- 藪柑子漫談 -

(十九)好きな地獄





 一人のつまらない人間の生い立ちの話をするがお許し頂きたい。
 彼は中流の家庭に長男として生まれた。父は程々の事業家だった。母は牧師の娘だと言うから笑える。 寝食に困ることの無い恵まれた家の子供だったが、不思議と幼い頃から、自分を取り巻く環境がどこかおかしいことを漠然と感じていた。
 両親の仲は既に冷え切っていた。同じ家の中にいながらまるで話もせず、食事の膳もほとんど一緒に囲まなかった。
 父も母も、彼を目にすることを望まなかったらしい。彼はいつも家の決まった場所だけを移動して、六十くらいの婆さんに世話をされて一人で過ごした。
 それでいて恨みに思った覚えは無い。家の中に病人がいるようなものだ。彼らを苦しめないように、そっとしておいてやらねばいけないだろう。
 学校へ通うようになって、ようやく外の世界を知ったが、ある意味で手遅れだった。家の中の、張り詰めた空気を破らないように足音さえ消して過ごしていた彼に、子供同士の荒っぽい遊びは無理だった。
 それに、学友達は時折彼の方を指差して笑う。言うに言われぬ「おかしなこと」はここでも起きていた。彼が移動すればついて回る。いなければ起こらない。それで彼は幼いながらも、自分自身がその歪みの原因であると朧に理解し始めていた。
 七つの時、夜中に騒ぎがあったと思った翌日、母が死んだ。内臓の病気だと聞かされたが初耳だった。 彼は母の死に顔を見せてもらえなかった。子供には残酷だからと父は言ったが、火葬まで棺桶の蓋は閉まったままだった。
 日常にあまり変わりは無かった。父は無言で働き続け、家の中で彼は大人しく過ごした。それでも時折、夜中急に涙が零れたりしたのは不思議だ。定めし小説の読みすぎだったのだろう。
 十三になった時、転機がやってきた。ある日突然、朝鮮から伯父が帰ってきたのである。伯父はあちらで商売に失敗し、身上を潰し、しかも肺病まで携えて玄関先へ転がり込んだ。ただでさえ粗野で扱いにくいのに、命とりな酒飲みで一滴でも入るともう女達は怯えて世話をしたがらなかった。
 彼は伯父が押し入ってきた日のことを覚えている。使用人たちはそれを家に入れまいとして、玄関で粘った。これは後で分かったことだが、伯父は半勘当の状態で家を出ていたので、彼らにしても父の許可なしに伯父を上げていいものかどうか分からず弱ったのだろう。
 彼の家は普段、極めて静かだった。それが伯父の大声で天井板まで揺さぶられるようだった。 彼は仰天した。聞くと騒いでいるのは父の兄だと言う。腹の底で何かが蹴破られるのを感じた。それでいてこの瞬間を待っていたふうでもあった。
 呼ばれるように音のするほうへ向かった。「坊ちゃん」と止められる声にも構わず、客間の方へ進むと、中途の廊下で、伯父に対面した。
 その時の伯父はひどい有様だった。髪はぐしゃぐしゃ髭は小汚く、服は信じられないほど傷んで、嗅いだことの無いような不快な臭いがしていた。
 私は――――いや彼は、唖然としてその場に立ち止まった。すると伯父は青白い顔をちらと歪まして、
「正吾か」
と何ともいえない声で笑ったのである。
 その夜、父は遅くに帰ってきた。彼は、どこにそんな知恵と技術を仕舞いこんでいたのか、普段の就寝時刻をとうに越して起きていて、じっと家の中から聞こえる物音に、耳を澄ました。
 はっきりとした話は聞こえてこなかったが、とにかく、彼らは言い争った。彼は父が大声を張り上げるのを初めて――――。…いや…? 初めてではない。初めてではない。
 彼はふいにありありと思い出した。子供の頃。本当に子供の頃、白昼、山のように立ちはだかった父に大声で激しく怒鳴りつけられたことを。その時の、魂が飛び去ってしまうような感覚。
 彼は混乱した。汗が出て、熱が上がったような気がした。何故忘れていたのだろう。
 約束だったからだ。婆さんが忘れろと彼を抱いた。その約束があったからなのだ。しかしその固い縛めは今や跡形も無く消えてしまった。
 背中が寒かった。あの無法な男は壊しに来たのだ。自分が十年以上張り詰めて守ってきたこの家の静寂を、無に帰すつもりなのだ。そう悟った。そして実際その通りになった。
 結局伯父は、代々木あたりに一軒を借りて住まわせることになった。四日後の夜、父に呼ばれた彼は、その家に月に一度は生活費を届けがてら見舞いに行くように、と言われた。金を持たせるのに、使用人では信用ならないから。
 彼は父の顔を探った。すると父は続けた。
それとは別に、六月から、ここに女の人が来る。大事な人なのだから、無礼なことをしたり、乱暴な口をきいて迷惑を掛けたりしてはいけないよ。
 何と応え、何と言って座敷を出てきたのか覚えていない。胸の中で思っていたのはこういうことだ。
「終わるのを待っていたのは自分だけではなかった」
 そして、蒸気機関車の巨大な歯車が一つ、ゆったりと回るように、彼の環境は前に進んだ。父は若い妾を家に迎え、新しい生活を楽しみ始めた。彼は伯父の方へ投げやられたが、伯父は完全な生活破綻者で、家族など営めるような器ではない。
 言いつけに従わぬばかりか時折無理難題を言う。彼が呆れて無視すると、お前自分の親父が誰なのか知ってるのかと来る。虫唾の走る顔だ。
 ――――年の度に五、六のつまらないことがあって、終いには彼も疲れて馬鹿馬鹿しくなってきた。約束は破れた。破れてもこの世に罰は無い。
 ならどいつもこいつも勝手にすればいいだろう。先に死んだ母も、その後また女を取り替えて子供を産ました父も、妻を気取って口うるさいその女も、わがままを喚き散らして彼を脅迫する伯父も、誰も彼も、好きにすればいいのだ。
 好きなことを言い、好きなことをし、好きなだけ交接し、好きな地獄へ落ちるがいい。
私には関係のないことだ。
 十六になる頃にはそう決め付けて澄ましこんでいた。すると随分気楽になった。
 大学に入ってしまえば、もう誰も彼の出自が怪しいことなど気にしない。益々生きやすくなった。そして藪柑子先生に出会い、その大きなご厚意にすがることで今日まで続いている。
 伯父のところには、未だに月一で生活費を届けに行く。もっと回数を減らしたいのだが、渡しただけ使われてしまうので仕方がない。
 伯父の病勢は年を追うごとに進んで行く。それを彼は離れたところから冷ややかに見ている。こちらに迫ってこようとすれば金を投げつける。それで五年は過ぎていた。
 今日も寂れた道を歩いて伯父の家へ入った。静かなので寝ているのかと思いながら履物を脱ぐと、六畳の居間で伯父が大の字になって昏倒していた。
畳は血まみれだった。




木之井正吾




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