りなおし、シャツの埃を払うと練習場へ戻る。
 すると―― 気配はなかったのに、先客がいた。
 入り口の近くで立ち止まったバートレットの眉が、ぴくりと痙攣する。
「おはよう」
 客は見覚えのある黒塗りの杖を持っていた。それに対する本能的な警戒から、バートレットは返事をせぬまま壁際へ動き、並んで架けられた剣に手を伸ばす。
「報告どおりか。君は本当に毎朝ここで、誰よりも早く体を動かしているのだね。生き残る騎士は流石に違うものだ」
 そんな動作に構う様子もなく、シン・イングリットはかなりの距離を保ったままの彼女に、愛想をふりまき続ける。
「君は世間の噂によると、自分より強い人間の言うことしか聞かないというが本当かね?」
 水を吸った指はまだ十分に動かない。バートレットは何にしても、些かの時間を必要としていた。
「……さあね」
 背中を斜めに向けたまま、無愛想に言葉を投げる。位級を考えれば許されない物言いであったが、片や身分違いの恋を咎めだてているはずのイングリットは、なぜか頓着しなかった。
「……否定しない。では君がアールと寝たのは彼に負けたからなのかね?」
 振り返る左目が、練習場の壁沿いに置いてあるベンチを刺す。そこに腰掛けている男はおや、と首を動かした。
「本当なのか。ちょっと香りがしたからカマをかけてみたんだが」
「そんな下らない話をしに来たのか、貴様は――」
「『時間の無駄だぞ』」
二人の声が重なる。
 イングリットはにこりとした。
「勿論違うとも、遺憾ながら同胞たるキーツ少尉。私は今度私が主催する剣闘試合に出場して欲しくて、それを頼みに来たのだ」
「―― 剣闘試合だと……?」
 既に彼女の眉は歪みっぱなしだ。完全に振り向いてこの嫌味な男を睨みつける。
「何の話だ?」
「詳しいことは後々布告を読んでもらえれば分かるがね、貴族の屋敷で捕まったとある男前の騎士に関係あることだ」
 ―― あのバカ。
 口には出さなかったが、その表情を見ていれば彼女が胸の中でそう吐き棄てたのが分かった。
「それにしても計算違いだったかな。もしも君がアールよりも弱いのなら、勝敗は目に見えている。別の人間をあたった方がいいかもしれん」
「挑発しても無駄だ、イングリット。断る」
 イングリットは大袈裟に眉を八の字にした。それが小さな眼鏡からはみ出して、道化じみた顔に映る。
「いいのかね? 君の汚辱を漱ぐ絶好の好機だよ」
「そんなものを貴様に用意してもらう筋合いはないし、奴のせいで起こった馬鹿らしい騒ぎに加担するのも願い下げだ」
「そうかね。では、つまらん手続きが必要になるわけだ」
 イングリットは、バートレットが死ぬほど嫌いなその事務軍人らしい手を持ち上げ、ついと自分の襟元を指した。そこには間違いなく国軍少佐の位階を示す襟章が光っている。
「見えるかね、少尉。……下らん飾りだよ。しかし、軍人はみなこの飾りと軍規に従う生き物だ。騎士とてそれは例外でない。
 ……無論少佐級に、騎士をも指示できる越種指揮権はないことは私も知っているよ。だが君は私の父親のことを知っているかね」
 父親。それはこの二人の人間に共通する習性を植え付けた原因の名でもあった。
「……残された人生を食いつぶすことしか出来ない愚昧な男だが、カソトリアの軍功によって彼は今も元帥だ。
 私はすぐさまその署名入りの命令書を、君に手渡すことも出来る。止めることは公爵殿下にしか出来ない……。
 命令だ、バートレット・キーツ少尉。二日後に開かれるイングリット家主催の剣闘試合への出場を命じる。そして出るからには相手が誰であろうとも全力をもってそれを打ち倒し、見事優勝を遂げることを期待する」
 バートレットは、戦場で受けたことのある理不尽を再び繰り返されていた。これだから事務屋は好きになれないのだ。生まれつき発生した権利と身分だけを理由に、自分達の運命を勝手気ままに操作する……。
 そしてここは戦場ではなく、周りに人は誰もおらず、バートレットは剣を持っていた。
