- 藪柑子漫談 -
(十一)女二人
「このように文学とは、作者の熾烈なる感情が読者に肌に感じられるようなものでなくてはなりません。勿論何もかもを書けばよいと言う様なものではない。それではただの乱文です。 確かに娯楽として計算もせねばならない。数ある筆者の中には、建築家が設計図を書き上げるように筋の完璧な計画書を先に作っておいてから、執筆にかかる人も大勢います。確かに筋としての面白さが多ければばそれだけ人に受け容れられるわけですから、それをないがしろにしていいというものではない。 しかし感情がなければ、そしてそれが筋そのものとは別の魅力として存在しなければ、今の文学としては決定的に不足です。 紅葉先生や緑雨先生、天外先生――――、それは立派な先達ですが、果たして彼等の作品はこの先も残るでしょうか? 読まれるでしょうか? 今の文学は百年先にも残ります。私は確信しています。何故ならそこには、感情があって、それが百年先の読者の心臓と直に交流をするからなのです。 優れた作品は時の流れを越えるのです。西欧にはそのような優れた作品がたくさん残っています。 日本の文学は、まだまだこれからです。血潮と感情のある文学を作るのは、我々であり、皆さんでもあります。 私は皆さんにも是非、一生懸命がんばって頂きたい。新しい女性である皆さんの目から見た世界というものを、精魂を込めて文章にして頂きたい。それを読ませて頂きたい。 そしてもし、これぞと思う作品が出来上がったときには、どうぞ一声社にお持ちください。いつでも歓迎いたします」 拍手が湧き起こった。教室に三十人ばかり集まった女学生達は皆、「面白かったわねえ」とにこやかに顔を見合わせながら手を叩いた。 徳永は手ぬぐいを出して汗を拭うと、微笑みながら何度も礼をして演台を降りる。四十分ほどを立て続けに喋ったおかげでさすがに喉が疲れていた。 だが彼は満足だった。若い女学生達相手に話すのは初めてだったが、普段に増して言いたいことも言えた。反応もよかった。俺には多分、演説の才能があるぞと思うと韓非を得た始皇帝のように膝を叩いて喜びたかった。 腰を下ろした隣で、一声社の安本氏が和気藹々と閉会の挨拶を始める。観客が楽しんでいるので、彼もやりやすそうだ。 ようやく汗が引いて手拭を袂にしまった時、入り口側からさっとお茶が差し出された。湯気が立っていない。徳永は盆から、手、その手の持ち主へと視線を辿った。 「お疲れ様でした。温(ぬる)めにしてありますから、一口どうぞ」 二十歳前後の女性だった。女学生ではなさそうだ。そういえば打ち合わせの控え室で見た覚えがある。この講演を依頼した女子文芸会の世話役かなにかだろう。控え室では忙しそうにしていて、話す機会がなかった。 「どうも」 徳永はありがたく椀を取った。 「大変素晴らしいお話でした。先生のご熱意が伝わってまいりましたわ」 「そう言って頂けると苦が報われます…」 後半は尻切れになった。 女性は勝気そうな眉に、いかにも聡明そうな瞳を大きく光らしていた。どことなく世間知らずな印象を与える大勢の女学生とは違って、妙に人を惹きつける熱度のある眼差しだった。 「私はここの卒業生で檜原(ひのはら)千代子と申します。文章も少し致します。今度、感想を書いたお手紙を差し上げても失礼ではございませんか?」 思わず、盆を抱える彼女の手を見た。真っ白で真っ直ぐな手。何の生活苦も知らない階級の手だ。 そのひらひらする令嬢の手が、北の農村出身の自分に文を書くのだと思うと、瞬間何とも言われぬ波が、足元から脳天までを突き抜けていくのを感じた。 小菊坂の藪柑子先生の元には、それこそ老若男女から文が寄せられてくる。内容が面白いと見せられることもある。だが他人宛のそれと自分宛のそれでは恐ろしく触りが違うものだ。 徳永は震える手で盆に椀を返しながら言った。 「構いませんとも。いつでもどうぞ。女学生の方からは、よく頂きますよ」 「そうでしょうね。私達の周りには、女が家の用事以外の何かをすることについて、まだまだ理解者が少ないのです。先生のように新しいお考えをお持ちの方は貴重なのですわ」 その頃、また拍手が湧き起こった。長引いた安本氏の挨拶が終わったのである。 「あら大変」 と、千代子は笑って去った。それを見送る徳永の周りには、五分もしないうちに女学生の輪が出来上がる。 今度上野の森を散歩しませうだの、作品を読ませて頂きますだのと言った挨拶を越して探すと、彼女の周りにも数人の女学生が集まっていた。 ふと彼女がこちらを見た、と思うや顔を伏せたまま合図を送るようにちかりと笑った。曖昧に返す笑みの背後で徳永には、真っ白の灯りが瞬いて周囲が一瞬かすんだような気がした。
