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蒼 天 無 音
- 8 -




 ごまかしを重ねて直線ではなくなった幾人かの思考が一緒になると、やがて渦を巻いて楕円を成す。その枠に人々の退屈が縦横に糸を渡し、いつしか闘技場が立ち上がる。
 そして音も無く太陽に焼かれる白い砂の円かの上に、図ったように同時に出てきた二人の人間。その鍛えられた若い体躯の中にすら、醜さは棲んでいる。
「長かったな」
 シバリス・クレイがそう白状する。健康な体を持ち、若さも美しい眼差しも持ったこの男はだが、逃げ回っていたのだ。かつてほんの遊びのつもりで深い傷を穿ってしまった大事な人間に、再び自らをぶつけることから。
 そのためにかえって長く相手を過去に縛り付けた。……いや、もしかすると彼はそうやっていつまでも彼女を縛り付けておきたかった我が儘なのかもしれない。
「……全くだ」
 片眉を上げるバートレット・キーツは臆病などとは無縁な人間に思える。それでも彼女は最も身近にいて、最も敗北の危険がある男からは逃げ回っていた。そして気晴らしに過ぎない勝って当然の相手にだけ刃を向け続けた。
 そんな微かな自尊のごまかしが、人間らしい些細な知恵の積み重ねがこんな流血へ繋がるのかと思うと、シバリスは呆然としながらもなぜか笑いが出て止まらない。
 あの時から七年も経って今ようやく、彼女と向かい合うのだ。人間とは本当に怠惰な生物だ。言を左右にして、さまざまな道を用意して、自分が本当に立ち向かわなければならないものからは逃げてばかりいる。
 終わりを感じるその瞬間に急かされるまで。
「……ああ、でも、いい天気だ」
 見上げれば空には白い雲ひとつ無い紺碧の粋だった。
 太陽に焼ける手袋の匂い。
 じりじりと見るからに痛む髪の毛の熱。
 高鳴る心臓の鼓動。
 剣先を持ち上げれば締まる両腕の筋肉。
 全身の細胞が呼吸をしている。指先まで張り巡らされた神経と五感が日常の浅い眠りからゆっくりと蘇る。
「……やろうか」
 生存の手応えに眉を歪めて立ち向かいながら、シバリスの声からは喜色が零れ出た。太陽の下で、愛する人間と真っ直ぐに対峙する喜び。
「知恵を駆使した深夜の寝床になど火をかけてしまおう」
「何を考えてるんだ」
「お前とやれて嬉しいだけさ。俺はずっとずっとお前とやりたかったんだ。無論それは殺し合いという意味じゃ無かったが、『やる』ことには変わりない」
「――――」
 バートレットの珍しく困ったような笑いを見たが、シバリスはそこでいつものように手を緩めたりしなかった。数瞬後には自分は死ぬかもしれない。
 だから言わなくてはいけないのだ。ぶつけなくてはいけないのだ。自分の心を、ありのままに。
 死を前にして、彼等はようやく二重三重に自らを取り巻いていた修辞の檻を抜け出した。まるでシバリスが別れると知ったラエティアに突如として執着を感じ始めたのと同じように、全てのものが明瞭になり、彼らにとって重要なものがなんなのか分かった。
「……さあ、やろうバートレット。たった一度のつまずきで立ち止まるなんてらしくなかった。いつも恐ろしいものに立ち向かっていくのが俺達であり、騎士だろう。
 だからイングリットに、ラエティアに、仲間たちに、あの退屈しきった二千人の人間に、俺達がやるところを見せ付けてやろう」
 下を向いたまま、バートレットは小さく困ったやつだ、と言った。そして顔をちょっと上げて両眼が彼を見たときには、既にそこには殺気しかない。
「俺はお前が、大嫌いだ――――」
 シバリスの顔からも茶気が抜ける。瞳からは光が溢れてきらきらとしていたけれど、面構えは戦場をのたくる人殺しのそれだった。
 始まるのだ。その突きあがる緊張感を察して、観客達は静まり返った。
「……あいつら……、一体どっちが強いの……?」
 木戸のところでただ彼らを見守るしかない騎士達は、今はもう、あまりの徒労に呆然となっていた。誰かが発したそんな疑問にグレンは首を振る。
「やってみなけりゃ分からない……」
 ただ確かなことが一つだけある。
 バートレットは自分より強い相手は決して現実の愛人とはしない。だから、勝っても負けてもシバリスは絶対に、絶対に彼女から愛されることはないのだ……。
 それでも彼女と剣を合わせるシバリスの姿に、グレンはどうしようもない敗北と、距離を感じた。
「……あいつらは元々俺達などの手に……負える人間じゃないんだ……」
 そして互いに憎しみも捨て難さも併せ持っている二人の人間は剣先を触れ合わす。一瞬の後、甲高い音と共に飛び退る各々の肉体。
決闘は始まったのだ。




