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蒼 天 無 音
- 7 -





 無感動な監視兵から、シバリスは第三試合が始まる一時間後まで自由に休息していていいと言われる。
「たいしたことなさそうじゃないか、良かったな!
 考えてみればイングリットがそんな大きな駒を用意できるはずがないんだ。心配しすぎだったかもしれないよ」
 控え室に引き揚げてきたシバリスを、仲間達はかなりほっとした表情で出迎えた。任務を切り上げてやって来たアール・ヴィクシスもいて、彼は一言も言わずに部下の体を抱きしめる。
「辛かったろう」
「……大丈夫です。ありがとうございます」
 上ではそろそろ第二試合が始まっている頃だった。シバリスは部屋から出てはいけないことになっているので、ただ待つしかない。
「なんだか妙にざわめいているな」
ヴィクシスが天井の方を顎で示して呟いた。
「さっきもこんな感じじゃなかったですか?」
 シバリスは返事が出来なかった。血を洗い流すために手桶で顔を洗っていたからだ。
「同じ位のやつならいいんですがね……」
 同僚が呟いたその時だった。突然、激しい調子で控え室の扉が叩かれる。
「シバリス! 入ります。入りますよ! ラエティア・ノルドです!」
 騎士達のみならず監視兵も飛び上がって扉を見る。息せき切って入ってきたご令嬢はシバリスを見るなり、そのシャツを掴み、
「シバリス! 今すぐイングリットに試合を辞退すると言って頂戴! そしてすぐにここから出て! 冗談でも計略でもないわ、今すぐよ!」
と訴えた。人々が唖然とする中で、シバリスは一人、妙に落ち着いた声で首を振る。
「どうしたの? 僕はもう一人殺してしまったし、……そんなことは許されないよ」
「では逃げて頂戴。どこでもいいからとにかくここから……!」
「落ち着いて、ラエティア。何があった?」
 ラエティアは震えていた。見開かれた瞳に涙が盛り上がったかと思うと、つと頬へ零れる。
「…………バートレット・キーツなのよ…………」
 監視兵が「うっ」と唸り声を上げたが、遅かった。その言葉の意味を一瞬にして悟った騎士達が、血相を変えて控え室を駆け出していく。
「……バートレットが…………?」
 残されたシバリスの眉がようやく微かな狼狽を刻む。ラエティアは泣きながら頷いた。
「第四人目の戦士としてたった今、観客の前へ出てきたのよ……! お願い、シバリス。ここから逃げて。あの人の恐ろしい策謀から逃げて頂戴……!」





 ラエティアが席を立つのを見て、側にいたヘキガティウスが問い掛けるような視線を送ったけれど、「あの人」は前を見たまま、ちっとも構いつけなかった。
「どうだカイン、美しいだろう」
 やがて、打ち合いが始まる頃ぼそりと彼は言う。
「世界にはあんなに美しい赤もあるのだな」
 そして第二試合は即座に容赦なく、赤毛の女騎士の勝利に終わった。相手の体に突きたたったままの剣を諦めて、彼女は手ぶらで悠然と、控え室へ戻る。




