- 藪柑子漫談 -

(二十一)灯明




『僕は菊枝さんを愛している』

『無論菊枝さんは君の細君だ。だから君には心(しん)から申し訳ない。けれども事実そうなんだから仕方が無い』

『親兄弟には何度も縁談を強いられている。だが僕には到底為しえない。僕は』





 勘が、いいのだね。猫博士は目の前で取り置かれた新聞を順に読んでいく青年をゆっくり眺めながらそう思った。
 破れ靴閣下は東北に古美術を見に行ったきり、一ヶ月も消息知れずで、今日の夕刻突然に猫博士の自宅玄関に現れた。
 対応した下女に来意を告げたが、結局博士本人が書斎から出て行く始末になった。靴が破れているのは普段のことだが、加えて無精ひげ、風に痛んだ髪、隈の出来上がった目元では仕方が無い。下女は最後の最後まで、恐ろしく風変わりな本当の客なのか、かたりの乞食がたかりに来たのか、判断できなかったのである。
 猫博士は彼と一緒に湯に行って、家に戻った後は晩飯を振舞った。そして衣類を貸して、今ようやく書斎に落ち着いたのである。
 他に何かいるか、と尋ねると破れ靴子は新聞を。と答えた。
「藪柑子先生の『灯明』の終わりの何回かを読んでないものですから」
 そんなわけで彼は今古新聞を読んでいる。猫博士自身が切り抜いて取っておいたものだ。
「今まで何をしてたんだね」
 煙草を吸いながら博士はゆっくり聞いた。青年の声は無論変わりない。
「友人が投獄されたりしたもので、ばたばたしてたんです」
「そうか」
 破れ靴子はいたって目の細い男だった。鼻から下が新聞に隠れている状態では殊更表情が読めない。
「それはもう済んだのかい」
「ええ。昼に日暮里で焼いてきました」
「…骨は?」
「他の友人が郷里に」
「成る程」
「…うん。ありがとうございます。読み終えました」
 新聞をもとの通りたたんで脇に置くと、彼はもう湯気を立てなくなっているお茶に手を伸ばした。細い目を柔らかくして、
「ああ、おいしい」
と呟く。猫博士は微かに笑った。
「藪柑子先生もここのところあまり体調がよろしくなくてね」
「そうでしたか」
「今日はこっちに来てくれてよかった。
 変なものだね。先生は書いている時も根を詰めて疲労なさるのに、書いてないときは益々いけないらしい。夫人が不思議がっておいでだよ」
「追いついてくるんでしょう」
 博士は青年の顔を見た。その言葉の意味が分からなかったのだ。だが破れ靴子は特に説明の意思もないらしかった。
「…で、どうだね? 『灯明』の感想は」
「そうですね。面白かったです。とても集中して書かれている。本当に先生の小説は、どこにも他人から物を借りて済ましているところがないから素敵ですよ」
 せめてこれくらい普通の意見が、新聞や雑誌のどこかで読めればいいのに、と思いながら、猫博士はうつむく顎で相槌を打った。
「それに、最後のほうを読んでおっと思いましたのは、『僕は愛している』ですね」
 一刻ごとに冷え込んでいく冬の夜の中で、もう一度、彼らは互いの目を見合わせた。
「この言葉には、驚きました。僕は聞いたことがない。そりゃ国を愛する…、郷里を愛する…。それは、ありますよ。
 でも、人を、…誰か女性を『愛している』というのは、今までになく、決意のこもった言葉だし、同時に、何か寂しいものも感じます。
 作中にこの言葉に相応しい人間は他に出てきません。主人公の両親も、兄夫婦も、裏切ってしまう友人も、その言葉と逆の場所で違う流れを追っている。
 主人公は疎外されてます。川が怒涛の勢いで流れていくのをぼんやり眺めている。その中に飛び込んで自分も力の限り泳がなければならないことは分かっているけれど、どうしてもその真似が出来ない」
 そんな状況にある主人公は友人の妻で、ずっと思いを寄せ続けていた女性に思いを告げようか告げまいか迷った挙句、遂に告白する。そしてそれが、全員に知れるところとなり、結果社会的に破滅する。
 言えば滅びることは分かっている。
言えば勘当され後ろ指を差される。
それでも言わないでは済まない。言ってしまう。
だからこの「愛している」は「さようなら」だ。
 猫博士は途中から目を閉じて彼の言葉を聞いていた。彼は、仙台二高から藪柑子先生に親しんでもうその長さは二十年にならんとしている。彼は、先生の秘密を幾ばくか知っている。昔から事あるごとに囁かれてきた噂の、元となったと思しき人物とその顛末も知っている。
 しかし、それをこの目の前の青年に告げる必要はない。説明することはない。彼はただ自然とそこに座っていて、そんなことを微塵も必要としていない。
 うるさい連中が何を鳴こうが放っておけ。先生はとうにそれらに、「さようなら」を言ったのだ。
「成る程」
 と。随分経ってから再び猫博士は呟いた。しかし、頭の中では全然別のことを考えていたし、破れ靴閣下はおいしそうに、お茶をすするだけだった。




* * *




 夜半。喉の奥から持ち上がってきた酸味に目が覚めた。
 寒いので出たくはなかったが、嘔吐感がどうにもならず布団から這い出し、障子を開けて、石のように冷えた廊下へ出た。
 冬は黒い板や柱を厳しく支配していた。彼はがたがたと震えながらも縁側に座り込んだ。雪隠は遠いし暗いので、こんな調子の悪い時には、行きたくない。
 風になぶられて落ちた枯葉が動く中を、屈み込んで胃液を吐いた。普段出したこともないような、うげぇというような不快な物音を自分の喉が発するのを耳が聞いた。
 悲しくもないのに涙が盛り上がる。破けて後追いのように凍れる土の上へ降って行った。
 心臓が、鳴っている。吐く息も吸う息も辛くて臭い。吐いている間は呼吸が阻止されるから、喘いでしまう。寒いためか全身が間断なく震え、割合に冷静な脳裏にうさぎの白い腹が思い出された。
 ややあって、ようやく吐き気が収まると、指で涙と口の周りとを仕方なく拭い去って、彼は、天上を見上げた。
 目の回る遠い闇に突きたたるような白さで星が瞬いていた。
「何を呼ぶんです」
 月より他に知るものもなかったが、彼はその時、笑っていた。
「今時分…」
 そして廊下は主人を乗せて、ぎしぎしと揺れながら、次第に奥へとしなっていった。




(−)




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