- 藪柑子漫談 -

(十三)西からの手紙




・内容を額面どおり受け取ってはいけない




「チチキトクスグカエレ」

 思えばそんな簡単な手に引っかかった俺も莫迦ではあったが、舟入の実家へ駈け付けてみれば当の父は江波に釣りに出ているというし、妹はピアノを弾いてるし、家のどこにも重病人を出している気配はなく、「やられた」という言葉が湧き上がってきて代わりにたたきに荷物を落とした。
「まあそう白うなるなや」
 俺はどうやら怒りを通り越して白くなっていたらしいのである。それはそうだろう。東京からここまで移動にどれくらいかかるか考えて頂きたい。電報を受け取った日から丸三日、締め切りも含めた全ての用事を放り出して、緊張しっぱなしでここまで急いて来たのである。しかも藪柑子先生に金まで借りて。
 徒労感で灰になりそうである。座敷で両腕突っ張って白くなるくらい許容されるべきだ。
「…で?」
「ん?」
 三白眼で目の前に座る兄を見据えると、家を継いで商売をやっている彼は悪びれるでもなくさっぱりと言った。
「縁談よ」
「………」
 そんな下らん用事で人を騙しやがってお前ら地獄にでも落ちろ。と、顔に書いてあったのだろう。兄は下唇を突き出すようにして、文句らしいことを言った。
「お前が盆暮れの挨拶にも帰ってこんけえ、こがいなことになるんじゃ。母さんから何度も何度も『ちょっとでええけえ帰ってきんさい』ゆうて手紙が行っとるじゃろうが。
 お前がいいや帰らん言うたびに母さんがどがいにがっかりしなさるか。ええ年して孝行のひとつも弁えんと遊び呆けてから…。罰が当たるで」
 木槌で頭を叩かれて、体が畳にめり込んだような気がした。俺は妹とは二つしか離れていないが、この兄とは六つも離れている。昔から、親代わりのこの長兄には、勉強でもその他でも勝てた試しがまるでなかった。
 しかしたとえ兄の言うことがもっともだとしても、だからといってニセ電報を寄越して他人を騙してもいいものだろうか。まだらな思いで俯いていると、兄がその視界の中に写真を滑り込ましてきた。
 言わずもがな、相手の女性の写真なのである。
「宇田静(しず)さんじゃ。仁方の造り酒屋の三女さんで、今年二〇歳になる。母さんの親戚の根本のおばさんがおってじゃろう。そのまた親戚筋に当たるお家で…」
 兄の説明は果てしなく続いた。宇田家は先の選挙の時には親父の同級生に当たる○○を助けて云々、さらに家の取引先の銀行の頭取とも知り合いで云々。混み合いすぎて途中から訳が分からなくなったが、とにかく狭い世界の中で幾重にも縁の繋がった家であり、これ以上理にかなった嫁さんはない、というのが兄の意見であった。
 その上、その紹介が一段落すると、疲労して目がぐるぐるしている俺に向かって今度は優しく諭すように言うのである。
「まあ梅、楽に考えりゃあええんじゃ。わしらもお前を今すぐに結婚させようなんて思うとりゃせん。お前はまだ学生じゃし、先のことよ。
 わしも見合いじゃったけえの、お前のたいぎさはよう分かる。じゃがそんなに気張らんでええんじゃ。お前はまあぼんやり静さんに会うてみて、ぼんやりこういう女性と知り合いになったのう、思うて、また東京へ帰ったらええ。
 わしらはお前が卒業して、よいよ嫁を探さんとならんようになった時、候補の一人として静さんもおったらええな、思うとるだけじゃ。なにも会うたら必ず結婚せんにゃいけんいうわけじゃあないんじゃけ。
 もしそんなんならわし、他に三人もカミさんがおらんにゃならん。ワッハッハ」
 この、奈良の大仏野郎。
と、自分にも意味の分からない語彙がえらく遠くで湧いて出たが、脳は真っ白のままだった。というよりも、緊張が解けて困憊しているところを一気呵成に攻め立てられて、もはやまともに考えられなくなっているのだ。
 俺は未だに呆然と相手の写真を見ていたが、もはや焦点はずれていて、頭の中はちょっと横になりたいんですけど、という思いでいっぱいだった。
 それでもふうとかへえとか曖昧な返事をして、やっとのことその場は逃げたのだが、床を敷いてもらって一眠りしている間に、兄は勝手に先方に「応」の返事をして、見合いの日取りを決めてしまった。
 要は、俺は決してここへ戻って来てはならなかったわけである。全くもって家族というのは何といったらいいか…、時には正真の敵よりも汚くて狡猾な連中である。
 ところで、俺は「昭光」の原稿をほっぽりだして来ていた。今月の編集長、木之井に直接断る暇はなくて伝言のみを頼んできた。
 先生らから俺が父の急病で帰省したことは聞くと思うが、穴をあけるからには、やはり一筆必要だと思った。
 しかし、にこにこ笑いながら怒っている彼の表情を思い浮かべるとどうにも恐ろしくて、震えながら書いた葉書は次のようなものだった。
「父の病篤く今しばらく郷里を離れられぬ情勢なり。誠に誠に申し訳なき次第なれど、今期『昭光』の原稿は難しく、木之井子にはご迷惑この上ないけれども、事情が事情故、何卒ご了承頂きたく…(紅梅)」
 それから、自分が兄達と同じ手を使っていることに思い至って、文机の前で頭を抱えた。




