- 藪柑子漫談 -

(十五)過去からの手紙





 三日の間をおいて、再び大森へ出かけた。
小女が帽子とステッキを持って玄関で待つ。妻は頭が痛いといって今朝から寝ている。
 草履を履いて、杖を受け取ろうとした時、小女が「まあお嬢さん、どうなさいました」と言った。
 顔を上げると、硝子戸のところに長女が立っていた。部屋で遊んでいるとばかり思っていたが、いつしか庭に出て、表へ回ってきたらしい。
「お父様はお出かけですよ」
 つまらない一語の中で、父と娘は見合った。娘の眉間には皺が寄り、唇はくっと歪んでいる。小さな心は弥増す不安に硬くなり、何か合図でもあればすぐにも砕けそうに思われた。
 お前だったのか。悟りながら立つと、娘の頭を撫ぜて、こう言った。
「何も心配することはないんだよ」
 門を開いて出て行く彼を、娘と、後ろから軽く彼女を抱いた小女が見送った。
 彼は何も、家族が嫌いだというわけではない。そんなことはどこにも書いた覚えが無い。妻にしても、悪妻などと呼ぶ者もいるが、憎んでなどいない。
ただ、間が悪いだけだ。
 さっきもそう。自分が小説を書いた時には大事にするような一場面に、彼女はいない。いたほうがいい時に必ずどちらかがその場にいない。
 原因は両人のためだったり、片方のためだったり、運のためだったり、色々だが、そのように彼と彼の妻とは、運命を共にしていながら、どうにも呼吸の合わない生まれつきの間柄なのだった。



 さて、今回は城山書店のうるさい編集にも会わずに無事結城女史の家へ着いた。女史の実家は菅野という。他に兄が二人いるが、勤めがあるため東京市内にそれぞれ家を構えており、ここには年老いた両親と世話役の親類が幾人か暮らしていた。
 応接間に通されると、女史はピアノを弾いていた。知識が無いから誰のなんという曲かは知らないが、軽やかで明るい曲だった。
 それが昼の明るい光の下では馬鹿に虚しく聞こえた。多分古い欧州で生まれた曲なのだろうが、絹に身を包んだ貴族達もやっぱりこの曲を聞きながら絶望していたのではないかとちらりと思った。
 昼がこの調べと共に永遠に続くかのように感じられて喉元が苦しかった。彼は思い出のあるこの洋風な家屋敷が好きだった。明るい曲も、穏やかな午後の陽射しも好ましかった。繊細でさっぱりした性格の女史には情を感じていたし、縁もある。
 だが、それらが全て揃ってしまうとふいに閉じ込められるような息苦しさを覚えるのだ。原理は分からない。ただ、もしこのまま一時間、同じ状態が続いたら、もはや自分はこの椅子から立てなくなり、女史も演奏を止められなくなり、時計の針は止まり、全てが連続するのではないかという気がする。
 それは写真であり、永遠であり、死である。針で中空に留められる、エメラルドのごとき羽根の、乾いた昆虫標本である。
 考えた時、曲が止まった。女史も危険を感じていたのだろう。止めたくは無いが、さりとて続けることも出来ない、といった難しい表情で振り向いた。
「おかしいわ」
 静まり返った応接間の中に、彼女の声は恐ろしく大きく聞こえた。夢の中のようだった。
「いつから、こうなったのかしら」
膝の上で、自分の両手を重ねる。
「何もかもが、私を自由にしないの。夫も、家族も、音楽も、自然も、夜も、昼も、何もかもが、循環を始めて、私を、その中に閉じ込めている」
 ぽつりと涙が手の上に落ちた。女史はいつでもそうだが――――、哀しいという表情はまるでないまま、泣いていた。
「その堂々巡りの中で、私だけが老いていく。…おかしいわ。昔はこんなことはなかった。昔はこうじゃなかった。いつからこんなことが始まったのかしら。
 私怖かった。何を見ても気が滅入って、恐ろしくてしょうがなかったの。でも結城には私がどんどん落ちて行く理由が、分からない。
 …ご存知でしょ、彼は医者だし、目に見えるものだけが全てなの。何が不満だ、としか聞けないわ。私にはその問に答えられないし。口争いが続いて…」
 女史は微笑んで、彼を見た。
「ねえ、あなたみたいな方でもそう?」
「それはそうですよ」
 静かに答える。出掛けに見た長女の、不安な二つの眼を思い出しながら。
「かつて僕達が過ごしたような時間は、今では今の若い人たちの持ち物になって、彼らと幸福にやっているんです」
「…でもあなた」
女史は笑いかけ、失敗した。
「私たちには、子供がないのよ」
 歪んだ顔を、両手の中に埋める。今度は嗚咽が漏れた。今度は肩が震えた。彼女は本気で泣いていた。
 それを見て胸を痛めながら、彼は固まっていた時計の針がほんの少し先へ動いたのを感じた。
 それは、かつて時が血流のように怒涛を打って流れていた頃には、こだわりもしなかったであろうほど僅かな動きだ。
 だが、我々はそれで足れりと胸に抱いて、やっぱり彼女の言う「循環」の中へ、じきに戻っていかねばならないだろう。
 彼が友人結城の為に、彼女の手袋のサイズを聞きにきた。そんな眩しい昼間は今、若い人たちのものなのだ。