 彼女は数歩歩み寄ると、貴族の男ならまともに振り回せもしないであろうその剣をびしり、と空中で水平にする。その示す先で瞬きをしたイングリットに、
「ふざけるな」
 怒りを含んで叩きつける。
「そんな命令になど従う気はない。貴様も私のことを少し調べてきたのなら、私に気に染まないことをやらせるのにどれほど骨が折れるか知っているはずだ。
 無益な命令を発する人間など上官ではない。もとより実力のない人間の命令など聞かない。いかなる襟章がそのしなびた首に光っていようが、知ったことか!」
「しなびた首はひどいじゃないか」
 男は笑った。そしてベンチから細い針金が立ち上がる。
「やっぱり噂は本当なのかな、……君は自分より強い者の言うことしか、最終的には聞かないのだね。退屈のあまり気まぐれを起こすこともあるようだが」
 バートレットは返事をしなかった。小柄な男の歯を食いしばるような微笑が、その瞳に映る。
「どうやら君も父親には殴られ通しで来たらしいな。
――致し方ない、面倒だが」
 イングリットは右足をちょっと引いた。その瞬間、彼の両足、両手、胴の位置までがぴたりと形にはまる。反応したバートレットの全身からも、隙が霧散した。
「おいで」
 鼓動が重なる次の刹那、バートレットの足が地を蹴った。止まったまま受ける気でいる国軍の黒い、機能に劣る制服を肩口から真っ二つに――手ごたえを予感しながら剣を振り下ろす。
 杖が受けると思っていた。ところがイングリットは脇の力を抜いてそれを落すと、体重を素早く右へ逃がして一撃をひょいと避けたのだ。
 杖の跳ね返る音と剣が唸るのと同時だった。
――――小賢しい!
 バートレットはそのまま剣の勢いに逆らわず屈みこむと、低いところから刃を横に払った。が、既に半ばで起き上がるためだけの行為に変わる。
 思ったよりも、イングリットが速いのだ。見た目以上に体重がないのか、それとも鍛えて―――文官が?
 だが、男が怯えて無闇に逃げ回っているのではないことは確かだ。腰をやや低めにしたまま右、或いは左と、冷静に彼女の先攻をやり過ごしていく。
 追うバートレットは的の軽さに舌打ちした。
「ちょこまかと……!」
 相手の動きを制御しようと、彼女は十分に間合いを詰め、自分の呼吸すら無視した乱脈で突然、眼鏡を突いた。それを避けるために彼が一緒に体勢を崩すことを狙っていたのだ。
 ところがその瞬間、彼の姿が視界から消えた。
「?!」
 イングリットの手が下から伸びてきて、はっと呼吸を乱したバートレットの手首をつかむ。そしてそれを進行方向へぐっと引いた。
「くッ!」
 両足がイングリットの膝にせき止められている。自分自身の動きに流されるような形になって、バートレットは前へつんのめった。見限った剣を離すと、イングリットの手が外れたと思うや先に頭を下に入れて前転するのが精一杯だった。
 その間に体が理解した。先端を避けるためにイングリットは確かに体勢を大きく崩した。だが、今まで後や脇に逃げることしかしなかった彼が、初めて左足から前に出て死角へ入ったのだ。
 一転の後、体が制御を取り戻した瞬間、バートレットは両膝を踏みしめると体を背中から反射さす。自分に最後の腕を伸ばそうとしていたイングリットの攻撃をほとんど体当たりにこめて防御した。
 だがその時、既に流れは相手のものだった。
体重を受け止めるはずの右足を的確に払われ、バートレットの体が宙に浮く。
 しまった―― !
そう思った瞬間にはもう御しきれず、彼女は背中から床に叩きつけられた。
 肋骨に跳ね返る衝撃。そして首がごろごろと転がっていく。朱い髪の毛に、朱い血を撒き散らしながら。
 食いしばる顎に突きつけられたものが杖ではなく剣ならば、その想像は間違いなく現実のものだ。バートレットは敗北し、その事実を信じることが出来ないで目を剥いた。
「……逃げ回っているうちに、本気の出し方を忘れたと見えるな」
 彼女を見下ろすイングリットは剣すら扱っていないのだ。こんな体の小さな男に素手のまま負けるなんて―――― ! 油断した……!!
