- 藪柑子漫談 -
(十八)刺客
「まずは、おめでとうございます」 木之井が開口一番そう告げたのは年明けだったからではない。知人の労作が一〇余もの人間の手を経て、ようやく今一冊の書物へと結実したからである。 初めて自分の作品が挿絵として本に載った甲西女史は嬉しそうに肩をすくめて白い歯を出した。由緒正しい家に育ったにも関わらず、彼女は何から何まで至って砕けていて、下町娘のように愛嬌であった。 ところは団子坂の馴染みの西洋料理屋、刻は夕暮れ前である。本来彼らは藪柑子先生の連載小説「灯明」が先日無事完結したので、そのお祝いを言うためにここで落ち合って小菊坂に向かおうとしていた。そこに偶然別のお目出度が重なったわけだ。 「本当は、私の先生がお描きになるはずのお仕事だったんだけど、あんまりお忙しくて私にお鉢が回ってきましたの。今はほっとしてますけど、先生のお顔を潰すわけにもいかないし、結構大変だったんですよ」 と、紅茶に口をつける。木之井は編集者の顔で微笑んだ。 「そうでしょうね。でも、これはいいですよ。正直言ってこの作者の小説は少し古いのであまり好きでなかったんですが、甲西さんの絵があると随分しゃれた感じに見えます。多分、相性がいいんでしょうね。評判になると思いますよ」 「んふふふう」 その時、唇に茶碗を噛んだまま、変な息が女史の鼻から漏れた。もどかしげに軽いカップを置くと、取り繕っていた体面を崩して、上体を鳩のように前後に揺らし始める。 「もっと言ってもっと言ってー! 木之井さんみたいな麗しの君にそんなふうに言われると胃が溶けちゃいそうな気がする! これだけでもあたし、絵を描いてよかったー!」 袴をばたばたする。 「…そうですか?」 遠くでウェイターが変な顔をしているのを意識しつつ、木之井は苦笑を浮かべた。ただでさえ男女同伴は目立つのだ。 そんな彼の気後れにも構わず、女史は身を前に乗り出して行儀悪く両肘を着き、顎を乗せた。 「そうよ! 言われたことおありじゃない? 木之井さんが笑うとみんなが嬉しくなるって。花が咲いたような気持ちになるって。 あたしなんかが笑っても、『あれ、世界の隅で変な女が笑ってる』で終わっちゃうけど、木之井さんは違うわね! こう、ご利益がある感じ。お爺ちゃんとかお婆ちゃんが幸せになるような感じ。お湯に浸かってるような気分になるわ。あたし木之井さんの顔、大好き!」 「………」 はっきり言って、この女性は少し節度が足りないなと木之井は感じたが、頬の筋肉のあたりが何か動くので、そのまま黙って珈琲を飲んだ。 彼女と初めて会ったのは紅梅が見合い騒動で原稿を落とした時だが、彼はその時から彼女に対し、妙に厳しくし切れない自分を感じていた。 多分、彼女が矢鱈滅多ら人を褒める類の人間だからだろう。言っていることはほとんど意味の無いことだし、当人の妄想が強すぎて当たり外れの概念ですら聞いていないが、しかし、それでも体のどこかに何かが残ってしまう。彼女はそういった褒め方をする曲者なのだ。 「それにしても、紅梅君は遅いですね」 対する木之井も褒められることにかけては熟(な)れた男である。あっさりと身を交わして話題を転じた。 「そうね。もう二十分は遅刻だわ」 「彼にしては珍しいな」 「わざとかもしれなくてよ」 「?」 「この間別れた時、何だか機嫌が悪かったから」 「………」 察しのいい木之井は薄笑いを浮かべ、出されたばかりの甲西の本を持ち上げた。 「これですか?」 彼女は西洋人じみて肩をすくめ、 「心の狭い男よねえ」 辺りが憚られるようなはっきりした声で、ずばっと言った。 「別に約束を破ったわけでもないし、急に決まった仕事だったから話す暇もなかっただけなのに。でも何だか、出し抜かれたようで気に障ったらしいわよ」 女性らしからぬ不遜な言い方に、木之井はひやっとしつつ、目尻はまだ笑っていた。 「じゃあ彼は置いて行きますか? どうせ落ち合う先は藪柑子邸ですからね」 「そうね。木之井さんさえいらっしゃれば道は分かるんだし…。行きましょっか」 薄情な二人はさっさと席を立った。こういう人間たちに対して拗ねてみせるのは拗ね損というものである。 道すがら、木之井と歩けて嬉しいらしい甲西は絶好調だった。 「ねえねえ、やっぱり学校で男の方に言い寄られたりなさるんじゃないの? 高等学校の頃は? 衆道って女にはすっごい浪漫よねえ。 木之井さんみたいな美青年が『女に興味ない』なんて冷たく言ったら、いいなあ〜。西鶴の『好色一代男』は…」 木之井は笑って澄ましていたが、ふと、進む方向に見知った人間の姿を見つけて注意を引かれた。 徳永だ。七間ほど先を歩いているが、こちらには気付いていない。女連れである。いい着物を着た女だ。 「あら? あれは…」 と、隣の甲西までが反応した時、彼等の姿は路地へ入り、見えなくなった。 「徳永君をご存知です?」 振り向くと、 「え? いいえ? あの男の方、徳永さんと仰るの? …ひょっとして、『陽炎』の徳永栄一さん? あら、思ったより恰幅のいい方なのね」 よく言われることである。