*





 第三試合が始まる前に控え室に飛び込んだアール・ヴィクシスは、部下であるバートレットに事態の説明を求めた。が、彼女はまるで落ち着き払って、相手にしようとしなかった。
 お前は、自分より強い相手だけにしか従属しないのではなかったのか、という質問にも無言だった。ただ黙って、新たに与えられた剣の手入れを続ける。忍耐強いヴィクシスもさすがに激怒してその机を叩いた。
「お前はその剣で、これからシバリスを斬りに行くと本気で言っているのか? 十何年も戦場を共に駆け回ってきた仲間を……、イングリットに言われたからと言って……!」
「……上官の命令は絶対というのが、戦場の掟では?」
「だから必ず団長殿から殿下の命令書を頂いてくると言っているんだ! お前が命令違反にならないように、俺達が可能な限りで努力するし、よしんば命令違反になってもどんな処罰も許さない! 今すぐと俺達とここを出るんだ!
 お前が言えば、シバリスも動く。
こんな馬鹿げた騒ぎでお前達が殺しあうなんて、どうかしている!!」
 騎士達の無言の賛意の視線も受け流して、バートレットは立ち上がった。
「折角ですが」
「バートレット!」
 ヴィクシスは思わず彼女の肩をつかんだ。一時は確かに彼に逆らわなかったその肩を。そして彼女の両の瞳を覗き込む。あの夜と同じように。
「やめるんだ。……俺が約束する。お前のことは命にかけて俺が守る。だからやめろ!
 バートレット、……命令だぞ……!」
 二人の目はしばらく見詰め合っていた。
 騎士達はそんな彼らを、呼吸を止めて見守る。
 そして次の瞬間、バートレットの左手が動いて、肩に置かれたヴィクシスの手を叩き落した。
「!!」
 それは対話の終了と命令の拒否とを示していた。バートレットは唇を引きつらして笑いを見せると、吐き棄てるかのように――言う。
「負け犬は引っ込んでな」
 ヴィクシスが全身を弾き返されたかのように一歩退くと、両足に誰かの腕がぐるぐると巻きついた。慄然とする間もなく、
「お前の遠吠えはもう聞いてやっただろ」
 暗闇の中に投げられたその一言は、彼が再会したあのかつての友の一種とぼけたような眼差し、やりにくさを募らせる慇懃な仕草に、大変よく似た抑揚を持っていた。
 そして彼には分からないのだ。どうして自分がこんな取り扱いを受けねばならないのか。こんな寒い谷底に突き落とされなければならないのか。人から蔑まれねばならないのか。
 年の差も階級の差もどこかへ流れ去った。ヴィクシスは感情に捕らわれて彼女に食ってかかる。
「どうしてそんなことを言うんだ……?!
 俺が何か、そんな言葉に見合うようなことをしたというのか?!
 それとも、お前と寝た男はみんな負け犬になるとそういうわけか?!」
 ぎょっとしたのは騎士達だけだ。バートレットはたじろぎもせず冷たい声で返しただけだった。
「そうでもないさ」
と。
「だがお前は負け犬だ」
 そして彼女は、もう彼の絶句など目に入らないといった無関心で剣の握りを確かめ始める。
 ヴィクシスの無残な失敗を最後に、もう誰も彼女を止めることが出来ないのだという認識が、足元の方からじわりと広がった。
 彼等は為す術もなく、彼女の周りを取り囲んではいたが、もはや時の砂が落ちていくのを手ぶらで眺めているのと同等だった。
 やがて、監視兵が咳払いをして動き出すと、バートレットに言う。
「時間です、少尉」