「闘いながら相手の実力を測ろうなんて気でいたら命が幾つあっても足りんぞ、少尉」
 堰を切ったように溢れ出てくる感情を、びりびりと杖の先に感じながらイングリットは快楽に微笑んだ。若い魂を操る楽しみは、昆虫の足をもいでみる嗜虐に似ている。
「とまれ、これで文句はあるまいな? 君は剣闘試合に出場することになる。分かったね?」
 青くなった顔が杖を微かに押し返したので、イングリットは容赦なく先端を押し込んだ。女は苦しそうにうめく。
「君を殺すと代わりを見つけるのが手間だ。もうつまらん抵抗は止めたまえ。自分が負けたことを君は知っているはずだ、シバリスの時と同じように」
 反論がぱたりと止んだ。動脈の震えが伝わる杖を緩めぬまま、勝利者は一気に言う。
「それでいい。
 ――開催は明後日。今日中に詳しい布告が貼りだされるから、見ておきたまえ。それに、試合に出ることは当日まで誰にも話してはいけない。
 当日はこんなザマで私を失望させないでくれよ。私は今や君の『上官』だ。分かったかね」
 男は残酷な杖を抜いた。
その瞬間、地面から撥ね上がって激しく咳き込んだバートレットに、皮肉な一瞥を投げる。
 それでも危険な獣である彼女にあっさりと後を向ける彼は、身に刻まれた彼女の不文律を信用していると見えた。
「いつか、必ず…………!!」
 出口のところで、イングリットは振り向く。怒りに掠れた若いバートレットの声に。
「貴様をブチ殺してやる……!」
「そうだ」
 太陽が昇ってきたらしい。外が明るくなって、イングリットの顔がよく見えなかった。ただ彼は最後に言った。
 太平の退屈は君達に似合わない。




*





 夜が明けて、自分の騎士が何をさせられるか知った騎士団長らは飛び上がった。彼等はどうにか男爵の布告を取り消させようと関係者の間を奔走したが、既に『処分決定は両男爵家に一任』との公式発表が出ている状態では、なんとも手の打ち様がなかった。
 イングリットは気分が優れない、などと理由をつけて使者に会おうとすらしないし、公爵に掛け合おうにも如何せん開催までの時間が短すぎたのだ。
 だが、浮薄な人々の反応は驚く程素早く、宮廷では彼らの苦労をよそに、話が勝手な盛り上がりを見せる。
「既に宮廷中で秘密の集会が開かれ、誰が勝ち、生き残るか貴族たちが賭博を始めているそうだ」
 実りのないことを報告しあう辛い幹部会で、大尉級の一人がそう言った。
「だが、賭けると言っても、シバリス以外の三人の名前はまだ明らかになっていないだろう」
「ある筋から聞いたとか、こんな噂があるとか、そういった情報から勝手に推測される人間達を賭けの対象としているのだ。仮名をつけてな」
「あの暇人どもが……!」
 一人が吐き棄てるのを、別の一人が諌めた。
「いや、暇なのは貴族たちばかりではない。騎士達も、このふって湧いた騒ぎにあまりに容易く動揺しすぎている」
 その言葉どおり、騎士団は朝から雑然となって通常任務に支障を来たしていた。
「皮肉なことだがそれは戦争もなく敵がいないからだ。腕の余った騎士達はそれに向かって反抗し、団結できる対象を見つけてどうしても生き生きとなってしまう。
 今、公国は国を挙げて退屈を始めているのだ。筋肉質の騎士達は生身の人間には強いのに、目に見えないものとは闘えない。イングリットはそれをよく、実際驚くほどよく知っているのだ……」
 結局、幹部連は騎士達が騒擾に加担したり、馬鹿げた真似をしたりしないように取り締まることくらいしか決めることが出来なかった。
 解散後、悲壮な表情のヴィクシスは一人残った会議室の中で、額を押さえる。
 彼は背後に好きになれなかった女が追いすがるその足音を聞いていた。そして逃げ切らねば、歩調を上げねばと思って、別人の肌触りを身に纏おうと必死に昨夜の思い出を手繰る。




*





 国軍訓練施設がこんなに賑わったことはカソトリアの勝利以来ないのではないか。幾つもの戦勝を目の当たりにしてきた老将軍ですらそう漏らした程、イングリット家主催の『剣闘試合』は心無く膨れ上がって乱れていた。