* * * その厄日、俺は「昭光」の原稿を取りに目白台の女子大学までやって来ていた。卒業生でここの教師に納まっている者があり、忙しいので取りに来てくれと言われたのである。 一種の嫌がらせであると思う。 「何も女の園に来るのにそんな渋い顔をして来なくてもいいだろう。君は何かい、女の学問には反対かい」 と、彼は原稿を渡した。 「大いにやって欲しい思うてますよ。じゃけど、ここの女学生さんは情が強くてどうも。わしのような田舎モンにはたいぎいですわ」 そんなわけで用が済んだ後は一直線に校門を目指していたが、三々五々学内に立っている女学生達の視線が痛かった。多分、俺のよれた学生帽や削れた下駄なんかのことを話しているのだろうと、行きにはここぞとばかり弱いところがヒリヒリしたものだ。 だが、元来の粗野なところが首をもたげてきて、帰りは幾分開き直っていた。やられてばかりいるのは嫌いだ。気を取り直してこちらからもじろりと眺めてやると、ふと、視線の端におかしなものが引っかかった。 移動する女子学生の団子である。授業か何かかと思ったが、その先頭の所に、どうにも見覚えのある人物が二人。 徳永と、一声社の主宰人安本だ。こんなところで何をしているのかという疑問以前に、その絵面の凄さに唖然としてしまった。 色の違いで目に付いたのだろう。安本氏が「おっ」とこちらへ挨拶代わりに手を上げた。それに気付いて徳永もこちらを見やる。遠くで口を開けている俺を見ると、気後れしながらも珍しく、笑った。 無言のままの俺や、他の女学生の視界の中を団子は冗談のように通り過ぎて行った。 一声社は昔からある二、三人の小さなグループである。文芸誌「路」を年に四回発行する。そういえば安本は最近女流作家に凝っているようだ、啓蒙の講演会でもやったのだろうか。 徳永もよく作品を寄せていて彼らは仲良しである。呼ばれて得意の演説でもぶったか? 「しかし、何だかんだ言うて、結構モテるねえ…」 本気で感心しながらまた歩き出すと、今度は目の前に別の人間が立ちはだかり、すぐと俺の足を止めた。 これは結髪に羽織袴の、完全な女学生だ。しかし第一声からして、どうも周囲と異なっていた。 「高田紅梅さんですね?! 私、深山甲西です!」 ―――――今日はどうも、奇怪なものばかり目にする日である。俺はいっそ途方に暮れた。 原稿を取りに来ただけなのに、白昼に突然遮られて「ミヤマコウサイ」などと名乗られても困る。 大体、誰だそれは。 そんな名前の知り合いは……。 「ん? …ミヤマ、コウサイ…?」 「ええ!」 と、相手は元気一杯で肯んじる。 「……あ」 深山、甲西。思い出した。確かに知らぬ名前でもない。去年あたりから、俺のところに再三手紙を寄越している人物である。文面があまりに懇切で熱心なので、一度ならず返事をしたこともある。 しかし、名前といい文体といい、頭から男だと決め込んでいた。この目の前の、えらく声の大きな女学生が、その甲西氏…? しかもこの「気位は目白台よりも高き」学校の学生?! 「え?! まさか!」 「はい! 私が深山甲西です! いつもペンネームでお便り差し上げてましたけど、覚えていて下さいました?! 今日は先生から高田さんが来るとお聞きしてずっと待ってたんですよ! 控えのお部屋から追いかけてきてしまいました!」 「………」 意外と懐が広いな、日本女子大学。やっと事態を飲み込みながら、俺は思わずそう考えていた。 しかし冷静になって来ると周囲の視線がますます痛い。そりゃそうだ。よりにもよって女学校の構内で男と女が立ち話は無い。 しかし、初めて会った甲西氏はそんなこと気にもせぬと言うように、 「お手紙でも申し上げましたけど、私、美術をやってるんです! 折角ですから絵を見ていって下さい!」 と来た。 「え? いや…」 さすがに恐縮して俺は辞退しようとしたが、「すぐですから! 学外ですから!」と押し切られて拉致されてしまった。 校門を並んで抜ける俺達の背中に、まだ堰を切らぬ女学生達の好奇心が焼け付くように感じられて、後のちのことが恐ろしかった。 道すがら独語したところによると、彼女は学校では家政科だが昔から絵が大好きなので、個人的に美術の勉強をしているのだと言う。学校から徒歩十分ほどの場所に『西洋絵画研究室』と看板を掲げた西洋風の家屋があり、彼女はそこに俺を招き入れた。 その頃には生まれ育ちが顔を出して…、というよりもはや自棄の域に達していて、俺は恥らうのを放棄していた。 しかし、えらく美顔な男と女がえらく芝居がかったポーズで描かれている大きなキャンバスの前に立たされたときには、人間としてやっぱり固まった。 「…なんですかこりゃ」 「高田さんの小説の主人公の杉山一郎と、ヒロインの満枝です!」 「………」 「いいでしょう? それ、私すごく自分でも気に入ってるんですよ。別のもあって、それは小説の中の二人で海岸縁を歩く場面の絵です! それで今描いてるのは、新作の主人公光山亨が…」 とんでもないのと知り合いになってしまった。 普段の粗野を取り戻して頭を掻きつつ、俺は思った。 高田梅太郎(紅梅) |
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