- 藪柑子漫談 -
(十二) 誰もいない
木之井子と日本橋の三越へ出かけた。伊東の結城女史が先頃親切に書と食べ物を送って下さったから、お返しを探しに行ったのである。 別段妻(さい)に頼んでもいいのだが、女史は一般の女性とは少し違っているし、その好みを私はよく知ってるから、くどくど説明して間接的に買ってこさせた結果、やっぱりいいもので無かったりすると余計に面倒なのだ。 木之井子が居合わせたのは偶然である。一人で出かけようと昼の小菊坂を下ったところでばったり顔を合わせたのだ。彼はじゃあ先生のいない処へお邪魔してもしょうがありませんからお付き合いしましょうと言い、それで我々は連れ立った。 他の者がどう言うかは知らぬが、彼は存外人懐こい青年である。それに学生にしては普段から恰好がしっかりしているから、連れて歩いて困るということも無い。こういう青年を息子に持った親は、さぞかし鼻が高かろうと道すがら私は考えた。 三越はまあまあの人であった。金曜の昼であるからそれほど盛んでもないが、多種の商品を取り扱う店だから来客が絶えぬのだろう。 ひどく着飾った、けれどたくさんの荷物を抱えた田舎風な一家が過ぎた。木之井子は、 「写真でしょうね」 と穏やかに言う。 結城女史へのお返しは手袋にした。 「よくサイズをご存知ですね」 と、冷やかすでもなく木之井子が呟く。 「種があるのさ。俺の学友で女史に随分熱を上げてたのがいてな、仏語教師のお嬢さんだったから洋装が多くて、それで手袋を贈るってことになったんだが、何しろサイズが知れない。しかしそいつは元気が足りなくてとても面と向かっては聞けない、というから、俺が代わりに聞きに行った」 「教えてくれました?」 「留守だったから家人に聞いた。最初からそうすればよかったんだ。みんな揃って莫迦だったから気付かなかった」 木之井子は困ったように笑って、 「そのご学友はその後どうしたんです?」 「めでたく彼女を娶ったよ。今は伊東で医者をやってるはずだ。前はこっちで開業してたんだが、数年前に故郷へ引き上げてね」 「よかったですね」 「ん?」 「うまくいって」 「そうだな…。結城の家も豊かだったからな。家柄が釣り合ったのがよかったんだろう」 店員に自宅の住所を教えて、さて茶でも飲むかという次第になったが、人が多くて煩わしいので家の近くまで戻ることにした。 連れだって一階入り口のところまで降りてくると、丁度今エントランスを抜けて来たばかりの家族連れがふと我々を見て、一気に楽しさを忘れ、妙な顔をした。 曲がり角でひどく不快なものにぶち当たりでもしたような表情であった。私は、言葉にならぬ数瞬の内に、彼らは我々ではなく、正確には木之井子を見て、狼狽しているのだということに気付いた。 だが木之井子の方は普段と変わらず澄ましていた。 いつもと同じ様に涼しげな目元で、前方の二人の親と黙って抱かれている四歳ばかりの女の子を眺め、そのまま調子を変えることなく、脇を通って往来へ出た。 背後で彼等が未だに戸惑ったような、困ったようなばつの悪い思いをしていることが感じられた。 「知り合いかい」 尋ねると前を向いたまま彼は言う。 「ええ。両親です」 思わず私は振り向きそうになった。すると木之井子はようやく苦笑を浮かべて説明した。 「とは言っても、父と継母と異母妹なのですが。生母は僕が子供の頃に自殺していまして」 その横顔は女のように白かった。 大概の家庭には二、三の秘密があるものである。私の生まれた家も何かとごちゃごちゃしていたし、妻が長女を妊娠中、ヒステリーを起こして川へ入ろうとしたことだって当の長女からすれば立派に秘密の一つかも知れない。 徳永子からも上京当時、深刻な家庭内の疑惑について長い相談を受けたことがあった。意外にどこの家にも、そんな欠片は転がっているものであろう。 ただ、木之井子は鳴かないのであった。 見目はいいけれどスンとも鳴かない小鳥のような男なのであった。 彼も時々文章を書くけれど、それを題材にしたものは一本としてない。 別の日、書斎で本を読む木之井子をスケッチしていた破れ靴画伯がふいに手を止め、前を見ながらぼそりと独語した。 「木之井君の周りには誰もいないなあ」 藪柑子記
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