- 藪柑子漫談 -

(九) ピコピコ




 そろそろ風鈴の音も物悲しい季節になってきた。破れ靴閣下は庭に立ち枯れている鬼灯(ほおずき)を鉛筆で素描しながら、蜩の問い掛けるような鳴き声を耳の穴に聞いていた。
 藪柑子先生はさっきから猫博士と、体の調子について話し込んでいた。鉛筆の音しか立てない彼の後ろで、主人らの会話は本題を離れ、段々横滑りして行った。
「先生は自転車などはどうですか」
「向こうへいた頃、憂鬱ざましにと思って練習したりしたこともあったが…」
と、頬杖の手を変える。
「頼り無くって速度も出るし、全然好きじゃないねえ。この年になってまで、金物の上で脂汗流しながらフラフラする姿なんぞ人に見られたら恥ずかしいじゃないか」
「日本女子大などは体育の科目に自転車があるし、自転車部も持ってるそうですよ」
「女子が自転車習ってどうする? 嫁に行ったら袴なんぞ履かないだろう」
「その時は洋装するんじゃないですか。少なくとも女学生が自転車に乗るのはそのうち当たり前になるかもしれませんよ」
 ブフー、と盛大な息が先生の鼻から漏れた。目を丸くする博士の前で、
「気に入らんなあ」
「先生…。それは女性が自転車に跨るのがお気に召さないんですか。それとも若い人らが先生より上手に自転車に乗るのが癪に障るんですか」
「馬鹿を言うな、そんなわけがないだろう!」
「はいはい」
 猫博士はすぐ引っ込めたが、目にも口にも曖昧な笑みが浮かんでいる。
「日本式には日本式の良さがあるものなんだ。なんでもかんでも西洋かぶれがいいって訳じゃない。移動だって俥があれば十分だろう。
 大体新しいものってのは何でこう矢鱈滅多ら複雑なんだ? この小型電話からしてが…」
「その機種使いやすいでしょう」
「電話がかかってくるとピコピコ言いおってやかましくて適わん。庭に放り投げたくなる」
「それは音量を落とせばいいんですよ。それに音ももっと静かなものに…。見せて御覧なさい」
「もういいからもって帰れ」
「そう仰らないで。これはこれで便利なんですか…………、先生」
「何だ」
「何ですかこの待ち受け画面」
「何だとは何だ」
「だって猫ですよ」
「それがどうした」
「しかもおりぼんがついてます」



 ふと濡れ縁で絵を書いていた破れ靴閣下が顔を上げて二人を振り返る。
「お二人、今変なことしてませんでしたか」
 先生は無表情のまま空いたほうの手をひらひら振った。
「あー、してないしてない」
「気のせいだよ、破れ靴君」
 博士も小首を傾げて微笑する。その袂に何かがさっと飛び込んだような気がした。



(匿名)




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