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数分後、血相を変えたヴィクシスの奔走の末、イングリットの体は男爵家控え室に運び込まれた。中で医者でもあるヘキガティウスに薬を与えられていたラエティアは、血まみれの婚約者を見るや仰天して立ち上がる。 「……あ、あなたイングリットに何をしたの……?!」 血を浴びて青い顔をしているヴィクシスに食ってかかる彼女の肩を、ヘキガティウスは静かに止めた。 「刀傷じゃない。いつもの発作だ」 「なんですって……?」 実際、医者は慣れていた。すぐに一緒にイングリットを運んできてくれた人間達に礼を言って外へ追い出すと、寝台に横たわる彼の側へ膝をつき、脈を取る。 「……無理が祟ったな……」 処置を続けながら、それでも後ろで木偶の坊のようになっている二人の係累に遠慮をしたのだろう。ぼそりぼそりと、病状を説明してくれた。 「シンは生まれつき疾患を抱えていて、有効な免疫機能を維持するためには薬の補助が不可欠だ……。 それなのにこちらに帰ってくる一月前に、その薬箱を焼いてしまってね……」 薬が無ければ外気にすら負けてしまうことは目に見えていた。ヘキガティウスの目の前で、彼の内臓は次々に炎症を起こし始める。 「まあ副作用とどちらがましかという状態だったが……」 一番最初に負けたのが肺だったんだよ。 「……死ぬのか」 ヴィクシスの声は震えていた。学者が答えないと、悲痛な顔で叫ぶ。 「ならばこの男の家族はどうした! 父親は何をしている?!」 「試合の結果に夢中でね」 ヘキガティウスは血だらけになった布を暖炉に投げ込む。 「そもそも息子の病気のことなど『出来損ない』くらいの認識しかお持ちでない」 「……まさか、シン……! 最初からそのつもりで……!」 床にグラスが落ちて、中身がぶち巻かれる。それを背にラエティアの体が控え室から飛び出していった。 * 歓声の花びらが血潮のように散る。 裂けきれぬ切っ先が服を突き抜けて脇腹をかすった。 「!」 シバリスは飛びのくと距離を維持しつつ、手をやって傷を確認する。 大きくは無いが、肋骨の手前まで切っていた。痛みとともに両足の疲労を知る。 互いに動きが知れている分だけ、剣先は容赦なく相手の苦手な処へ走った。シバリスもバートレットも深手でこそないが、いくつかの出血を見ている。 いずれ体力が切れた方が、同じ場所へ穴を開けられるのだ。それが分かっている仲間達は、とても試合を冷静に見ていられない。同士討ちなどという構図に若い女騎士は泣き出していた。 けれども遠い二人は飽くことなく剣を振るっては離れ、離れてはまた討ち合った。その度ごとに彼等は確実に、勝敗への道を転がり落ちていく。 そして再び二人が激突した時だった。 踏みしめるべく後へ出されたシバリスの膝が、がくんと滑り落ちるようにその役目を果たさなかった。体力を秤にかけたとき、普段から訓練を怠らないバートレットの体が上回ったのだ。 そしてバートレットは天秤の傾きを見逃さなかった。イングリットとの闘いで新たに拡大した視野で、彼の苦しい足首を引っ掛けると、手前に引く。 体重のやり場を一気に失して、シバリスは転がった。まるで彼女と同じように。だが、彼の反射神経は右腕を巻き込むように、何とか腹を下に着地しようと努力する。 だがそれも、バートレットの計算のうちだった。剣を拾おうとするその両肩から一瞬無防備に突き出す、頭。笑ってしまうほど丸腰な彼の首を、刎ねる。 「!」 シバリスもすぐその意図に気付いたが、既に遅かった。蒼い死を予感しながらも、往生際を走るように、地面を蹴る。 振り下ろされた剣の身がシバリスの首をすぱりと、非現実なまでに見事に切り離すはずだった。突然腰に巻きついた女の両腕にバートレットが体勢を狂わされたりしなければ――。 剣はぶれてシバリスの後ろ髪を払った。散る金髪に、バートレットは怒り狂って声を上げる。 「貴様、何の真似だ!!」 肩越しに振り向いたシバリスの目に、バートレットに引き剥がされるラエティアの姿が映った。 「聞いて! シン・イングリットは死にます! あなたたちが争う理由はもうなくなったの! もうやめてください――!!」 彼女の精一杯の怒鳴り声に、世界は一瞬にして静まりかえった。 * どうして、そう言わなかったんだ。 