- 藪柑子漫談 -
(十六)轍
「破れ靴さん」 「はい」 「どれくらい?」 「あと三十分くらい」 「美人に描いてくださってる?」 「風が髪の毛を梳いていい感じですよ」 「風がやんだらどうするの?」 「どうしましょう」 「破れ靴さん」 「はい」 「おかしな名前」 「はい」 「恥ずかしくないの?」 「恥ずかしいですよ」 「変なの」 「はい」 「破れ靴さん」 「はい」 「あたし悪い子なの」 「そうですか?」 「お父様が嫌いなの」 「どうしてです?」 「怖いんだもの。大きな声で怒鳴ったり怒ったりして、それにお母様を殴るわ」 「今もですか?」 「今は、あまりないけど。でも、お母様やあたしはともかく、まだ小さな駒子や秋雄なんかを厳しくお叱りなってはかわいそうだわ。 いつも眉の間に皺を寄せてらっしゃるから、今じゃ普通にしていても、やっぱり皺が残ってるの。だからあたし、毎朝怖いわ。おご飯の時間が来るたび怖いの。今日は一体、何で叱られるかと思って。 それで、お父様が嫌いなの。お父様が書斎にお一人でいらっしゃる時には、みんなあっち側の廊下は使わなくてよ。 昔はもっと怖かったわ。お父様が海の向こうから帰っていらした時、あたし、お父様のお顔を覚えていなかったし、何か近くに寄ってはいけないような気がして恐ろしかった。 最初に怒られたのは、着物がみすぼらしいって。でもそれって、あたしのせいだったのかしら。 毎日、何が気に障って叱られるか全然分からなくて、ずっとびくびくしてたわ。お父様がお仕事に出られると、やっとほっとして、カラスが鳴く頃になると厭で厭でたまらなかった。 あたし、お母様の上にお父様が馬乗りになって殴っているところ、見たことあるの。そんなの幾らなんでも当たり前じゃないでしょう?」 「………」 「あたし、破れ靴さんや猫先生や木之井さんは好きよ。静かにしていてくださるもの。紅梅さんは、ちょっと苦手。怖くはないけれど、お声が大きいから、どきっとしてしまうの。 あたし、はやくお嫁に行きたいわ。このお父様の家から、外へ出たいの。二度と帰ってきたくない。 ね? そんなこと言うなんて、あたし、悪い子でしょう」 「…八重子さんは、おいくつになられましたか」 「数えで十二。…子どもの言うことだって、言いたいんでしょう!」 「そんなこともないですけど」 「じゃあ、子どものあたしに教えてください。男の人は、立派なお洋服を着て通りでは威張っているけれど、家では自分のお嫁さんを殴ったり、子どもを大声で叱りつけるような人ばっかり? もしみんなそうだと言うんなら、あたしは外に出たいなんて言わないわ」 「それをしない人は、お酒を飲まない人のように、大勢いますよ」 「よかった! それさえ聞けば安心だわ。あたし、早く大きくなろうっと!」 「…破れ靴さん」 「はい」 「お父様はきっと…あたし達のことが、お嫌いなのよ」 「そうですか?」 「だって、書斎に皆さんが集まっている時には、楽しそうになさってるわ。あたしだって、どなたか来てくださるとほっとするくらいだもの。あたし達とだけ一緒にいると、お父様、必ず苛々なさる。 お手紙をたくさん書いてらっしゃるのも知ってるわ。女の方とも。…あたし本当に悪い子なの。お父様のお手紙を読んだことがあるの。女の方が困ってらした。そしたらお父様は、その方を慰めにお出になったわ。家では、駒子や秋雄を何度も何度も泣かせておいでなのに。 …あたし達より、破れ靴さんや、その方の方がお好きなのよ。きっと、ほっとなさるんだわ」 「…でも、お父様の肉親は八重子さんやお母様だけですよ」 「じゃあどうして大事にしてくれないの? どうしていつも怒っているの?」 「肉親だからかもしれません」 「あたし、そのお話が一番嫌い。甘えてるもの!!」 「…八重子さん。大人になれば分かることですが、大人の人というのも、思っていたより完璧ではないんですよ。みんな図体だけ大きくなってお髭の生えた、ほんの子どものようです」 「じゃあ威張らないでほしいわ」 「ごもっともです。でも多分、お父様は、大人として我慢して我慢しても我慢しきれないから、つい大きなお声を出してしまわれるんだと思いますよ」 「どうして分かるの?」 「お父様は、胃がお悪いでしょう。胃袋に穴が開いてしまう。それは、ものすごく悩んだ方が遂に罹ってしまうご病気なんですよ。風邪や何かとは違います」 「…じゃあ、やっぱりお父様は、あたし達のことがお嫌いなのだわ。それで、悩んでらして」 「いえ、多分、もっと前からです。多分、ご結婚なさる前からです。あまり前からだから、先生もきっとそれがご病気であることをほとんどお忘れで、ご自分でも根っから癇癪なのか、それとも病気が辛いから癇癪を爆発させてしまうのか、お分かりにならないのじゃないでしょうか」 「なあにそれ?」 「ぐるぐる回っているんですよ。先に何かがおかしかったから傷ついたのか、傷いているから殊更何かがおかしくなったのか、卵が先か鶏が先か。分からないんです。 先生はその歯車に捕らわれてしまわれた。もうずっと長いこと、その中で苦しみながら生きておいでです。丁度八重子さんが、早くお嫁に行きたいと思いながら、毎日この家でお暮らしになってるように」 「………」 「でも、先生には一つ、お偉いところがあると思います」 「……?」 「先生は、『自分は傷ついている』ということに気付かれました」 「なあにそれ?!」 「全くです。でもね、これは最初の一歩なんですよ。ぐるぐる回る荷馬車の轍から放たれるための、最初の大きな一歩です」 「そんなことが?」 「世の中には、自分が傷ついていることを知らない大人の人が一杯いるんですよ。そのせいで、益々話がややこしくなってしまうのですが、死ぬまで認めない人が沢山います。 先生は長い間悩まれて、ちゃんと生きているうちに自力でそれに気付かれました。だから、偉いんですよ。私はだから、自分の両親よりも―――勿論あの人たちも必死に生きてはいますが―――、先生を尊敬しています。それほど真っ直ぐに、純真に、深く悩んでいらっしゃるから」 「………」 「出来ました」 「見せて」 「お疲れ様でしたね」 「何だか別の人みたい。おかしいわ。…これ、美人すぎるわ、ちょっと」 「そんなはずありませんよ? じゃあお父様に見て頂きましょう。不出来かどうか」 「え? 厭よ。駄目! 恥ずかしいから」 「僕も一緒に行ってあげますから。そろそろ誰か来ているでしょうし」 「厭だ、返して! 破れ靴さん、返して!」 大騒ぎしながらとうとう書斎前まで連れてこられて、恐る恐る目を上げると、父は二、三の常連と一緒に寛いでいるところだった。 「どうした八重子?」 父は笑っても、眼が歪んでどこか悲しんでるような、寂しいお顔になる人だった。 「どうしたね?」 私は答えられなかった。怖いのではなく、理由もなく泣きそうになってしまって。 最近、忙しい家事の合間にふと父のことを思い出ことがあると、いつでもあの時の父の顔と、左の手を握って下さっていた、破れ靴先生のお手の温かさが、蘇ってくる。 (八重子) |
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