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 列車は不便な乗り物である。何しろ時間がかかりすぎる。郷里で飛び乗った頃には、怒りが髪の毛を逆立てて大人しく客席に座ってられぬ程だったのに、やがて眠くもなるし腹も減る。否応なく落ち着いてきてしまう。地面に降り立つ頃には疲労が勝って、すっかり勢いをなくしてしまった。
 それでも一路目白の絵画研究所に向かった。田舎を飛び出して一人で下宿に暮らしている甲西は、講義と寝る以外にはほとんどそこにいると当人から聞いていたからである。
 果たして甲西はいた。脳が溶けそうなほど幾重にもこびりついた油絵の具の香りの中で、あっけらかんと木炭画をものしていた。
 一体どのようなおつもりですか。大変私は迷惑しました。という意味の言葉を方言で激烈に述べた紅梅に、甲西は椅子を勧めた。
「まあお座りなさいよ。私、あなたの似顔絵を書いて差し上げるわ」
 紅梅は、大変疲れていたのでうっかり腰を下ろしてしまった。溜息をついた瞬間、懸命に掻き集めた怒りもほとんどが一緒に腑抜けてしまうのを感じた。
 お構いなしに自分をモティーフに構図を取り始める甲西を眺め、ロダンのポーズで渋面を作る。
「全く、あんたは一体、何を考えとるんじゃ…。あんな手紙出してから…、結果が分からんわけじゃないじゃろうが。
 わしゃあ実際に一件縁談を失うたし、家族への面目も丸潰れで」
 甲西はにこにこしてるだけで答えなかった。ただ音を立てて、木炭紙に線を引いていく。
 窓の外は暮れ始めていた。カラスの鳴き声が侘しげに聞こえる。隣の部屋でやっぱり絵を描いているらしい誰かが、ブリキ缶か何かを蹴り飛ばす音がした。
「………」
 汗が引いて、じきに紅梅の頭の中も冷静になってきた。もし甲西からのあの馬鹿げた手紙が届かなければ、自分はどうしていたのだろうかと。
 兄や両親は、正面から小説を止めさせようする、ということはないが、文学を信頼するほど馬鹿ではない。近い将来、もっと現世的な職業に就くことを望んでいる。それは前々からのことだった。
 彼らは商人的で狡猾だ。今後も創作を止めろは決して言わないだろう。ただ遊ばせておくつもりもない、鈴を着けたいのだ。卒業後は手元に呼び戻し、地域の縁故に巻き込み、否が応にも彼が「ちゃんと」せざるを得ないようにしたいのである。
 紅梅は、それでも自力でそれを退けられると思っていた。だが、理屈云々はどうでも『チチキトク』とやられると飛んで帰ってしまう。血の中には家族の情というものがある。それは、若い彼が予想していたよりもずっと強力で厄介なものなのだった。
 果たしてたった一人で、切り抜けられたのだろうか。
そうだ。それに。自分の心の中にだって、甘えがなかったとは言わない。まあいいか、と少なくとも一瞬は考えた。
 生活にかまけるうち、いつしか、小説を書かなくなるというのも、人間としては幸福なことではないか。謂わば、最善の負け方ではないか―――――
「逃げようとしたんでしょ」
 紙のほうを見ながら、甲西が呟いた。眼は光り、どきりとしたほど生真面目な声だった。
「駄目よ。文章も絵も、たとえ天賦の才能があっても結局は書くか書かないかよ。書けば一、書かなければ永遠に零。
…だーめ」
 うろたえる紅梅に向かって、甲西は目配せし、なんとも開けっぴろげに微笑んだ。
「体よく逃亡なんて許しません。あなたは、この深山甲西が見込んだ高田紅梅ですよ?
 あなたは書く性質を持って生まれた。家族が何と言おうと、その本分から逃げては駄目よ。如何に家庭的に幸福でも、魂は乾いたままになるわ。そんな一生でいいの?
 貧乏だろうが、孤独だろうが、あなたは、書けなくなるまでは、書くの。いつまでも書くの。分かってるくせに。
 逃亡なんてらしくないわ。しっかりしなさいよ」
「………」 
 薄暗くなってきた室内で、紅梅は彼女を見つめた。甲西は黙って木炭を滑らしている。
 やがて彼は、深いところから溜息をついて、席を立った。全くとんでもない娘と知り合いになったものだ。
 難しく考えようとしたが、溶かされた心はその思慮をすり抜けて彼の体を温めていた。照れもあって、彼女に背を向ける。
「…やれやれ…、分かりましたよ。書けばえぇんでしょ、書けば」
「そうです!」
 甲西はがらりと声を変え、澄ました奥さんのように肯定した。
「そして、私が挿絵を描いて出版して印税でがっぽり儲けるのです!」
振り向いた。
「待たんかコラ」