*





 気分の悪そうなラエティアを控え室へ行かせると、イングリットの体はゆっくりと観客席へ向かった。だが、冷たい空気の張り詰めた廊下で彼の足がふいに、ぴたりと立ち止まる。
「……どうしたんだね、こんなところで」
 振り返らぬままに言葉を投げる背後で、靴底が擦れる音がする。
「試合はもう始まっているよ」
「――― 知っている」
 暗闇から溶け出した男、アール・ヴィクシスは蒼白な面を僅かに天窓から落ちて来る白い光に曝した。柔らかかった容貌は相次ぐ試練に叩かれて、ちょっと病人のように見える。
「八方手をつくしたのに、とうとう始まってしまった……」
 静かに瞼を閉じるその様子は、何かを諦めたかのようだった。しかし、目に映らない腰から取り出されたのは銀に光る細身の剣だ。
 彼が何を諦めたのかを一瞬にして悟るイングリットの胸へ、それが突きつけられる。
「シン。すぐに、勝負を止めさせろ……!」
「……おや君は、平和主義者じゃなかったのかね」
 彼は笑んで皮肉を言った。そしてそれは冗談にはならなかったらしい。ヴィクシスはふいに崩れて、絞り出すかのような声を出した。
「……そうとも。それなのにどうして……!」
 それは悲鳴に近かった。
「どうして俺にこんな真似をさせるんだ……! 俺はお前に剣など突きつけなくはないし、あいつらに殺し合いもさせたくない!
 だのにどうしてだ?! どうしてお前はこうまで俺達を責め苛む? どうして俺にこんなことを……!」
 イングリットは本当に物事が見えるようになっていたから、暗闇の中でも彼が目の端に小さな涙を滲ませているのが分かった。
 隔たりと、彼の混乱への一抹の同情とを感じて、イングリットは小さく息を漏らす。
「……頼む、シン。俺の言うことを聞いて、すぐに試合を中止してくれ。そうでなければ俺は……、お前を殺さざるを得ない……」
「……短絡的だな、アール。部下に裏切られて私に八つ当たりか」
「黙れ! どうして俺の言うことを素直に聞いてくれない……! こんな下らない闘いを止めてくれない?!
 俺は少しも間違ったことを言っているわけじゃない……!」
 彼がそう叫んだのは目の前の男に対してだけではなかった。彼の命令を弾き返したバートレット。大丈夫だといって彼の気遣いに応えなかったシバリス。
 分からない。彼等が戦場でもない場所で徒に血を流したがる酔狂が。わざと衝突したがる感情が。そして自分の意見が尊重されないその理由が。
「どうして他人と理解し合う道を選択しない……?
 何故いがみ合う道ばかり進むんだ。俺には理解できない。
 俺はただ、他人を傷つけたくないんだ。それだけなのに……!」
イングリットは吐き棄てるように笑った。
「下らない。私が君の部下でも命令は聞かない」
「何故だ!」
「人を傷つけたくないなどと言いながら君が一番庇いだてしているものは、自分自身に他ならないからだ!」
 ぎらりと、眼鏡の奥に赤い感情がほとばしった。
「負けるかもしれない、咎められるかもしれない、恨まれるかもしれない、ややこしくなるかもしれない。君はそういった可能性から逃げ回ってばかりいる。
 そして説教をすればそんな小賢しさを他人に押し付け、謝罪をすれば言い訳ばかりを口にする」
 そんなつもりじゃなかった。傷つけるつもりじゃなかった。運が悪かった。
 言いながら、彼は今日も逃避行を生産している。他人と衝突を起こすこと、ひいては自らと衝突を起こすことを無理に避ける、曲がりくねった道を。
「……妹の時もそうだったな。お前は一度たりとも妹や父に面と向かって結婚したくないなどとは言わなかった。ただ黙って逃げ出しただけだった。
 勿論、自殺などという極端な結末になったのは妹が愚かしい女だったからだ。だが、お前の手が汚れていないからと言って、妹を傷つけなかったなどと思い込むことは許さない!」
「思い込んでない!」
「思い込んでいない人間はのこのこ我が家へやってきたりはしない!」
 乱れる父。無茶苦茶になる食卓。そんな気はなかったと言うのだろう。同じように家族が忘れられるとでも思ってしまうのだろう。
「君は他人を大事にすると言いながら、いつも自分が苦しくないやり方だけを押し通す。
 ……結局、君は自分だけが大事なのだ。自分だけは無傷なまま感謝だけされようと思っている。そんな人間を愛し、その言葉に従う人間がいるものか」
「違う! 俺は……、俺はただ……!」
「そんな冗談は彼らに通用しない」
 イングリットは、シバリスに殴られてまだ治らないほぞの炎症をちょっと噛んだ。
 ヴィクシスには分からない痛みという名の真実。血の味は嘘をつかない。
「無論私にも通じないよ、アール。茶番はここまでにして時間を大切にした方がよくないかね、お互い」
「……う、動くな!」
 崩壊は一気にやって来た。手から零れ落ちていくばかりの世界に対し、ヴィクシスはむきになってますます剣を突きつける。今や彼は平和主義の持論を、剣を使って彼に迫る人間になってしまっていた。理解も核心も彼にはますます遠く、混乱ばかりが頭を痺れさしていく。
 前方に、今まで通ってきた道の終りが崖の形で見えていた。けれども彼はどうしても逃げ切りたかった。三十数年のごまかしを諦めることが出来ない。既に女の両腕は彼の両足をがっしりと捕らえたというのに、自らを許し続けてきた彼には、自分の意思できびすを返すことが出来ないのだ。
 ―― 仕方が無いんだ。
それは彼が自分の生まれ育った家を振り返ったとき口にしたのと同じ呪文だった。彼は幾千回も繰り返したそれを今日もまた繰り返すと、迷いを無にして、剣を振り上げた。
 どこか唖然としたような表情のかつての友。仕方ないんだ。仕方ないんだ。めぐり合わせが悪いんだ。
 この悲劇は、俺のせいじゃない―――― !
 そして焦り狂った刃が振り下ろされる。次の瞬間、床に大量の血が撒き散らされ、イングリットの濡れた上半身がその湖へ崩れ落ちた。