「陽炎」の主人公が武芸万能のモダンな美丈夫なので、作者もそうなのではないかと思い込まれるらしい。 「あの方のことは今初めて知りました。私は連れの女性を存じ上げてるんです。それであらっと思って」 木之井は目を、彼らが消えて行った路地へ転じたが、実際に見ていたのはいつか読まされた恋文である。眦がかすかに歪んだ。 「…『千代子』…?」 「そうです。檜原千代子さん。木之井さんもご存知? 私達の学校の卒業生で、先輩ですわ。文学も音楽も絵画もテニスもなさるような才女でらっしゃるの。 未だに後輩達の語り草ですけど…、大丈夫かしら」 「『大丈夫?』」 「ええ…、これは私の勝手な考えですけど」 と、甲西の顔も少し変になっている。 「千代子さんは、頭がいいし、結構影響力の強い方なんですよね。だから周りを感化してしまうことが多くて、ちょっと神様みたいになってしまうの。引きずられる類の人は結構引きずられてしまって…。 私三度くらいお話したことあるんですけど、お話が禅とか魂魄のこととかで、難しくって全然分からなかった。でも一緒にいた後輩は何人かもう信者みたいになってしまって、ついて勉強したり参禅したり…。 最後にはまあ周囲から勝手にエスとか言われてましたけど、今はどうしてるのかしら?」 へえ。 木之井は言って、そのまま連れ立って坂を下りた。 ところで紅梅は二人が藪柑子邸に着いて後、一時間ほど遅れてやってきた。少し離れたところに座り、地黒の頬をぷくーと膨らましてそっぽを向いている様は、まるで子どもであった。 *
その日は連載完結後最初の木曜日であった為、藪柑子邸には大勢の客が集まっていた。新しい顔ぶれもあり、若い人も多かったので座は賑やかで、酒も出る頃には大いに盛り上がっていた。 斯く言う私も麦酒を振舞われていい気分になっていたが、ふと見るといつの間にやら藪小路先生の顔まで煮えたように真っ赤になっている。 先生は仙台時代から有名な下戸であった。ご自身もご承知のはずである。だが、人がそれを飲んであまりおいしそうにしていれば、一口つけてみたくなるのが人情だろう。私はおかしくって、抱えた膝の上でこっそりと笑っていた。 そんな時だった。不意に鋭い声が上がって、ぐつぐつ煙る湯のように湧いていた座が、その地点を中心に引けるように、静かになった。 驚いて目を向けると、その中心には、城山書店の編集ミノオ君と――――これは意外だったのだけれど、木之井君がいた。 彼等の周囲の人間はもとより、別の輪を作っていた連中も尋常でない雰囲気に言葉を切る。木之井君は、そんな空気を分からぬでもないだろうに珍しく激昂していて、けれども恐ろしく静かに、極めつけた。 「そんなに仰るなら、金輪際先生に原稿を頼まねばよろしいではないですか。他の、どなたのでもいい、あなた方が道徳だと感じられる小説を適当に見繕って、黙って載せられたらよろしい」 視界の端に、目を丸くした紅梅君が、麦酒のグラスを手にしたまま固まっているのが映った。 「いや…、そんな極論を仰られても困ります…。僕は決してもうお願いしたくないなどとは…」 片手を上げ、しどろもどろに反論するミノオ君は萎縮し切っていた。無理もない。彼は少なからず酒に酔っているが、木之井君は素面だ。その上、目が据わるほど怒っている。彼の恐怖の念は我々にも伝染し、一緒に叱られているような気になった。 どうもミノオ君がまたぞろ小説と道徳がどうのとつまらないことを言っていたようだが、木之井君はそんなことに拘る頭の固い青年ではないはずだ。小説家の、既成概念からの完全なる自由を説くのは、普段なら徳永君の役割である。 しかし何故か彼は怒っていた。そしていつもはきれいにしまわれて気配も見えない激しい悪意を、高い知能と鋭い怒りで白刃に仕立て上げ、箕尾氏の喉元に突きつけていた。 相手の息を止めるまでは勘弁ならぬといった眼光だ。そんな彼は初めて見た。木之井君は極めて大人しい青年であり、理性的で怜悧で、人前で声を荒げることなど今まで一度も無かったことなのだ。 ようやく、凝固から解けた紅梅君が間に入って場を収めた。 よろしく酒に浸かった連中である。すぐまた雰囲気は高まり、声も重なっていったけれど、心の中では今の一瞬が飲み下せないものとして重たく留まっていた。 (何か今の瞬間には普通でないものがあった。酒の席の喧嘩にしてもそれだけではないものがあった。芸術論の衝突などとは、もとより無縁であった。) そんな感触が酒精と一緒に遥か下の方でうねっていた。 木之井君は今、紅梅君と甲西女史と一緒にいる。例によって紅梅君が彼にくどくどと何か言っている。 しばらくして箕尾氏が先生に挨拶をして席を立った。その顔を見たとき何となく、彼は二度と木之井君に打ち解けないだろうと私は思った。 (猫)
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