目覚めるとヴィクシスが泣きながら側にいて、聞いた。 そうと知っていればと彼は言う。 その言葉は正しい。人間はいつも『そうと知っていれば』親切になるのだ。 「だって駄目だろう君は……」 苦笑が喉から湧いて出た。 「君は逃げる……」 君は優しいから、墓参りは欠かさないだろう。ああもっと大事にしてやればよかったなどと言いながら、墓へ参ってきてくれるだろう。 ……だが、イングリットはそんなことを望んだわけではない。 薬箱が在ろうが無かろうが、自分が遠からず死ぬと知った時、彼は誰かに自分のことを覚えていてほしいと思った。 そして瞼に浮かんだのは、十八の真っ直ぐな瞳だった。 あの少年なら分かってくれるだろう。 私がどれほど人生を後悔しているか。 シバリスと会って以来、彼は人生に愚痴を言うことをやめた。だがその代わり、後悔の念が湧き上がってイングリットは今も思うのだ。 どうしてもっと早く家族や友人に自分をぶつけなかったのだろうと。そうすればもっと違う結論にたどり着いたかもしれない。 病弱な母は黙ったまま死ななかったかもしれない。父は酒を飲まなくなったかもしれない。アールは逃げず、妹の命を粗末にしないで済んだかもしれない。「どうにもならない」と諦めることなど本当は何も無かったのかもしれない。 理性的な我慢と努力を重ねた自分の人生に足りないのはその、自らを省みない行動だったのだ。無闇と耐え忍ぶだけでは状況は少しも変化しないのだ。 けれどそう気付いた時には、喪失は彼岸へ渡っており回復は望めなかった。彼は悲しかった。きっと自分はこの後悔を抱いて無念なまま死ぬ――。 だが、その気持ちを誰かに分かってもらいたいというだけのことであったならば、イングリットは領地で静かに死んだだろう。彼の願いはほとんど憧れであり、寝る前に浮かぶ他愛の無い夢のようなものだった。 そんな浅い眠りを中断したのは、偶然国都からやって来たグレンがもたらした噂話だった。 遠く聞くシバリス・クレイはもはや、かつての様に無鉄砲な子供ではなかった。そして大勢の中でただ目立つというだけの、小賢しく遠回りな、口先ばかりの人間になりつつあった。 ……あの瑞々しい青年が今や自分と同じ道を辿ろうとしている。イングリットは動揺した。それは駄目だ。取り返しがつかなくなる。死の間際になってそれを悔やんでも遅いのだ。時間を無駄にするには、人生は短かすぎる。 見過ごしたら繰り返しだ。 彼を起こそう。恨まれるだろう。だがかつて、自分に大事な人間と闘うことの貴重さを教えてくれた人間に、その言葉をもう一度返しに行かなければ、私の人生は全くの無為だ。 そしてイングリットは薬箱を焼き、計略と警告とを携え、国都へ戻ってきた。平和に怠けてまどろみかけていたシバリスを叩き起こすために。 無論これは我が儘だ。すぐにいなくなってしまう異邦人だけが行使できる最後の切り札だ。いかにイングリットがシバリスのことを息子のように思っていたとは言え、それは謝らなくてはならない……。 ああ、それにしても…… 唇に静かな笑みが浮かび上がる。 なんと暖かい春だったのだろう。 なんて迷いのない明瞭な日々だったのだろう……。 自分に噛み付く人間達の刃と共に私は確かに……、確かにそこに……。 「……彼等もまだ……生きているだろう……?」 イングリットの声が乾いて掠れていた。 「勝手ながら……感謝していると伝えてくれ……」 かわいそうなラエティア。 走れ。 君がいかなる傷を抱えていようとも、時は容赦してくれない。 君達に制限時間のない人生を用意できたらどんなにいいだろう。私の人生を分け与えられたらどんなにいいだろう。 けれどもいつの日か必ず「そこまで」と言われる時が来る。 だから閉じなければならない瞬間までは、目を開けておいで。 どんなにその光が強烈でも、見えるうちは目を―― 「シン! シン! しっかりしてくれ! まだ君に言っていない、心から謝っていない! シン……!」 揺さぶるヴィクシスの手を止めて、臨終を告げる医者は首を振った。 「どれほど泣き叫んでも彼には届かない。彼は扉の向こうへ行ってしまったし、扉は閉まったんだ」 その言葉の付き合いの悪さは時間のそれであり、その冷たさは死のそれだった。薄くて固いその刃に切られて、ヴィクシスの胸から見えない血潮が流れ出す。 