 貴族達はみなその日の予定を変更して、広大な王宮庭の東の端にある円形闘技場へ殺到し、子供も大人もうずうずとこの公式な建前を持った公開処刑を待ち望んだ。今も彼等はまだ昼前だというのに興奮して観客席を埋め尽くし、早く始めろと腕を振り回して叫んでいる。
 そんな困った両親のもとから思いがけず擦り抜けて来てしまったのだろうか。本当は立ち入りが許されないはずの一階廊下の隅で、迷った子供が泣いていた。
 男はその幼子の側に屈み込むと名前を聞いて、それから両腕で抱え上げた。
「おじちゃんはキシ? ねえキシってよわい人をたすけてこわい人とたたかってくれるすごいひとなんでしょう? ぼく、キシに会いたかったんだ」
 地階に上がろうとした時に、階段の上から頼まれて少年を探して降りてきた騎士グレンが二人の姿を見て、立ち止まった。
「やあ、グレン……。
 ……エウジニオ、良かったな。あの男の人が本物の騎士だよ。君を助けて手強い者と闘ってくれる」
「そうなの? やった! おじちゃんありがとう!」
 子供をグレンに渡してしまうと、イングリットはすぐまた一階へ降りて行った。きっと、試合が始まるまで男爵家用の控え室にいるつもりなのだろう。
 彼を見送ってから、グレンは少年を探している使用人のいるところへ引き返そうと体を反転さした。その瞬間、階段の頂上に同僚の騎士達の姿を見て、彼は絶句する。



 厳しい監視の元ではあったが、闘技場で騎士達はやっとシバリスとじかに会うことが出来た。闘士用に割り当てられた石造りの控え室は空気が冷えていたが、彼は思いのほか元気な様子だ。
「心配をかけたな」
 彼の言葉に、
「心配どころの話じゃねえよー!」
と、騎士達は彼を取り囲んで次々にぽかぽか殴る。
「いていて。俺はこれから試合なんだが」
「そうだ。負けたりしたら承知しねえぞ!」
「任務で宿舎に残っている連中も、上官たちもみんな応援しているって伝えて欲しいって。シバリス、お願いだからこんなところで死んだりしないでよ」
 戦場でもないところで。女騎士の言葉は重い響きを持っていた。自分がいかに無駄で不真面目な娯楽の只中へ立たされているか、改めて噛み締める。
「うん。分かってるよ」
 と、廊下がやや騒がしくなったことに監視兵が表情を曇らせる。扉が開いたかと思うと、別の数人の騎士達が真ん中にグレンを固めて入ってきた。
「どうしたんだ!」
 驚いてシバリスが立ち上がると、先頭の一人がグレンの青白い顔を指差して言う。
「シバリス! こいつ、敵と密通してやがった!」
「何……?」
周囲の騎士達も顔を見合わせる。
「シン・イングリットと一緒にいるところを偶然見たんだ。奴はグレンの名前も顔も知ってやがった! 絶対、あれは一度や二度見かけただけの関係じゃない!」
 グレンはうな垂れて、ただ青い顔をしている。彼が反駁しないことが、辺りに不吉な沈黙を生んだ。
「おい……! まさか本当なのか!」
 とうとう中にいた騎士が目を剥いた。
「お前、この間はシバリスに助けられたくせに、逆恨みを……」
「違う! そんなのじゃない!」
 突然、グレンは激しく否定した。仲間の腕を振り解くと、まだどっちつかずな表情を浮かべているシバリスの胸へすがりついた。
「信じてくれ。俺はお前を裏切ったり、彼に協力したりはしていない!
 ただ……。俺は以前からイングリット男爵とは知り合いだったんだ。祖母が男爵家に奉公していて……、彼が生まれた時から、本人が死ぬまで世話をしたので男爵は俺に親切にしてくれたし、騎士になった際には武具なども贈ってくれた。
 彼は……、みんなが言うほどひどい人間じゃない……。少なくとも……昔はそうだった……」
 グレンの眼差しは真剣だった。買われて嘘を吐ける様な人間だったら彼はあの時、バートレットを刺激せずに済んだろう。
「……二ヶ月ほど前、彼の領地にある用事で出かけた時、一晩男爵家に世話になった。それだけだ!
