- 藪柑子漫談 -

(十四) 東からの手紙




 先生は手紙を受け取って二日後、大森に出かけた。結城夫人の実家はきちんとしたお家だったから、先生も外出着に鳶を羽織ってステッキを突いていた。
 目黒駅を出て、俥を捕まえようと歩いていたところ、突然箕尾君に呼び止められたのである。
「偶然ですね、先生」
 と、彼は言った。
「親類が目黒におりまして、今日は挨拶に来てたんですよ。先生は」
笑みを崩さぬまま聞く。
「結城女史をご訪問ですか?」
「そうだよ」
「そうですか、いやあ。本当に偶然ですね。
 そういえば結城女史は『遠出』の主人公のモデルとか…。丁度いい機会なので、僕も一緒に連れて行って頂けませんか。まだお会いしたことがないんですよ」
 先生は帽子の下から相手を静かに見つめて断った。
「いや、悪いが今日は遠慮してくれ」
 私はその場を見てはいないが、定めし、箕尾君は凝固したことだろう。
「遊びに行くのではないし、初対面の者がいては、女史も言いたいことが言い得ないかもしれないからね」
 俥に乗って去る先生を、箕尾君は唇をひん曲げて見送った。



+



 紅梅が落とした原稿分を補填して無事最新版の『昭光』が印刷所へ渡った頃、家族の出払った木之井家に夜の客が現われた。
 泣きの涙の徳永である。
「モウ終わりだ。絶望だ」
 がくりとたたきに膝を着き、三十男の肩を震わす。右手には手紙と思しき紙が握りつぶされていた。
 見下ろす木之井の背後で、留守番の下女が目を鋭くしているのが感じられた。
「徳永君、悪いが外へ出よう」
 木之井は外套を羽織って、玄関に座り込んだままの徳永の腕を引っ張り上げ、家を出た。客のほうは自分の事情に手一杯だ。何度も鼻を啜りながら、体躯を彼に預けるようにしてよたよたと歩く。
 青年は何も言いはしなかった。ただ冷え込んだ秋の夜に、薄い溜息がこっそりと放たれる。空には白い氷のような月が浮かんでいた。
「千代子に縁談が来たんだ」
 酒場で麦酒を飲み干すとようやく徳永のぶよぶよした顔に赤みがさす。そして、机の上で潰れていた紙を、読んでくれとばかりに拳で前に転がした。
 木之井は手を伸ばして拾うと、ゆっくりと皺を伸ばし、文面に目を当てた。恐ろしいほど整った清潔感のある筆だった。確かに縁談が来たとある。しかも親がかなり乗り気らしい。
 ただ、最後まで読み通して木之井は、凡てをそのまま受け取ることは出来ないと思った。
 この書き手は酔っている。このように硬質な文字が並んでいると信じ難いが、言っていることがどこか草子めいている。
 しかも旧来の草子ではない。ぺかぺか光るメダルのような、銀座を走る自転車のような、最新型のお伽草子だ。
 かれらは恋文をやり取りしているはずだのに、中には『人類の未来』だの、『魂魄の真髄』だの『本能の解放』だのと言った語彙が同居している。
 木之井は不純だと思った。しかし丁寧に畳んで彼の前へ返した。他人事である。
「千代子も絶望している。このまま生活の狡猾な手にさらわれて自分が分からなくなるよりも、いっそ死んで自分を貫きたいと…」
 言っているうちに再び嗚咽がこみ上げてきた。徳永は、机に突っ伏し、拳で瓶の隣を叩いた。
「畜生、畜生…!」
 嘆きの夜は長く続いた。木之井は店を出て、徳永の下宿まで送っていこうとしたが、当の本人がひどく酔っ払って、十とまともに歩けない。
「終わりだ、終わりだ…!」
 と、徳永は橋の欄干を上から抱きかかえながらまた吐いた。ぽつぽつと涙が川へ落ちて行った。
 木之井は黙って横に立っていた。彼が喚くのを止めると、引き剥がして再び歩かせる。五分も立たないうちに徳永はふらふらになって或いは地面に倒れてしまう。そうすると木之井はただそれを立たせる。
 そんなことを延々と続け、延々と星は瞬いていた。結局下宿の近くになって警察に声を掛けられ、体の大きなその巡査が親切にも徳永を負って連れて行ってくれた。多分、荷物よりも遥かに細く遥かに大人しそうな木之井が苦役に服しているようで、気の毒に見えたのだろう。
 しかし飽くまでその時目を回していたのは徳永であって、木之井ではなかった。彼は、徳永が何度も放り出した手紙を、都度彼の懐に入れ直していたが、別れ際にも一層しっかりと奥へ挿した。
 独りになって、衣服の乱れを整えると、彼はもう元の通りの彼になっていた。夜の道を、あっさりした顔で、家へ向かって歩き始めた。



