- 藪柑子漫談 -

(二十)自由意志




 藪柑子邸に足を向けたのは約一ヶ月ぶりだった。にっちもさっちも行かなくなって来たため、まるで故郷に帰るように立ち寄ったのである。
 小女は意地の悪い素っ気無さで僕を案内した。不愉快だった。ちょっと声をかけたくらいでいい気になって、だから下衆の女は厭だ。
 先生は湯に行っていた。面会日でないのだから、先生も好きになさる。客も好きに待っていた。書斎には猫博士がいた。
「やあ、徳永君。君もこれを見たのかい」
 久しぶりとも言わずに、博士は文芸誌を見せてきた。私学の文学部で出している雑誌で、彼の言っているのは書評の頁のことらしい。
『小菊坂氏の『灯明』完結す。描写、文章巧みなれども新鮮味を欠く。またしても人妻、またしても不倫行にて、小生些か辟易たり。氏に如何なる事情のあるや知らねども、三面記事沢山。帝都の学生、人心に悪しき影響の及ぼされんことを危惧す。』
「…筆者…N?」
「文科の中川さんじゃないかと僕は思ってる」
「私学の雑誌に?」
「あの人はあそこの学長とは仲がいいんだよ。勉強仲間だったそうでね。まあしかし、これ自体は他愛もない話さ。
 だが、これに大黒さんが噛み付いたものでややこしくなっててね。『昭光』にこれに対抗する意見を載せると息巻いているらしい」
 猫博士はいつものように穏やかな様子ではあったが、さすがに少し掻き乱されているらしく、すっきりしない目であぐらを組み変えた。
「紅梅君が一生懸命それをなだめているところだよ。部外者が口を出してくると必要以上に話がややこしくなるね。大黒さんには全然関係ない話のはずなんだがなあ…」
 小さなため息を一つついて、博士は煙草を唇に差し込む。それから、僕が静かなことにふと気がついて、顔を眺めてきた。
「徳永君? 驚いたのかい? いや、大丈夫だよ。ちょっと面倒なことになってるが、すぐに収拾するさ」
「ええ。いえ…」
 僕の顔色がよくないのは、今知った事情のためなどではない。だが、猫博士は元来先生への敬愛の情が強いお人で、頭の中は当面それでいっぱいらしかった。
「大丈夫です。最近少し、体調がすぐれなくて」
 無理に笑って、僕は言った。だが博士はそれを額面どおりに受け取って、少し気遣った後にはまた懸案の話を始めた。僕は目を細めてそれを聞いていた。
 心はただ一人、見も知らぬ竹薮をさまよっていた。
 やがて、玄関が騒いだかと思うと、城山書店の箕尾氏と、紅梅君が連れだって現れた。よく喋る彼らが一緒になればやかましいのも当然で、彼らは廊下でさえ言い合いながら書斎へ入ってきた。
「やるべきですよ! こんな風に侮辱されたまま黙っていたら舐められます! 折角大黒教授がそうと仰って下さってるのですから…」
「あんたも分からん男じゃのう! ありゃあ中川と喧嘩がしたいだけよ! そがいな下らんことに先生巻き込んでみっともない思いをさせるわけにはいかん。話を大きゅうするな!」
「どうだね」
 猫博士が首尾を尋ねると、紅梅君はうんざりした顔つきで、地黒な手を振った。
「なんとも言えん感じです。今日のところは説得して戻ってきましたが、また一晩の間にあのおっさんが何考え出すか分からん。学生の中にも好戦派がおって、そいつらもうるさい。互いが互いを刺激しとる感じで、全く勘弁してほしいですよ」
「だから言ったんですよ! もっと穏便なテーマで作品を書いて下さるようにと! 先生はそこらの戯作家とは身分が違うんです。ふさわしい物語をして頂かないと!」
「随分元気だが、そんなことは誰にも強要できないよ、ミノオ君。少し冷静になりたまえ。
 大体中川さんは、けちなどつけられない場所にけちを付けてるんだ。うかうかと相手の土俵に上がっていったら、馬鹿を見るのはこちらのほうだよ」
と、二人はそのまま論争を始めた。
 紅梅君はもう腹一杯らしく、赤ん坊のようにずるずると這って彼らから離れ、ぽつねんとしていた僕のほうへ逃げてきた。
「よお、徳永。何や久しぶりじゃのう。生きとったか」
 体を回して壁にもたれかかる。
「なんだか大変そうだね」
「まあ雑誌作っとりゃ年に一度くらい、こがいな騒ぎはあるもんじゃろ」
フー、と額を覆って息を吐いた。僕はなんだかその場にいるのが悪いような気になった。
「…ところで、あの、木之井君は?」
「木之井?」
 紅梅君は手を首の後ろに回すと、何故かますます疲れた風に、その名を繰り返す。
「ああ、木之井ね…。…知らん。ここ二三日会うとらん。結局今日も来なんだな…。どうも最近あいつ忙しいらしゅうてのう。講義にも、出とらんし…」
「…何か、あったのかい?」
 待ち望んでいる台詞を自分で言ってしまうのは何だか滑稽なものだった。
「さあのぉ…、何があったんか。あいつの家も色々複雑らしいしのう。性格は昔からじゃけど。
 でも危ない思うわ。わしにみたいに普段からきゃーきゃー騒げる奴ならええけど、ああいう奴は、瀬戸際まで行っても何も言わんことが多い。
 高校二年の時に、厳島の山ん中で自殺した奴がおったけど、そいつもそういう奴じゃった。頭ばっかりくるくる回って、体は後追いじゃ。しかも変に情が強うてから、面と向かって誰かに助けを求めることも出来んとくる。
 頭はええかもしれんが、そりゃあ不具で。そがいに高潔なことで、白髪の年まで行けるかい。ちいと自分自身を恃みすぎじゃわ。ひっくり返った未熟じゃわ」
 紅梅君の目は遠くを見ていた。姿を見せない木之井君か、厳島で死んだ学友のことか。とにかく自分を見ていないことは明らかだった。
 元来、僕は彼の大きな黒い目が苦手だった。何でも明るく無遠慮に覗き込みすぎるので。けれども、今は少し寂しさを噛んで、僕は顎を引いた。
 隣では相変わらず博士と箕尾君が小説のことについて争っていた。しかし彼らも煎じ詰めれば藪柑子先生のことについて話しているのだ。
 一月ばかり、僕が来なかった間に誰か、僕のことを話題にしたのだろうか。
 僕は、自分がもやいを解かれた小船にたった一人で乗っているような気持ちがした。 それは面白いような、泣き出したいような、削られるような、寂しい感触だった。
「あんたも変わりなくやっとったか?」
 紅梅君が今更尋ねるのに、僕は我ながら不自然なほど平静な声で答えていた。
「ああ。変わりなくやっている」



