- 藪柑子漫談 -

(七) Time Is Money




 勤め人というのは厭なものである。何が厭といって朝早く起きねばならない。それから飯を食って恰好を整え、電車に乗らねばならない。この電車がまた恐ろしく混んでいる。混んでいるところにわざわざ新聞を広げる御仁などもいて、空気は既に苛立っている。
 そして毎日代わり映えのしない勤め先の扉を見る頃には、昨日の朝と今日の朝の違いの無さにげんなりしてしまう。また仕事が始まるのかと溜息が出る。
 朝起き、電車、変化の無さ。これは私の大苦手である。もし許されるのなら猫に生まれ変わりたい。彼らは夜も昼も春も冬も常に、だらだら、だらだらしている。



「いや、僕は別に始終のんびりしたいと考えているわけではないのですが…」
 と、山口君は頭を掻いた。彼はまだ板に付かない洋装で書斎に正座している。
「しかし予想以上でした。学校にいる頃というのは、やっぱり分かっていないものですね。こんなことならもう二年や三年、留年していればよかった」
 彼は藪柑子先生がまだ大学にいた頃の教え子であった。紅梅君等の先輩にあたるわけだ。卒業して一年ぶりくらいに挨拶に来たのだが、偶然にもその座は勤め人ばかりだった。
 城山書店の編集、ミノオ(箕尾)君。私。私は高等学校の教師である。そして藪柑子先生もホンの三年前までは大学に通っていたのだから、その実態はよく承知である。現にその頃の小説の中には、満員電車の中で息を止めている胃弱の役人が登場する。
「山口君は、島崎藤村氏の『破戒』を読んだかい」
 先生が顔を向けると彼は苦笑した。
「どうにも暇が無くて…」
「あれの主人公はやっぱり尋常小の教員なんだが、彼らが月給袋をもらって頬が緩むほど嬉しがる、という場面がある。あれなんぞは私は、本筋より感じ入ったね。定めしミノオ君なんぞも、感動した口だろう?」
 ミノオ君は、日に焼けた小さな顔を歪ませた。
「どういたしまして。そりゃあ僕も月給をもらわないと生きていけませんからね。働くことに異存はまるでないんですが…。
 ただ全ての予定が仕事に引っ張られてしまって、それこそ自由に旅行の一つも行けないというのが、拘束されているようで辛いかなあ」
「学生の頃は勉強はしているけれども、やっぱり自分の時間がありますからねえ」
うんうん、と山口君。
「あの頃に比べればお金はあるけれど、その代わりに時間がなくなる。然るに僕は最近、時間の貴重さを痛感するんです。正にタイムイズマネー(Time Is Money)ですね」
 と、彼が嘆息したところ、突然に藪柑子先生がニヤニヤし始めた。先生がニヤニヤすることはあまりないことで、もっともご面相が割と恐ろしいので、楽しそうと言うよりちょっと無気味に映るのであるが。
 山口君がそれを見て畳に手をついた。
「ああ、先生それは私に宿題を出す時のお顔…」
「だって君、誤用だよ。その語の意味を知ってるかい?」
「フランクリンでしょう?」
 ミノオ君が横合いから言った。
「そうだ。だが、日本じゃ例の『春宵一刻値千金』と混ざって元来のココロからかえって遠ざかってる様子だぞ。
 『春宵』の方は『千金にも値するような、ひどく貴い時がある』という意味だろう?」
 吾らがフランクリンは言ったのさ。
一日の労働で一〇シリング稼げるところ、もし遊び呆けていたらその時の損害額は、遊びのお代だけではない。本来稼ぐことの出来た一〇シリング+遊びでの出費が全出費になるのだ。
 しかもその時刻に財産を有効に運用していれば得られたであろう金も捨てている。同時に人からの信用も無くす危険性がある。人は、必死に労働している人の言うことは信じるが、遊んでいる人のそれは信用しないから。借金取りは君を待たず、新たな蓄財のための手段も制限されることになるだろう。
 だから時を一瞬たりとも無駄にしてはならない。時と貨幣は同じものなのだ。時を捨てるということは金を捨てるということだ。そんなことを重ねれば、仮想の損害はふくらみ、未来に渡って取り返しがつかない額になるだろう。
 思慮浅き者はそのときになって悔やむだろう。
―――――なんという困窮だ。
あの時働いて、蓄財していればよかった!
「つまり彼は、時間は希少金属としての金(きん)のように貴いなんぞと言ったんじゃない。
 時間はカネになるから無駄にするなと言ったんだ。タイムイズマニー(時間は貨幣である)という語は結局、時給換算思考の真髄だよ」
「………」
「………」
「………」
 先生が言葉を切ると、なんともいえない厭さが書斎に漂った。勤め人はみんな、そんなことを聞いてるだけで目が虚ろになる。
「というわけだ」
足を洗った先生だけが、一人ご満悦で膝を叩いた。
「つべこべ言わずに働きたまえ、皆の衆」
「でえーーー」
 山口君が学生の頃のように、参ったという変な声を出して畳の上に突っ伏した。切腹した浅野の殿様みたいだった。




 帰りがけ、人の家の屋根で目をつぶり、満足している猫に会った。見上げる私は羨ましくって胃が焼けた。
 猫があれでいいならば、人だってあれでいいと思うのだが、既に所帯を持ち、子供が路地を走り回っているとなれば実際そうもいかなくなる。正に時は金なりを地で行って、明日も朝の九時から夕方の五時までのかけがえのない『人生』を、せっせと換金せねばならないわけだ…。
 やはり許されるなら私は来世、猫になりたい。
時折書生にぶちのめされても、時を持ち、貨幣を持たぬ猫になりたい。



小西 豊松(猫)




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