+



『いやだこと、大したことないの。ちょっと頭に来て飛び出してきただけなのよ。いつもの癇癪なの。気にしないで』
 同じ夜半、先生は書斎の文机に頬杖を着いて座っていた。目を閉じて、眠るような顔で、昼の会見を反芻していた。
『深刻じゃないの。ほんの里帰りよ。そりゃあ、お手紙ではちょっと派手に書いてしまったけれど…。文って、ほら何だか大袈裟になることがあるでしょう』
 また、行かなければならないな。と口元だけが呟いた。すると中空に不安げな箕尾の顔が浮かび出た。
 文箱の蓋を取り上げて、ふと手が止まる。重なった紙の位置が乱れていた。一番上に置いてあった結城夫人からの手紙を、誰かが読んだらしかった。


(・他人が読むと面倒である)



+



 そんなことが東で起きていた頃、西の紅梅は悩んでいた。抜け目なく好反応を見て取った兄が彼に、「どうするんな? もしお前がそうしてくれいうなら、卒業後に貰いたい、いうて先方に伝えるが?」と持ちかけたからである。
 全く話は「試しに会ってみる」だけでは済まないように出来ているのだ。
「分かるじゃろうが? あんだけのお嬢さんじゃ、他にもお声がようけかかっちょる。中には熱心な人もおってじゃろうよ。
 もしお前がその気なら、先に言うとかんと先方も困ってで。一応、言うだけわしから言うとくか?」
 それはつまり、卒業後は必ず結婚するものとして予約をかけておくという意味だ。だが予約されるのは娘の未来だけではない。紅梅の未来にも制約が生じる、ということでもあった。
 相手の娘をちょっと気に入ってしまったものの、さすがにすぐと返答はし兼ねた。大体縁故でがんじがらめな家が相手である。一時の気分で判断しては最後に後悔することになるかもしれぬ。
 だが一方で手をこまねいている間に、どこかの誰かが彼女を嫁にするかもしれないと思うとそれも残念であった。
「何を迷いよるんじゃ。東にだれぞ約束した人でもおるんじゃないじゃろうの。正直に言えや」
「いや、そんなんはおらん…」
「じゃあはっきりせえや。なんじゃ、梅。お前、意外に男らしゅうないのう」
「うーーーん…」
 ところで、何も選ぶのは紅梅の側だけではない。大事な末娘を嫁がせるとあって、宇田家の方も相手を慎重に選んでいた。
 殊に向こうから求められたのは、『浮気・遊びをせぬこと』である。何でもこれには静の姉の苦労があるらしい。
 姉は神戸の実業家と結婚したが、その男が非常に遊び好きで、最低でも週に二度は酒と白粉の香を身にまとって帰る。それだけなら或いは男の甲斐性として、それだから事業もうまくいくのだ、などと誤魔化すことも出来ただろうが、悪いことに姉は人には言われぬ病気を夫づてに移されてしまった。
 それで健康までを著しく害し、生活に困りはしないけれどもひどく不幸せなのだそうだ。
 見合いの席上でも、静はそう聞けと言われたか、
「文士の方はよく、芸のためと仰って遊ばれるそうですが、梅太郎様も、お遊びはお好きでいらっしゃいますか?」
と尋ねてきた。
「いえ。自分は女性と交際したこともありません」
 紅梅が正直に答えると、静は嬉しそうに、可憐に微笑んだのである。自由とか孤高とかいう語が腰砕けになる愛らしさだった。
 そのように、お調子者の紅梅は親兄弟の敷いた罠にまんまとはまって四、五日もの間唸っていたのだったが、思いがけず届いた東からの手紙が、一気に事態を急変させた。
「梅!! お前、なんじゃこりゃあ!!」
 昼下がり、駆け込んできたのは兄である。怒りで顔を真っ赤にしている。
「は?」
と、驚く目の前に葉書が投げ出された。その裏書を読んだ時には、紅梅だって、我の事ながら爆発しそうになった。