 やがて、藪柑子先生が長風呂から戻ってきた。客らは、その顔色を見て急に静かになった。ひどく体調が悪そうに見えたのだ。
「先生、大丈夫ですか」
 猫博士が尋ねると、先生は渋い顔をして、
「最近寒いからかな。どうもまた胃のやつが…」
と胸の下あたりを押さえていた。
 三人は話したいことがあったはずだが、それを見て早々に立ち去った。僕は一人、正座のまま残った。
 三年前、上京したてで訛りが恥ずかしく、ろくに人と話せないでいた僕に、先生は声をかけて下すった。
「徳永君、どうした?」
 そして僕は先生に、自分の悩みの有りっ丈を吐露したのだ。その時と同じ言葉に、頭を下げながら、僕は言った。
「申し訳ないのですが、先生。少々金子を貸していただけないでしょうか」




 小菊坂を下る折、どこかで見た人物とすれ違った。ぼんやりと記憶を手繰ったのに、解に行き当たったのは不思議だ。
 それはいつか紅梅君が話していた、女癖の悪いと評判の歯医者であった。今、一体どういう状態になっているのかもとより知らぬところであったが、どちらにせよ幸福そうではなかった。
 どの女のもとへ帰るのか。
それとも別の場所へ行くのか。
 僕らは坂の途中で重なり、やがて別れて進んでいった。





徳永 栄一




<< 戻る 藪柑子漫談 次へ>>