*





「時間です、少尉」
 その言葉に従順なまでに従うシバリスの腕を、ラエティアは必死につかんだ。
「だめよ! やめて! 行ってはいけないわ! どれほど不真面目な闘いが仕組まれたか分からないの?!」
 ラエティアはシバリスの声が落ち着いていることが分からなかった。どうして避けられる危険を避けようとしないのかも、分からなかった。こんな挑発に乗るなんて百害どころか命も危ないというのに。
「一体、何に拘ってそんなに依怙地になっているの?! そもそもどうして私の手紙の通り、イングリットの譲歩を飲まなかったの?!
 そのためにこんな騒ぎになってしまったのよ……! あなたはもう少し頭がいいと思っていたのに!」
 監視兵にちょっと困ったような目配せを送って待ってもらうと、シバリスは彼女を静かに引き剥がしにかかる。
「ラエティア、落ち着いて。……気持ちは分かるけれど、君はもうご家族のもとへ帰った方がいいよ」
「な……」
 ラエティアは拒絶よりも冷たいことを言われて、傷つくよりも先に驚いた。
「なんですって……?!」
 彼女がいかに爪を立てても噛み付いても、彼は落ち着き払ってびくともせず、それどころかあからさまに自分を子ども扱いするのだ。
「……あまりなのじゃない、シバリス……! 私はただもうあなたのためだけを思ってここへ飛んできたのよ?! その言い草は何? 闘いは始まったのだから私はもう関係ないとでも言うの?」
「そうだよ」
 シバリスの言葉はするりと冷淡だった。彼女は自分の周りで世界が凍りついたのを感じる。
「……なんですって……?」
「もう君とは直接関係ない、ラエティア。発端は確かに君だったけれども、状況は変わった。
 これは俺とイングリットの戦いだ。相手は誰でも俺は退けない。今、彼がバートレットを連れてきたというのなら、俺はバートレットと闘うまでだ」
 虚を突かれて空になっていた彼女の顔に、感情の小波が昇った。バートレット。またその名前なのか。恨みがましさの滲んだ微笑が、唇から零れる。
 自分がつまはじきにされた理由が、ラエティアは今こそよく分かったように思った。利いた風な言葉を並べながら、この男は自分を見限ったに過ぎないのだ。それを麗句で飾っているだけなのだ……!
「……そう……。どこまでもバートレットなのね。結局あなたには彼女だけが必要なのね……?」
 シバリスは眉をしかめた。
「俺の言葉が聞こえなかったみたいだな」
「聞こえたわよ! もう私のことなどどうでもいいと言ったのでしょう!
 大したものね……! 来世がどうだとか言っていたくせに、みんなそうなのだわ! 口だけなのだわ!」
 我慢できない拳が、彼の腕に叩きつけられた。
「あなたは最初からバートレットだけが大事だったのよ! 私のことなんて暇つぶしだったのよ!
 よく分かったわ、馬鹿だったのは私なのね! あなたの芝居ぶった言葉を信用したりしたばっかりに、こんな恥さらしな目に遭って……!! 最初から全ては下らないお遊びだったのだわ……!
 ひどい! ひどい! ひどい!
許せないわ……!!」
 激情にひくついてふらふらする手を容易く捕らえたシバリスは、それでも静かだった。まるで彼には春の夜に降り注ぐ、霧雨までが見えるようだ。
「それは違う、ラエティア、ごまかしはいけないよ。
 ……最初に俺をバートレットの方へ棄てたのは、君じゃないか」




アナタノ恋ガ早ク報ワレマスヨウニ。





 口を開けたラエティアは、ごまかした訳でもなく演技をしたわけでもなかった。彼女は手紙の最後にそんな言葉を書き連ねたことを、本当に、すっかり丸ごと、忘れていたのだ。
「――――」
 シバリスは動けなくなった両腕を離す。
「だからもう僕は生まれ変わっても、君を愛することは出来なくなった。君は自分で、僕との未来への出口に蓋をした。
 そうだろう、ラエティア。……帰りなさい」



 彼女を置いて、監視兵とともに控え室を出た。
横顔を見せるシバリスには、彼女がなぜあの手紙のことを忘れてしまったか分かる。
 ……本心ではなかったからだ。
分別に命じられて書かれた行儀のよい、物分りのよい子供の作文だったからだ。だから感情が理性を押し流した時(多分、自分がイングリットの要求を蹴ったと聞いた時)、彼女の中ですっかり無かったことになったのだ。
 本気でないことは罪とは言い切れない。
忘れることを堕落だと言う程坊さん染みていない。
 だが、魂をあけわたせばするつもりのないことをすることになる。そして往々にして人間は、その行為の責任を取り切れない……。
 残念だ。シバリスは思った。望まれれば、彼女の平衡感覚を何度でも裏切ってあげることが出来たのに。バートレットとの縁を切っても、どこまでも一緒にいたのに。
 廊下の半ばでイングリットと行き当たった。控え室にいるラエティアの保護を頼むと、彼はそのために来たのだと言う。
「取り乱した彼女が色々喋ってしまったらしいな。次の相手が誰だか、君はもう知っているね」
「ええまあ」
「命を賭けてもらうのだ。これくらいの報酬は用意しなければ君に失礼だろう」
 監視兵が不思議そうな顔をして見ている前で、シバリスは苦笑いを見せた。
「あなたは一体、俺が憎いのかかわいいのかどっちなんです」
 イングリットは何も言わないで、兵士に顎をしゃくって彼を連れて行かせた。彼が通り過ぎた後ちょっと肺に空気を入れると、長い廊下の終りへと、歩を進める。






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