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「早稲田はしかし中々勢いがいいようですね。まあウチには何しろ前途有望な学生がたくさんおりますから、全く気にはしていませんがね。
 そう言えば、木之井君。高田君(紅梅)は郷里から戻ったのかね。今月号に作品が無かったのには驚いたが」
 大黒教授は血の滴る肉を咀嚼しながら、隣の木之井に尋ねた。青年は口元を出来るだけ見ないように、目を細くして笑う。
「はい。何もなければもう新橋に着いてることと思います。ご心配をお掛けしました」
「そうかそうか。うん、やっぱり『昭光』には高田君が居なくてはね…。教授は、文学は如何ですか。高田君の作品などは美学的にも中々面白いと思うのですが…」
 話を振られたのは、同じテーブルを囲んでいる美学教授の東金氏である。今日はこの大学近くの洋食屋で偶然一緒になり、社交好きな大黒教授に誘われて晩餐を共にしていた。
 他に彼の同僚という若い教師もいたが、これも至極大人しい小男で、座では終始大黒教授が手綱を取って、得々と喋りまくっていた。
「そうですね。最近は西洋から入ってくる本の量がまた増えましたから、そちらを読むのに忙しくて、国文学はご無沙汰気味なのですが…。
 しかし大黒教授の七面六腑のご活躍はあちこちでよくお聞きしていますよ」
 木之井は前に紅梅が、大学の中で芸術を食い物にしないのは美学の東金教授くらいだと言ったのを覚えていた。確かに教授は、理知的で落ち着いており、他人の印象を操作して自分を大きく見せようとするような、俗っぽいところがない。
 それでいてつっけんどんではなく、表情も穏やかで、さりげなく人を喜ばす如才なさも備えているようだった。その辺りがあの強面の先生とは違うな、と木之井は心中で苦笑した。
 その視界に、大黒教授の太い手が割り込んでくる。
「こちらの木之井君などもね…、実に多才なのですよ。成績は抜群ですし、英語のみならず仏語、独語も出来るのです。
 それに、実務の才能もありましてね、ばらつくことの多かった『昭光』の刊行も今までになく順調に続けてくれてます。私の愛弟子でしてね、今から将来が楽しみですよ」
 東金教授とその連れが、行儀よくにこやかに木之井に注目した。対する木之井も条件反射的に、恥じ入った表情を貼り付け、一礼する。
「おお、そうだ! 教授はそう言えば小菊坂の先生とは、ご学友でいらっしゃいましたね。木之井君は、先生にも大変に可愛がって頂いているんですよ」
「ああ」
 目を料理の皿に落としかけた東金教授が、その説明に今一度顔を上げた。微かに興味の色を増した眼差しが、自分に当てられるのを木之井は感じた。
「そうでしたか」
「何でも、予備門時代からご一緒とか…。何か先生にまつわる面白い昔話でもして頂けませんか」
「いえ」
 東金教授は微笑んだまま、顎を引いた。空になった皿の上に、ナイフとフォークを並べて静かに置いた。
「私はあまりあの人について知らないのです。皆さんがご存知のこと以外は私も分かりません。あの人は、まあ昔から、あの通りの人でして…、取り立ててお話するようなことは思いつかないですね」
「―――――?」
 木之井が教授を見る。しかし彼は皿を下げに来た給仕の方を意識していて、その内面は探れなかった。
 その間に大黒教授は手前勝手な話を続ける。東金教授の連れは無害にうんうん肯いている。木之井の視線は結局相手に到らず、機を失って引っ込められた。
 静かな洋食屋の白いテーブルクロスの上には、小さな赤い薔薇が飾ってあった。