その失血の名をヴィクシスは知っていた。取り返しのつかない、「後悔」だ。 * それがどうした。 バートレットの言葉に、ラエティアは耳を疑った。 「試合はもう始まっていて、ルールは『どちらかが死ぬまで』だ、ご令嬢。周りで何が起ころうが、奴が死のうが、知ったことではない」 深く澄んだ美しい瞳だった。そして彼女のことなど見はしない目だった。 そうだ。バートレットの全身はいつも、彼女とは関係のない処に住んでいる人間のそれなのだ。だから、彼女の中には未知なるものの懼れが凝縮されて詰まっている……。 力の抜けた彼女の手をいとも簡単に払い落として、バートレットはシバリスへ一瞥を投げた。肩で息をつきながら彼も頷く。 「そうだよ、ラエティア。怪我をするから退がるんだ」 彼も余地のある言葉は吐かなかった。 体も呼吸も空気も定めも、始まりを忘れて今はただ二人だけのものなのだ。彼等が作り出した血なまぐさい寝床に彼女は、足を踏み入れることすら許されない。 「…………」 つまり、ラエティアはまたも弾かれたのだった。絶句する彼女の腕を引くものがある。騎士グレンは黙って彼女を退避させようとした。 「は、離して……!」 「無駄だ。あいつらはもう誰にも止められない」 言いながらも彼は出来るだけ手柔らかく、彼女を外へ連れて行こうとする。そして、二人の騎士はもう彼女のことなど忘れたように再び剣を構え、邪魔された決闘を再開しようとしていた。 どうして私は彼らの中に割り込むことができないのだ。悲しみが胸を掠めた時、シバリスの声が耳に入った。 「膝がそろそろやばいな……、年は嫌だ」 彼と一緒に歩くのはどうかな。楽しいかな。 「……いい機会だから一つだけ言っておいていいか」 バートレットがどんな表情をしたのか、ラエティアのところからは見えない。 「……あのな、余計なお世話だとは思うが今後は、それなりに信頼をおく人間を作って、そいつの意見に耳を貸すようにしろよ。 そいつがお前より強かろうが弱かろうが関係ない。お前の聞きたくないことを言い、突かれたくない部分を突く、けれどもお前のことを芯から思いやっている―――友人でも恋人でもいい、そういう存在を作れよ」 答えるバートレットの声はさばさばしていたけれど、どこか不満げだった。 「お前が何を求めているのか分からない。私が一度でもお前の文句に逆らったことがあったか?」 シバリスはがっかりしたふうに首を振る。 「お前はやっぱり分かってない」 すると、バートレットはやや咳き込むようにその語尾を遮った。 「分かってないのはお前の方だ。噂に惑わされて、私は成長なんかしないもんだと決め付けやがって。 私は、反省という言葉を知らないとでも思っているのか。本当に強い男しか相手にしないと思っているのか。たまたま一度、自分に勝っただけだけのお前を、今でも腕力だけで見ていると思うのか。この馬鹿たれ」 彼の目が心持ち見開かれる。そこに朱い影が一杯に溢れているのが、ラエティアからも見えた。 「…………バート」 「あまり下らんことを言うんなら今度からお前の言うことなんか聞くのはやめるぞ」 空気が止まる。 ―― ふいに、シバリスはぐらりとなったかと思うと顔を伏せた。落ちる前髪と一緒に額をつかんで、その双肩を震わす。 「…………ああ……」 っく、と引きつったような笑いが折れ曲がった上体から漏れた。 「……そうか……。……そうかァ…………」 知らなかった。 本当に知らなかったよ、バートレット…………。 長い間鈍くて悪かったな……。 ところでこの間お前に投げた言葉のことは忘れてくれ。また間違えていた。 人間、突き詰めねばいけない。ぎりぎりの線まで追い詰められねばならない。 そうでなければ見えないのだ。俺達はみんな馬鹿だから。春の霞みに容易く視界を遮られて、実態を失してしま……。 「何を泣いてやがる」 「いやいや……。お兄さん、感動してしまいました」 髪の毛を跳ね上げると同時に彼は顔を上げた。そこに現れた満面の泣き笑いが破片となって、ラエティアの心臓に突き刺さった。 「……今までホント、生きてて良かった…………。バートレット」 ―――― そんな台詞にも、涙が出る。 もう引き摺られるままの彼女の耳朶に、彼の声が囁いた。 『最初に俺をバートレットの方へ棄てたのは君だろう』 ……確かに私は諦めた。諦めて逃げた。 