『突然帰省とのお報せに心から驚愕いたし候。誌上にもお名前無く けふは生涯で最も悲しい日にて候。終日涙に暮れ何事も手につかぬ有様なり。どうか遂に熱き告白と接吻とを果たした二人の恋物語を中途にうち捨てることだけはなさらぬ様 寸刻も早い帰京を切に切にお願い申し上げ候。
紅梅様      汝が奴隷にして妹なる深山美津枝』



(・破れる)
(・踏める)
(・食える)



 茶を飲んでいたら吹いただろう。茶は近くになかったので代わりに頭から魂が抜けた。
「お前、一体何じゃこれは?! こがいなこと、わしゃあ一切聞いとらんぞ!! 一体この女はお前のなんなあ?!」
 深山甲西(美津枝)は自分の読者である。彼女は自分が今回の『昭光』で連載小説の続きを載せなかったことを悲しんでいて、何も手につかないらしい。接吻したのは小説の中の二人であって、決して自分と深山ではない。早く帰れ、というのは会いたいという意ではなくて、早く帰って続きを書け、ということなのだ。
 ましてや末尾の奴隷とか妹とか言うのは、何のことだか分からない。いや、「いもうと」という字は「いも」とも読めてしまって一層よろしくないけれど、違うって。大体、なんで今日に限って本名で手紙寄越してやがるか、この女は!!
(誰が彼女に住所を教えたのだろう。木之井辺りだと紅梅は思った。)
「お前! こんとな不埒なことして赦される思うとんか! わしゃあお前のことを信頼できる弟じゃ思うたけえ、東京へもやったし、苦労して縁談もまとめよう思うとったのに…!
 なんつう始末じゃ、情けない!! ようもわしらを騙そうなんぞと考えよったのう…。わしゃあもう、宇田のご一家に顔向けが出来んわいや!!」
「いえその。待ってください」
「こんな手紙来てから、まだ誤魔化せる思うとんか?! 大体が学生の身分で、向こうの親に対しても恥ずかしい思わんのか!
 暮にも帰ってこん思うたら…、お前、東京で何をしよるんな?! わしゃあはあ、お前なんぞ知らん!!」
「………」
 一体、目に見えるものだけを商いして生きている兄とその周辺に、この女の生きている特異な領域をどう説明したらいいのかと紅梅は途方に暮れた。一番話を聞いてくれそうな嫂にしても、真実を話したとして信頼してくれるだろうか。
 いや、無理だろう。自分だって実際に見るまでは信じられなかった。小説の登場人物たちの恋路を想像してあれこれと楽しむことが、現実に生きることよりも大事であるという女なんて。
 そして、じき紅梅は、彼の周囲を説得して誤解を解いてもらうことよりも、甲西の口を封じることのほうが先だと思うに至る。
 その最初の葉書が着いてから後、一日おきに、似たような哀訴の手紙が続々と続いたからである。しかも文面ときたら「いつ二人は結ばれるの? いつまで待たせるの?」というような、火に油を注ぐような内容だった。
 葉書が四通を数えた頃、紅梅は鬼の形相で荷物をまとめ、東行きの列車に飛び乗った。




(猫)




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