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「栄一様。私達は神に試されようとしています。そう正に伴天連達が残虐な君主から、自らの心臓とも云える神の御姿を踏めねば今すぐ殺す、と脅されているのと同じです。
 いいえ、私達の運命はより冷酷かもしれません。別に私達が自分の主張を裏切ろうと、それで死に到ることはないのですから。しかし、それは恩情ではなく、より巧妙な罠だと私は思います。
 人間は長く自分達を因習の鎖に繋ぎとめてきました。人は、ことに女は、狭い檻の中で、それでも自分は幸福だと思い込むことによって自らを欺き、偽りの人生を生きてきました。それしかなかったのです。
 今、私達の世代は、それを断ち切って真の人間、新しい女として生きるか、それとも唯々諾々と女たちが荷ってきた鎖を受け継いで古い女として生きるか、選択を迫られる日本で最初の世代なのです。
 私は先日、前にお話したお寺で夜通し座禅を組みましたが、絶えず傍らに神の気配を感じていました。その神は密かに無音で笑いながら、私がくじける時をじっと待ち受けているのです。
 私は平静を装いましたが、心の中では慄然としていました。栄一様、栄一様と唱えて何とか切り抜けましたが、意識が現に戻ってきた時には汗びっしょりでした。
 私は負けてしまいそうで恐ろしくなりました。栄一様のお名前の他にも、何かお守りが必要でした。それで帰りに浅草に寄り、十二階下の夜店で懐刀を買いましてよ。
 勿論、そんな立派なものではありません。でも、鞘を払って、刃先に光の玉が遊んでやがて切っ先の上に留まるのを見ていると、ようやく心が落ち着いて参りました。
 栄一様。前のお手紙で死ぬ時は一緒だと仰って下さいましたね。この美しい刀を栄一様にもお見せしたく思います。
心よりお慕い申し上げております。  
徳永栄一様            檜原千代子」





(・たとえ出来心で書かれたものでも、後には証拠品扱いになる)










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