だって、シバリスにはこの美しい女性がいるのではないか。シバリスはこの猛々しい女性を愛するようには、決して自分を愛さないではないか。 彼と何度寝ようとも、たとえ結婚しようとも、彼のあの夢見る眼差しが自分に注がれる日は来ない。こんな台詞を聞く日は来ない。最初から知れていたことだ。 勝ちも負けもないと言われるかもしれない。だが、人は愛情を秤にかけることもある。かつて自分と愛人とを見比べて、愛人に走った母親のように。ラエティアは二度とその勝負に負けたくなかった。 だから逃げ出したのだ。イングリットの理性ばった誘いに乗って、負けると分かっていた勝負から逃げ出した。 それは賢明な選択だったのではないのか? だって自分を一番に愛さないかもしれない人間を愛してどうする? 損をするばかりではないか。 こんなふうに、無闇と傷つけられるばかりではないか……! ラエティアの中で、そんな理性の風がばたばたと閉じられた扉を突破していった。ところが、妥当なことを考えているようなのに、露になる無人の邸内に彼女はぞっとする。 ―― 何故こうなるのだろう? 賢さへ走ると、人は他人とうまくやっていけるのに容易く独りになってしまう。常識と頭脳の領域で、いない他者に傷つけられることはもはやない。 けれどもどこまで行っても、どの扉を開けても、いつまでたっても、たった独りなのだ。どうして? 呆然とする彼女の前で、渦巻く懼れも、危険も疑問も飲み込んで、火花を散らす二つの魂。 彼等は青空のように純粋だった。 そして世界に相手しか見えない盲目だった。 人々の歓声はいつしかその無垢に吸い込まれて聞こえなくなった。彼等はもう手も叩かなかった。円形闘技場は静まり返り、ただ二人の人間の呼吸、えぐられる砂、叩かれる鉄の音だけが空間を支配した。 そして、自分で言った言葉どおり、膝から再び体勢を崩したシバリスに剣が振り下ろされそうになったその時――。 ラエティアの体が長い廊下の果ての最後の扉を突き破った。 「うわっ!」 背中からの突然の体当たりを、バートレットもさすがに受けきれなかった。疲労していることは同様の足で受け止めるまで、二、三歩押されて前へ出る。 「貴様、いい加減にしないか!!」 調子を崩された怒りに任せて、女騎士は彼女の体を乱暴に突き飛ばした。その右手には、シバリスの血で濡れた剣が光る。 「ラエティア、退け! 危ない!」 もう立ち上がることも出来ないシバリスが必死に叫んだが、彼女の耳には届いていなかった。砂まみれになりながらただただ全身で叫ぶ。 「お願い! お願い! お願い! 殺さないで!」 「今更、何を言ってやがる!」 「ごめんなさい! 私あなた達に嫉妬してたの! シバリスが私のものにならないなら、あなたと諸共に死んでしまえばいいと思ったの! 本気で思ったの!!」 「――――」 その瞬間、バートレットの瞳にようやくラエティアの姿が滑り込んだ。 「こんなことを考えてごめんなさい! でも、負けると分かっていたから闘いたくなかったの! 逃げ出して安心したかったの! だから彼の誘いに乗って、あなた達が目に入らないところへ逃げようと思ったの……!」 会場中に、その醜い言葉は響いた。木戸に並び息を詰めて事の成り行きを見守る騎士達の目。厳しく老けた面持ちで成り行きを見届けようとやってきたヴィクシスの鼻筋。子供を連れた若い夫婦達の頭の上に、それは陰として落ちた。 だが、 「……で、その逃避行に失敗したから舞い戻ってきたというわけか? 許してくださいと?」 バートレットの声は怒りを含んで相変わらず冷たかった。片膝を付いたまま、脇腹からの出血に手を染めるシバリスに、憐憫を投げる。 「今際の際にこんな言葉しか聞けないとは、女たらしの末期は憐れだな」 彼女の言葉に答えて、シバリスが笑うのが網膜に映る。そしてラエティアを暗い絶望が襲った。 ――どうしても、私の言葉は受けとってもらえない。これほどがんばっても、自分はどうしても独りのまま取り残される。ならば……。 思考が輪を描いて同じ処へ戻っていく。 報いのない愛情に拘泥などしないで冴え冴えと孤独に生きた方がどれほど特ではないか……!! こんな思いをするくらいなら……!! 涙がぼろぼろと頬を零れる。彼女は母に棄てられた晩、これで最後にしようと思い切り泣いた晩のように泣いた。 再び霞んだ視界の中で、バートレットの腕が再びゆっくりと持ち上がる。