+




「全く君の言うとおりだ。僕たちはあまりにも俗悪な世界に生まれ、ものの道理も知らぬ連中によって常に魂の危機にさらされている。
 僕は昔、本当に家族のことで死ぬほど悩んだことがあった…。長くなるから簡単にしか書かないが、僕は実は母の子ではなく、父が侍女に産ませた子供ではないかと思うのだ。疑るに足る証拠は幾つでもあり、僕は十の頃から自分でそれに気付き、以来人知れず悩んできた。
 十七のときだったが、恨みと憎しみで心が一杯になって、ある日もう死ぬつもりで深夜の海へ行った。
 君は夜の海がどのようなものか知っているだろうか。骨を動かす轟々たる潮騒と、人っ子一人いない孤独の暗闇に、僕は立った。
 サア死のう。今死のう。この無意味な人生を終わりにしよう。考えながら海を眺めていると、その時、僕に奇跡が起きたのだよ。
 この暗闇、この潮の香、この沈黙。僕はそのとき、ああここは母の体の中だと思ったのだ。止め処もなく涙が溢れてきて、僕は今、自然によって再び生み出されたい、と願った。すると突如ピカリとまぶしい光が瞬いて、一瞬辺りを照らし出した。
 あれが何なのか、はっきりとは知らない。だが僕は、そのために今も生きている。人間の子として不完全な僕はその時再度生み出され、ようやく認められたのだ…」
 木之井が藪柑子邸で分厚い辞書を開くと、一枚の書きかけの紙が出てきた。読むとはなしに読み終わった頃、どたどたと慌てたなりで徳永が書斎に現われた。
「ごめん、木之井君。さっき貸した辞書だけど…」
と、彼が紙片を手にしているのを見ると、額を押さえて体を揺らした。
「アアッ、読まれちまったか。恥ずかしいなあ…」
「誰にも言わないよ」
 木之井は微笑して彼に紙を返す。徳永はしばらくふうふう言って不手際の弁明をしていたが、木之井が逆らわないでいると今度は手紙を宛てた女性についての話を始めた。
「ものすごく頭の鋭い女性でね…、もう二月ほど手紙をやり取りしてるんだが、面白いんだよ。
 だが、これは紅梅君や先生にも内緒だよ、木之井君。君には偶然手紙を読まれてしまったから話すんだけれど」
 徳永は指を立てて釘を刺した。
「何しろ、いいところのお嬢さんだからね、少しでも噂になると困るんだ。
 しかし千代子はただのお嬢じゃない。成績優秀で詩も書けば文章も書く、庭球もやれば禅も組むといった塩梅なんだ。文も一回にものすごい量を書いてくる…。中々すごいだろう?」
 ふいに、黙って聞いていた木之井が顎を上げた。
「今、なんて?」
「すごいだろうって」
「いや、相手のお嬢さんの名前。…『千代子』?」
「そうだよ」
「………」
 その後、多分徳永はその手紙を千代子に出したのだろう。じきに返事も見せられるかもしれない。
 帰宅すると西から葉書が届いていた。紅梅からで、父の重病のため今月の『昭光』の原稿を落とすとある。
 どいつもこいつも作り話ばかりだな。
心中で呟き、しんとした家へ入った。