 お前達があまり彼を憎むから、疑われると思って言うに言えなかった……」
「それでか……」
 シバリスは月下祭の晩のことを思い出していた。見かけない貴族のイングリットを、彼に詳しく教えてくれたのは隣に居たグレンだったではないか。
 ――そしてイングリットはあの時、なんと言った?
「……グレン…………」
 無理に思い出さなくても構わないよ。
「……お前、俺のことを何か彼に喋ったか」
「……彼は……、もともとお前のことは知っていたし……お前の話はよく聞きたがった……」
「ラエティアと付き合っていたことは?」
「喋った……。今、どんな任務をしているとか、騎士団内での評判とか、バートレットとのこととか……。お前に関する噂はほとんど全部……」
「お前!」
 別の騎士が怒り出しそうになるのを、グレンは必死に遮る。
「だって彼は、シバリスの話を聞いているときには本当に、……本当に楽しそうだったんだ! 彼は青二才や頑是無い子供の話が好きで……家に邪魔している時には、相手が喜ぶ話をするものだろう? 俺だってまさか、彼がこんな……」
 ―――……どうせそのうち、また会うだろう。
「……まさか……」
 騎士達が一つの認識にたどり着いて唖然となった時、闘技場の東側の壁に仕組まれている巨大な時計が正午の鐘を打ち鳴らした。
「シバリス・クレイ少尉。最初の試合が始まります。闘技場へ」
 壁際で直立不動だった監視兵が動き出し、彼に準備を促した。とは言っても、彼は手袋をはめ、剣を持つことしか許されない。
 騎士達が現実の危険に今更言葉を無くすのを背中に、シバリスは監視兵に従って部屋を出た。
 遠く聞こえる心無い歓声の中で加速する、否応のない緊張と恐怖感。暗くじめじめして冷たい廊下が無限に続いていけばいいのに、と愚痴めいた思いが沸騰する。
 暗闇の中で、シバリスは青白く床に近いところにいて、駄々をこねる小さな自分を見た。そして臆病と宿命とに分裂する自分をひどく懐かしい手応えで感じる。
 ……情けなくとも、騎士らしくないと言われようとも、決めたことであっても、殺し合いをする前はいつだって怖い。特に戦場での前夜はこんな迷いで一杯になるものだ。
 公国騎士には、その不安を紛らわすために酒を飲んだり喧嘩をしたり他者を求めることを許されていない。だからシバリスはあの巷ではいつも、遠くに阿鼻叫喚の赤い明日を聞きながら顔をしかめて体を丸めて眠りについた。
 その苦しさ、自らの欲望と闘う苦しさが今自分の前に再び立ちはだかる。闇を突き抜けて、シバリスは生きるために迷いを棄てなければならなかった。
 なぜならば迷えば死ぬのは自分だからだ。
這いつくばって床に頭をこすりつければ或いは命くらいは助かるかもしれない。だが、自分の人生は永遠に手離すことになる。
 シバリスは震える唇を噛み締めた。
勝負はもう始まっている。
 この道で負ければ、勝負は戦いが始まる前から決まってしまう。死という大きな影に怯んではならない。
 廊下は遂に尽き、シバリスは白い光が格子をくりぬく扉の前に立たされた。観客達の喧しさに大声で、兵士が怒鳴る。
「扉をご自分で開き、出てください!」
「俺が開けるわけ?!」
「そういうご命令です!」
 ……どこまでも、決断を迫る男だ。
シバリスは木の扉に掌を置いて、目をつぶった。だが何か考えたわけではない。力をこめて、木戸を打つ。
 扉は開き、シバリスは白い砂の敷き詰められた闘技場に歩みだした。照りかえる砂のあまりの眩しさに、思わず顔をしかめる。
 さんざめく歓声の台風の目に、彼は一人で立っていた。相手らしき人影はまだ出てこない。ようやく慣れてきた目でぐるりを見渡すと、一階の上段部分(つまり特等席)にイングリットの眼鏡がきらりと光り、その隣に婚約者ラエティアとその家族の姿があった。
 遠目にも彼女が身を固くして自分を遠く見下ろしているのが分かった。どんな思いでいるか、妥当な判断を下すには距離があったので、かえってシバリスはそこに見たいと思う彼女を見た。