それがまるで黒々として容赦の無い、時計の秒針のように見えた。 そして卑小な獣はもう一度、無意識のうちに、何も考えず、ただ血が命じるままにそこへ、かじりついた。 そして、吼える。 「―― 私のシバリスに触らないでェッ!!」 両手の爪が、バートレットの剣を持つ腕に食い込む。 憎しみも憧れも一緒くたになった凶暴さで、ラエティアは叫んだ。 「私の方が何倍も、何十倍もこの人を愛してるんだから!! ……あなたなんかよりも、ずっとずっとずっと私の気持ちの方が深いんだから!! 離れて! 離れてよ! あなたにシバリスを愛する資格なんかなァいッ!!」 その瞬間、ラエティアは二人だけが拡げていた蒼天の世界へ頭から突っ込んだ。 蒼く塗りつぶされた果てのない旅路。 その永遠に吸い込まれ、彼女は一瞬我を忘れた。 ――はっ、として顔を上げると、バートレットの突き刺すような視線にぶつかった。彼女は何もかもを吐き出して腕からずり落ちそうになったラエティアの体を、今度は襟元を引っつかんで持ち上げる。 朱い髪。朱い髪――。 バートレットの瞳は怒りに歪んだ下瞼に押し上げられてますます冷たく、強烈にラエティアを貫いた。その頬から赤い血がぽつりぽつりと、彼女の顔の上に落ちる。 「よくもそんな洒落が言えたな…………」 「…………!」 怖い。バートレット・キーツと向かい合うということはこんなに恐ろしいことなのだ。 彼女の体は動物的な恐怖に捕らえられて勝手にわなないた。だが、それでもラエティアは決して瞳を反らそうとはしない。 すると、 「貴族の馬鹿娘が手間を掛けさせやがって……、終りにしてやる」 苦しい首を、バートレットの手がさらに締め上げる。冗談ではなく、呼吸が出来なくなった。そして仰け反るように斜めになった彼女の耳にやがて、こんな言葉が響いた。 ―― 最初からそう白状していれば、こんな騒ぎにはならなかったものを。 「!!」 その瞬間、バートレットの取とった行動に会場中が目を疑った。彼女は思わず顔を上げたラエティアの唇に突然、口づけしたのである。 人々は、思わず一緒に息を止めた。 「げ……」 顔をしかめながらすぐに唇を離すと、バートレットはラエティアの体を突き飛ばすように、シバリスの上へ放り投げる。 一緒にもつれて地面に倒れた二人が同時に視線を投げると、仁王立ちの彼女は鼻を鳴らした。 「よくがんばったな」 と。 驚いたシバリスの瞳孔がやがて笑いに閃いた時――、人々も一斉に湧き立った。 轟音のような歓声。 人々はみな立ち上がり、倒れたままの二人とそれに背を向けた一人に拳を突き上げた。紙ふぶきが舞う。 木戸から飛び出した騎士達が可否も問わずにバートレットを担ぎ上げ、凱旋した。彼等はとにかく体が歓喜にうずいて、何かしないでは済まなかったのだ。 足が利かないシバリスは、右脇をラエティアに、反対側を別の騎士に担がれてようやく立ち上がる。紙ふぶきが縦横に散る中、出口へ向かった彼の前に、グレンが立った。 「……ごめんな」 シバリスが情けなく微笑む。 「許してもらっちゃった……」 ふっ、とその場にいた全員が笑う。それから、 「……馬鹿野郎……」 グレンは一言を押し出すと同時に彼の首に腕を回し、力いっぱい抱きしめた。両腕を出来る限り伸ばして、シバリスはグレンとラエティアとを両方とも覆おうとする。 建物の中へ入ると、二人は別れねばならなかった。シバリスはすぐに傷の手当てを受けねばならなかったし、ラエティアは家族のもとへ戻らねばならない。 「またすぐ逢えるね」 自分を救ってくれたラエティアの小さな手を握って、彼は問う。それはかつて無いほど飾らぬ言葉で、素直な子供のような響きを持っていた。 「……いいのかしら……。私に、あなたの側にいる資格ある?」 ラエティアはそう問うが穏やかだった。全身に水でも浴びたように、焦りも醜悪さもどこかへ流れ落ちている。 「……だって、また扉を開けてくれるだろう?」 シバリスは乱れた髪の毛を直してやりながら微笑んだ。 「君が扉を開けてくれるなら……、必ず逢える」 別れる直前、忘れてはいけないから、と身を伸ばし、彼女は彼の唇にバートレットからのキスを、そっと手渡した。 |
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