- 藪柑子漫談 -

(十)微かなる傷




 猫博士が早く引けた学校帰り、藪柑子邸を訪ねると主は不在であった。大学の病院に月一の診察を受けに行っているのだという。
 では出直しましょう、とお辞儀する博士を夫人が留める。
「城山書店のミノオさんがいらっしゃって、さっきから書斎でずっと待ってらっしゃるの。私たちではお相手しきれないから、いて下さるとかえって助かるんです」
 通されてみると、確かに主のいない、昼に掃除されたばかりのさっぱりした書斎に若い箕尾氏が座っていた。涼しくなってきたのできちんとした洋装で、彼を見るや「ああこれはどうも」と快活に一礼する。
 彼は刊行予定の書籍について、二、三確かめたいことがあって来たのだという。三十分ほど待ってるかな、と懐中時計を取り出して笑った。
「これじゃまるで借金取りみたようですね」
「原稿を取りに来る時の君は、まさに米屋か酒屋だろう」
 すると箕尾氏は顔をしかめて掌を見せた。
「いや、そりゃひどい。なんにしても我々はもう少し高尚ですよ。原稿さえもらえりゃそれでいいなんて、そんな単純な了見じゃ済まされません。
 先生の小説は日本の新文学です。それをちゃんと分かってるから、しつこく催促にも来るんですよ。米屋や酒屋なんかとは、扱ってるものが違います」
「ああ、そう?」
 猫博士は逆らいもせず納得もせぬ様子で受けると、ゆっくりと出された茶に口をつけた。
 若い編集君は、前に藪柑子先生に「たらふく肉を食いそうな若者だ」と言われたことがある。柳に風で、何を考えているか分かりづらい博士のことが、前々から割に苦手な様子であった。
 しかし、今日の彼はしばらく考えるように間をおいた後、少し調子を変えて尋ねてきた。
「…つかぬ事をお伺いしますが、小西さん(猫博士の本名)は、先生といつ頃からのお付き合いですか」
「…私?」
 茶碗を両手で抱いたまま、博士は編集君の顔を見やる。
「私は先生が仙台二高の教師をなさってた時の生徒だよ」
「…そうですか。ではまだ、独身の頃の先生の事もご存知ですね」
「うん。ご結婚なさったのは僕が卒業した春だったと思うよ。その一年後に帝都へ戻ってらした。それからまた二年ほど英吉利へいらしてたから、ここでのお付き合いはもう、僕が学校を出た後のことだね」
「そうですか…」
 箕尾氏の目が半紙のように、空気に揺れながら下へ落ちた。正座した膝の上に拳を握って腕を突っ張っているから、双肩が背中から飛び出している。
 静かな書斎の中で、猫博士はややそれを見つめてから、何食わぬ口調で尋ねたが、
「――――どうかした?」
その声の裏には、一体この編集が何を聞きたがっているのか、既に勘付いてもいる様子もあった。





「…なるほど。では飲み薬をまたお出ししましょう。後は暴飲暴食を避け、心身ともに平穏を保つことですかな」
 万年筆の先でサラサラと紙を掻きながら医者は言った。
「検査の結果はまた追ってお知らせします。…先生の場合は何しろ病歴が長いですから、どうにも一朝一夕で治るという代物ではありません。僕をヤブだと思わずに、辛抱強く経過を見て下さるようにお願いしますよ。
 ――――さて、それで」
 ペンを置いて、医者は患者の方へ向き直った。診療は終わったはずであったが、寧ろこの先の方が本題だとでもいうように、懇切な表情で彼を捉える。
「幻聴のほうは、最近如何ですか」






