- 藪柑子漫談 -
(十七) ブータン!
通りの桜の木から赤く染(そ)んだ葉が一枚一枚散って行くように、草むらで盛んに生きていた虫たちの声が日を追うごとに減り、空が透けていく季節になった。
藪柑子先生はさっきから猫博士と、東西の味の違いについて話し込んでいた。例によって主人らの会話は本題を離れ、段々横滑りして行った。 しかも今日は普段とメンバーが違っていた。破れ靴閣下が東北に旅行に出かけ、その場を留守にしていたのである。 「我々を二人きりにするとはいい度胸だな」 「先生は洋行帰りでらっしゃいますが、時々はまた行きたいなどと思われますか?」 「…いや?」 先生は眉間に派手な皺を寄せて盛大に不興げな顔をした。 「二度と行きたいとは思わんね。遠いし、大抵寒いし。第一食い物は日本が一番だぞ」 友人が独逸に行くから、と開かれた壮行会で、並びいる留学経験者を前にし「高い金を払ってわざわざ欧羅巴に行くくらいなら、その金で上等な雪隠でもこさえた方がましだ」と言ってのけた御仁である。(ところで良識のある大人ならそういうことは言わないものだ。) 「寝転がりたい時に畳に寝転がれて、入りたい時に風呂に入れて、食いたい時に蕎麦掻を掻き込める生活が一番だ」 「そりゃあ日本に生まれ育てばそう考えるのが自然ですね。しかし生活でなくて旅行なら如何です? ちょっと新奇なものを見たいと思う時はおありでしょう」 「そうだなあ。しかしやはり実際に行ってみるとげっそり疲れてしまうことも多いから、しばらくは国内の旅行で充分だよ。 そろそろ湯治が恋しい頃合になってきたな。箱根にでも出たい」 猫博士は苦笑いだ。 「先生。それは別に新奇なものを求める旅では…」 「そうだな」 と、先生も同意。 「俺はもういいよ。小難しい旅行には若い者が行くといい。そういや破れ靴の画伯は、こんな寒い時分、東北に何をしに行ったんだ?」 「何でも古いお家の掛け軸や書を見せてもらいに行くとか。学問を修めに洋行するようなものですね」 「立派立派。若者はそうでなくちゃならん」 言いながら温かい部屋の中で、饅頭を食べる。 「僕なんかは所帯もあるしもうあまり若くないけど、機会があれば幾らでも外へ出たいですねえ。もし機会があるなら南米大陸にも…」 「南米! 何があるんだ、あんなところに」 「動物植物鉱物風俗人間、全てですよ。僕の見たことのない全てがあるはずです。本で眺めているのもいいけれど、やはり生きている以上は実際にこの黒い目で見てみたいですね。 第一、実際に訪れたことのある土地とそうでないところでは、現実感が違います。国外の小説を読むにしても、行ったことがあれば空気の把握が全然違いますよ。そう思われるでしょう?」 「まあ確かにな」 と、先生は渋々認めた。 「どれ程地図帳を眺めていてもその知識がうずくまる場所と、実際にその土地を歩き回った経験が収まる場所は違うからな」 「どちらも重要ですが、要はその二つが関連づくことが大事なんだと…。まあ今は子どもが小さいですから、もう少し大きくなって手が掛からなくなったら夫婦でへそくりを使って旅行にでも出ますよ。或いは、子どもも一緒でもいいかもしれない」 「子どももお前と同じで新奇好きかい」 「いえいえ。まだそれが分かるほど大きくありません。これからじっくり教化して行きます」 「洗脳の間違えじゃないのか?」 「そういえばこの間、子供用の地図を求めに丸善に行ったんですがね、謀ったように『新学期おめでとう 地球儀フェア』なんてのをやってまして。足がはまって二時間抜け出せなくなりましたよ」 「ああ、それなら俺も偶々当たった。地球儀がズラーッと二十ばかり西瓜みたいに並んでた奴だろう」 「それです、はい。見てるうちに地図帳は止めて地球儀にしようと思ったんですが、結構高いんですよ。僕のズボンを一着買える位の値段がする」 「矢鱈高機能の奴だからだろう」 「そうなんです。僕は別に普通の、ごく当たり前な地球儀で構わないというのに、なんかこう…、無意味に光ってみたり、音が鳴ってみたり、指で触ると高低がぼこぼこついていたりとか」 「それくらいならいいが、あの、べらべら喋るやつは一体何なんだ?」 「ああ、そんなのもありましたね。あれは全く何がしたくて作ったのやら。 指でどこかを押さえると、その土地が赤く光って平坦な電子音がぶっきらぼうに…、 『ブータン!』」 すぱん。 と、前触れもなく襖が開いた。二人が顔を向けると、学校帰りの紅梅氏が不審げな顔つきで立っている。 「ご両人…、今なんか非常に悪い話をなさってませんでしたか」 先生は無表情のまま空いたほうの手をひらひら振った。 「あー、してないしてない」 「気のせいだよ、紅梅君」 博士も小首を傾げて微笑する。 だが氏は疑惑の眼差しでしばらく二人を見下ろしていた。 (匿名)
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