+




 六日後、俺は小さな料亭で見合いをした。
陥れられてそこへ行ったのだから、当然気は進まなかった。小さな甥っ子の面倒を見ながら、昨日まで散々逆らったのだが、兄も嫂も父も母も「今更取りやめにしたら先方に大変な失礼だから、会うだけでも会っていらっしゃい」というばかりで全く一丸もいいところだ。
 ほとんど手縄を引かれる罪人のような有様で料亭へ着いた。今一度兄から、様々なご縁のあるお家が相手だから、くれぐれも粗相はしないようにと言われ、始まる前から面倒でたまらない。
 確かにいつか嫁は貰わねばならないのだろう。俺は自分がそんなに破天荒な一生を送るような気はしない。
 しかし、それでも相手は出来れば何の縁もゆかりもないような家から貰いたい。最初から縁故でがんじがらめになったような家の娘と結婚して、自ら地方的な閉じられた関係性の中へ入るのは遠慮である。
 しかし兄達にしてみれば、寧ろそちらの方が正しく賢い選択ということになる。「梅ちゃん、小説なんて不確かなお仕事するつもりなら、尚更ちゃんとしたお嫁さんが必要よ」とのたまったのは嫂だ。
 そういわれるとぐうの音も出ないが、大体彼らは「女の一生」も「不如帰」も「人形の家」も目にしていない。なまっちろい文学青年である俺の感慨が通用などしないのも道理ではあった。
 とにかく、平穏に切り上げて早く帰ってしまおう。せいぜい二時間か三時間だ。大黒教授に捕まったと思って乗り切ろう。
 床の間の前でごにょごにょと考えていると、廊下に通じる硝子戸が開いて、先方が現われた。
「どうもお待たせいたしまして」
と、丁寧な家族に続いて本人が現われる。
 ところがそれが、青白い写真の顔と違ってひどく健康的で、いかにも初々しく頬を紅潮さした可憐な美女だったので、俺は全身の力を抜かれてしまった。
 やべえどうしよう。
と、三秒前の自分に対し申し訳程度に考えつつ、俺はぼーっと相手の顔ばかり見ていた。




+




 手紙の届いたのは、丁度藪柑子邸に猫博士、編集箕尾氏、破れ靴閣下のいる時だった。小女が恥ずかしそうに入って来て、「今しがた着きました」と封書を置いて下がった。
 先生は宛名を見てちらりと表情を曇らせると、その場で封を切った。博士は遠慮して残りのものを会話に巻き込もうとしたが、城山書店の箕尾氏の両目は先生の手元へ釘付けになっている。
 封書の字が明らかに女性の手になる細い線であったからで、さらに遠目に「結城」の名が見えたからだ。
 結城女史は、先生の旧くからの知り合いで、一部の事情通からは「遠出」の女主人公のモデルであろうなどと言われていた。どうでも親しい間柄なのは事実であった。
 箕尾の心配げな眼差しが、注意深く手紙を読む先生の反応を伺っている。それをまた猫博士が一瞥も呉れずに観察している。閣下は黙って絵を描いている。
 やがて、かさりと音を立てて手紙が畳まれた。そして再び封筒の中へ仕舞われる。
 それを机の上に放ると、先生はなんだか億劫そうな顔をして、肘掛を引き寄せ、肘を突いた。
「結城さんが実家に戻ってるそうだ」
「家出ですか」
と、猫博士。
「そうだな。なんだかえらく興奮している様子だ。実家に入っても気が収まらないから文してきたんだろう」
「ご実家は大森でしたか」
「うん…」
 曖昧な返事をして、先生は眠たげに目を閉じた。だが、頭の中は手紙の内容で一杯になっているのだろうと当たり前に箕尾氏は考えた。
 封書の中で膨らんでいるただ二、三枚の紙きれが、彼の懸念を煽ってぞくぞくと不安にさせる。そんな気も知らないで、やがて先生はぼそりと、
「会いに行いと言うから、ちょっと顔を見に行くかな」
と言った。








・読めない手紙は秘密を内包する







高田梅太郎(紅梅)





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