 そしてにっこり笑って彼女に手を振る。ラエティアはそれに対し何か、信じられないような表情を浮かべたようだった……。
 終息に向かいそうになった歓声がまた煮えくり返るので、シバリスは振り向いた。自分が出てきた扉のちょうど対称の位置にある同じ穴倉から、彼の対戦相手が出て来たのだ。
 若い男だった。きっと自分と同じくらいだろう。服装は自流で、公務に携わっているような外見ではなかった。
 シバリスは焦って瞬きしている男に言葉を投げる。
「目が慣れたら始めよう」
 やがて礼儀に倣って組み合わされる銀色の切っ先。
 一、ニ、と左右交互に刃をぶつけた次の瞬間、三! と二人は同時に思い切り剣を振った。激しい衝突の反作用で飛びのいたその場所から、試合は始まるのである。
 人々が飛び上がり、一瞬静まり返っていた闘技場はまた大騒ぎになった。
 いい気なもんだぜ。シバリスは歯を噛み締めて打ち合いながら、やはり普段よりも踏み込めない自分を感じていた。防具のない体。無防備とはことのことだ。
 切っ先が飛んでくるたび怖い。怖いから体が勝手に防御に入りたがる。相手にもシバリスの精神が出遅れていることが伝わっていた。一歩、また一歩と一気呵成に攻めて来る。
 ―― 俺は死ぬのかもしれない。
シバリスは初めてそんなことを思った。どれほど体を鍛えても、鉄の刃の前に勝てるわけなどないではないか。
 お前は俺を殺したかったのか。
目の前の男ではなく、イングリットの顔を思い浮かべながらシバリスは思った。グレンから俺の話を聞いた、その時からずっと俺をここに立たすことを決めていたのか。
 なぜだ?
―― なぜだ?
その時には俺は、まだお前に何もしていなかったのに――。
 びしっ、と音が鳴った瞬間、右耳に激しい痛みが走った。ああっ! とため息のような声が降ってくる。避け損ねた相手の一撃が耳と頬を少し、横に切ったのだ。
「いて……」
 敵の方の向こうに扉の格子に顔を押し付ける仲間達の姿が見えた。彼が押されるたびに、まるで自分達が傷つけられたかのようにいちいちびくついている。
「…………こんなところで死なないで……」
女騎士の願いが口を出た。
 ……わかったよ。
呟いて、シバリスは額の汗を拭った。
もうどうでもいい。確かなことは一つだ。
 俺は生き残らねばならない。この挑戦を受けたのだからそれに勝利しなければならない。迷いは消えない。この男を殺したら俺は人から人殺しと指差されるかもしれないし、その家族から恨まれるかもしれない。
 だが、刻限だった。
死が彼らの後ろでどちらが倒れるか待っている。
 だからもう迷うことを迷うのは――――
止めだ!!
「―― 行くぞッ!!」
 シバリスは突然、攻勢に転じた。相手の剣が目前を掠めても、もう少しで体に届きそうになっても、相手が期待したように後へはもう引かなかった。
 相手の男は、昔どこかの軍隊にいた傭兵か何かかもしれない。戦い方に独特の癖があって整然としていなかった。それが一番測り知れず厄介だったが、それさえ見破ってしまえば、シバリスの教育された動きの方が最後まで体力を引っ張れる分だけ、上だった。
 ――ああ、上下関係とはよく言ったものだ。
シバリスは足のもつれた彼を蹴り飛ばし、仰向けに倒れこんだ彼の腹の上に馬乗りになった時、思った。
 喉元に突きつけた刃を、戦場でなら一線に引くその手をぴたりと止めた。汗だくの男は全身で息をつきながら、シバリスの顔を見ている。
「お前の夢は?」
「お袋に靴を買ってやることだ」
「そうか」
 ぐしゃ、と剣に伝わる肉の裂ける手応え。
きっと今夜は彼の母親の夢を見るのだろう。
 シバリスは唇に跳ね返った血潮を舐めながら男の体から立ち上がった。叫びまくる女たちの歯、空を舞う無数の拳骨、賭けに負けた貴族たちが足を踏み鳴らす音。
 これが勝利の褒美か。轟音の中で彼は無言のまま、微動だにしないイングリットを睨みつける。






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