*





 世界は静まり返っていた。
本当に静かなのか、無我夢中なためなのかは分からない。
 風に曝されて痛い切り傷だけが、金属的な細い音を立てて彼に生存を知らせた。
 筋肉は倦むことなく収縮と弛緩を繰り返す。目の前の朱い生き物と――――
 もう何度打ち合っただろう。
 もう何度睨みあっただろう。
 もう何度傷つけあっただろう。
 そして一体何度、もうなにもいらないと思っただろう。
「つッ!」
 厳しい刃のぶつかり合いの果てに、二つの体は離れた。休むことなく相手の動きに注意しつつ、めいめい呼吸を整えようとする。
 肩で息をする獣が二匹。
 世界は彼らのものだった。
 全ての真実が彼らの手の中にあった。
 ごまかしや嘘の衣服を脱ぎさって赤裸々な人間達はぶつかり合うごとに血を流し、それはまるで野蛮な様だった。そして一体何のために今まで言葉をしゃべっていたのかと不思議な気がするほど、修辞の必要無い透明な青空だった。子供の頃、天を支配していたのと同じ空だ。
「…………」
 シバリスは苦しい息の下で微笑んだ。
するとバートレットもひらりと美しい微笑を見せる。
 そうか、彼女に笑ってもらうためにはこうすればよかったのだ。
 簡単なことだ。自分のことなどどうでもいい。君だけが大事なのだと彼女に伝えればそれでよかったのだ。
 シバリスはちょっとだけ後を振り返ると、曲がりくねっていた自分の足跡を眺めておかしくなった。




「―― もういい、やめてくれぇッ!!」
 悲鳴のような声を出して、グレンが耳を塞いだ。
「お前等の絆の深さは分かった! だがそのために殺しあうなんて狂ってる! 頼むからやめてくれ―――― !!」




*





 頬へ散った血の生ぬるさに、今頃呆然としながら、ヴィクシスは呟いた。
「なぜ…………」
 血に濡れてもいない剣を持ったまま、
「シン、まだ、斬っていないぞ……」
と。






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