- 藪柑子漫談 -

(二十二)大風





 その時、無明の闇の中に、丸い光が現れた。光は、人の手の触れない土地に降る汚れのない雪を集めて太陽にかざしたものの如くに白かった。
 洋介はその光に吸い寄せられる自己を認めた。同時に破滅の二文字が脳裏に妖しく閃いた。
 けれども彼方に在るその光は、一度蓋を開いた穴のように、ある程度のものを飲み込まなければ、既に落ち着かないのだと謂わんばかり手招いた。
 洋介は不可思議な夢の世界の中で、数多のものがそれに吸い寄せられるのを見た。実家の居間に君臨していた巨大な柱時計が、飴細工のように伸び上がりながらそこへ落ちていくのを目にした時、もはや、自らに抵抗の余地の残っていないことを理解せざるを得なかった。

(「灯明」)



* * *




 その日、俺は困っていた。
藪柑子先生へ作品へのN氏――――まあ中川教授だろうが――――の挑戦的な発言が引き金となってつまらない騒ぎが起き、それに影響されて「昭光」の編集作業が押せ押せになっていたのだ。
 まあ普段から自分が編集長をする時には、無計画が祟って大概遅れがちではあったが、今回はそれに輪をかけた遅滞ぶりで、二、三日徹夜でもしなければ刊行日に遅れそうな始末であった。
 それで、後輩二人と一緒に講義にも出ず、机を並べて作業していたが、そこに木之井から原稿が送られてきて更に参ったことになっていた。
「なんじゃこりゃ…」
 今回木之井が担当するのは、二枚程度の随筆文である。雑誌の末尾にちらりと載るだけのテーマ自由の「おまけ」であり、なにやらばたばたしているらしい中で、きちんと郵送をしてきたのはさすがだが…。
「こんなもん載せられるかい…」
 木之井は今回の騒動についての私見を書いてよこしたのだ。その鋭利で完璧で、情け容赦のない内容に比べれば、大黒教授がしようとしていた抗議なぞ、ほとんど愛嬌の範疇だった。
 この刃に当たれば、双方が一気に沈黙する他ない。変な話だが、それは下らない応酬がだらだら続くよりもずっと恐ろしいことのような気がする。
 いつだったか彼が、城山書店の箕尾氏を黙らしたことがあったではないか。あそこにあったのは勝敗ではない。断絶だった。
 それでも俺は作業をしながら、貴重な時間を三時間も費やして迷いに迷ったが、やはり使わないことにした。代わりに後輩の書いた穏当な小作品を載せて、その頁を稼ぐことにする。目次担当からはすごい目で見られたが、これを載せるよりはずっとましだろう。
 …どうしたら、こんな殺し屋みたいな文書が書けるのだろうか。休憩時間、彼からの氷のように冷たい原稿を読みながら今一度考えた。
 勿論、彼は怒っているのだ。普段は概ね静かで、寧ろ無感動な男だが、こと藪柑子先生の事となると目の色が変わる。
 だがそれは俺だって一緒だし、猫博士だって一緒だ。それだけではこの殺人的な文章の理由にはならない。
 寧ろここにあるのは過剰ではなく欠落だ。俺は煙草をひねり潰しながら思う。
 彼は多分、人は刺したら血が出るということを、殴れば死ぬということを、侮辱すれば傷つくということを知らないのだ。
 だから―――――、脇腹が震えるほど面白いことだけれども、もしかすると木之井は、彼は、「今回藪柑子先生が何をされたのか」ということについても、本当には、分かっていないのかもしれない。
「………」
 やはり、これを載せるわけにはいかん。俺は眉間に皺を寄せて、机上に手を組んだ。
 過激だから載せないのではない。欠陥品だから載せないのだ。こんな騒ぎが起きている最中の発行であるから尚更に、我等が「昭光」のレベルを人以下に落とすわけには行かない。
 それにしても一体、彼はどうしたのだろうか。東京にはいるようだが、もう半月ばかりも姿を見ていない。手紙には「家庭内の用事で」とあるし、複雑そうな様子だけに遠慮せざるを得ない。
 しかし心配ではあった。こんな原稿を送ってこられたら一層だ。一人で、音もなく閉塞して、どこかで困っているんじゃないかと。
「どっかおかしいとはずっと思うとったが…」
「何です?」
 反応する後輩の一人に手を振る。
「独り言独り言」