「い、いえ。先生は本当に素晴らしい方です。生活もきちんとしてらっしゃるし、締め切りを破ることも無く、人に無体な要求をなさることも無い。大学を去った今でも尚、大勢の学生に信奉されているのはその高潔なお人柄ゆえでしょう。
 我々は本当に満足しています。先生のお世話が出来て嬉しいですし、その作品の誕生に関われることが出来て、誇りに思っています。これは全く本当のことなんです。
 …ただ、ほんの些細なことです。別段はっきりしたことがあるわけではないんですが…。寧ろ、僕ではなくて上司が、少し気にしているんです。
 最近の藪柑子先生の小説は…、些か不道徳とも思われる内容が少なくないのではないかと…。 前作『上野北』はともかく、『遠出』『追憶の霧』、それに今、新聞で連載中の『灯明』は、どれも男女の、その…不貞を扱った内容です」
「確かに『灯明』は他人の奥方を奪い取る話だね」
「え、ええ、そうです。それで…、上司が気にしているのは、先生の昔の噂なんでして…」
 微笑む猫博士の目が見開かれてぎょろりと箕尾氏を見た。





「そうですか。ほとんど無くなったならそれは良かった。では今は、周りの方のことは、大体普通に考えていらっしゃいますね? 後ヲツケラレテイルと思うことも、少なくなってきましたか?」





「い、いえ。その…」
「へええー。どんな噂なの? 先生の昔の? 昔の何?」
「いや、忘れてください! ただの下らない、根拠の無い噂話なので…」
「おかしいね。それを気にしてたのは君だろう? 教えてくれよ、どんな話?」
「いや! もういいんです。すみません。今のは…」
「変だなあ。どうしてそんなに遠慮するの? 言えないの?」
 ―――笑いながら、さんざんっぱら執拗にいじめたので、恐縮しまくった箕尾氏はやがて帰ってしまった。
 猫博士はゆっくりとお茶を飲み干すと、同じ様にのんびりした所作で立ち上がり、家の人に出直しの旨を伝えて玄関へ降りた。
 帽子を被り、引き戸を後ろ手に閉めると飛び石が待っている。
 にゃーと嘯いて、一つ目に飛び乗った。





 感情が昂ぶることもあるけれど、大体大丈夫です。昔に比べれば本当にましになりました。
 以前は飯びつの中にもいやないきものが入っているような気がしたし、夜寝ているとふすまの隙間からのぞかれている様な気がしました。道ですれ違う人は皆密偵に見えたし、みんなが、腹の中に、どす黒くて重い陰謀を抱えて、自分が背を向けたら途端ににやにや笑っているような気がしたものです。
 今はそれが、実体の無いものだったと分かる。それが何よりも、回復の証なのでしょう。
 ―――ただ、時折、指にいつの間にかこさえている細い切り傷のように、風が当たると痛むことがあります。
 ススキ野原で斬った傷のように、普段は忘れているけれど、水につけたときにはまるで、その縁が泣いてる様にか細く、高く痛むのです。
 そうですね。全く万事が、平穏無事というわけには参りません。






(箕尾君が聞いた『下らない、根拠の無い噂話』)
「知らないのかい? あの先生、昔人妻に横恋慕して一騒動起こしたことがあるらしいのさ。
 おいおい、落ち着きなよ…。古代の聖人じゃあるまいし、いくら学士様だって分かるもんか。気になるなら聞いてみたらどうだい?
 ともかく卒業後、高等師範学校なんてケッコウなところに教職を得ていたくせに、一年後突如それを放り出して都落ちしてのけたのは本当さ。噂の人妻と問題でも起こして東京にいられなくなったんだろうって、当時から噂はあったそうだぜ。
 だって見てみろよ、あの男の小説をさ。最近のやつはどれもこれも…、主人公が人妻と間違いをやるってそんな話ばかりじゃないか。
 実体験に基づいるんじゃないかって、思わないほうが無理があるぜ。
 どこの人妻か? ああそこまでは知らないねぇ。そうだ、あんたら付き合ううちに、もしそれらしいのがいたら、勿論記事には書かないからさ、俺にこっそり教えてくれよ」




(−)




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