 夕刻、近所に飯を食いに行って、さて作業再開であると思った時だった。用務の爺さんが部屋へやって来て、俺に電話が入っているという。
 文科棟内には、教員控え室に一基だけ電話機があった。だがもとより一般的ではないし、こんな呼び出しは滅多にない。
 皮膚の下で厭な感触が動いた。心の底から出たくない、と思った。
 しかし致し方ない。引き寄せられるように暗い廊下を進んで、寒々しい部屋の電話機の前に立つ。黒い小喇叭を右の耳に当て、目の前のもう一つの喇叭に向けて、白い息を吐いた。
「もしもし? 高田ですが?」
「…やあ……、紅梅君…」
 雑音と共に入ってくる電話の声の主は、意外中の意外だった。徳永だ。
「徳永ぁ…?」
 家族に不幸でもあったのかと思って身構えていた俺は、正直拍子抜けして素っ頓狂な声を出した。
 が、この時の自分はまだ知らなかったのである。お楽しみはこれからだった。
「何じゃお前、いきなり学校に電話なんか、どうしたんな?」
「…いや、…ちょっと挨拶を、と思って…」
 外では関東特有の大風が吹いていた。雑音が混じり、聞き取りにくくて顔をしかめる。
「あいさつ? 挨拶言うたか? 何じゃそりゃ?」
「僕らはもう、戻らないから…」
「―――――は?」
 低い声が出た。言葉とは裏腹に、俺は徳永のこの奇妙な行動、奇妙な声、奇妙な言い草から、一つの解にたどり着こうとしていた。
 幽霊のように、厳島の山中に消えていった友人の記憶があった為かもしれない。
「おい。何事じゃ、お前。まさか」
「色々世話になったね…」
「待て! お前、今、どこじゃ?! どこからかけとる?!」
「…宿だよ。でもここもじき、出発する」
 大風が明かりの消えた教員室の窓を一斉に揺らした。
「どこの宿な?! 徳永、こんな時間からどこに行くんな?!」
「……それは…もういいんだ。…僕はただ、挨拶をしようと思って…」
「ああ?! ちょい待たんか!」
「紅梅君。もう時間なんだ。連れが待っているから」
「待て徳永! 切るな! 藪柑子先生には言うたんか?! 知っとってんか?!」
「…いや…。しかし事情は…、ずっと木之井君に話していたから…」
「………」
 愕然とした。木之井に。
馬鹿か。
 いや、そんなことを言う場面ではないことは分かるが、それは人殺しに、人生相談をしたようなものではないのか。
「……徳永……」
 体の中で、何かがぐるぐる回っていた。ああ、一時間前は何も知らなくて幸福だったなと考えていた。どこから、何を手始めにこの事態を是正すればいいのか、見当もつかない。
 思えば彼に向かって途方に暮れたことはこれが初めてであった。最後の徳永の声に、喜色があると見えたのは、俺の妄想か。
「それじゃ、然様なら」
ブツ。と音もよろしく電話は切られた。
 うわああ。総毛立ちながら俺は頭の中の中の奥まで、その音で一杯になった。瞬間的に全身がうわあだったのだ。身も浮き上がるかと思われた。
 とにかく電話を一回切って、それからハンドルをぐるぐる回して交換手を呼んだ。料金はどうにでもなれだ。藪柑子邸には電話がないので、向かいの田中邸に電話をし、誰かを呼んでもらう。
 電話口に相手が現れるまで、俺は歯を噛み合わしてもどかしさに震えながら闇の中で待っていた。鉄(かね)の窓枠が風に煽られ、激しい調子で共にばたばたと鳴っていた。




 もはや編集作業など二の次になった。俺は寒風の洗う東都の夜を走り回る羽目になった。
 運良く藪柑子邸には猫博士がいた。先生はやはり体の具合がよくないので、新たに起きたこの騒動については受けられるところまで博士が受けると言ってくれた。
 とにかく、徳永が誰とどこに行ったのか、そもそもそれは本当なのか、目鼻をつけねばならなかった。事情を手短に話すと、博士は俺に徳永の下宿を尋ねるように言い、自分は木之井を呼び出してみるからと言い残して電話を切った。
 外套を無理強いのように体に巻いて通りを駆けた。微妙な問題だから、後輩達を狩り出すわけにもいかない。
 二十分後、徳永の下宿に着いた俺は、早々寒い思いをせねばならなかった。取り散らかった部屋の中に、田舎風な女がぼんやりいたのだ。しかもその腹が膨らんでいる。
 貸し主は五十過ぎの未亡人で、二十三の娘がいる。その娘と徳永が懇ろになったから、所帯でもと思っているところに、田舎から彼を追いかけて女が出てきて、非常に困惑していたのだという。
 妹だって言われましたけど、似ておいででなくて。と女主人は言う。
 俺は三人のど真ん中で間抜け面をしながらしょうがなく尋ねた。栄一君はどこですか。
知りません。
昨晩から、帰って来ません。
 了解を得て、徳永の机を漁った。生きるの死ぬのと姦しい「千代子」からの手紙が沢山と、書置きが一通。
「二人で永い旅に出ます。探さないでください」



 ふざけんなこの野郎。
女達の気持ちを代弁して、俺は一発吠えた。





高田梅太郎(紅梅)





<< 戻る 藪柑子漫談 次へ>>