- 藪柑子漫談 -

(二十三) 迷走




 忘れもしない。あれは師走十二日のことだった。寒い秋が終わって暮が見え始め、また一年が終わるのかと心落ち着かない時分だった。
 藪柑子邸に先生の様子を見に来ていた私こと猫は、泡を食った紅梅君から徳永君失踪の報を受けて、そのまま帰れなくなった。
 病身の先生の側で騒ぐのは気が引けたが、私の家は少し不便なところにあったし、紅梅君も木之井君もかつて来たことがなかった。それで早くお休みになろうとしていた先生と奥様に許可を得て、居間の六畳を使わせて頂くことにした。
 他方で、偶々一緒に連れていた教え子に駄賃をやって木之井邸まで走らせた。彼の家は三田であった。
 この時の運の悪い生徒は、その後二年経っても五年経っても冬が来るたび、先生に走らされたあの日は殊の外寒かったと恨み節である。
 確かにその日は、大変に冷え込んだ晩であった。私は眉間に似合わない皺を寄せ、上空で風の唸る声を聞きながら、火鉢の前で腕を組んで待っていた。時折振り子時計がチーン、と高い余韻を残して時刻を打った。
 やがて紅梅君が現れた。さすがに大声での挨拶は控えて、背を丸めるようにして居間に入ってきた。凍えて思うままにならぬ手で懐から、分厚い手紙の束を取り出す。
 正直その量には恐れ入った。まとめたら冊子くらいにはなる嵩である。
「檜原千代子…?」
 しつこいほど繰り返し現れる名前に顔を上げた。歯を食いしばって、火の上で懸命に両手を擦り合わせる紅梅君が、
「ご存知です?」
と言う。
「いや。直接は知らないが…。ヒノハラ…。同じ名前の人が確か先生のお知り合いにいらっしゃったような…」
「ほんまですか?!」
「同じ人であるかどうかは分からないね。しかし沢山在る名前ではないし…。後でお伺いしてみよう」
 手紙は全てが年内に書かれたものだった。それでこの量とくれば、二、三日の間を置かずやり取りしていたことになる。
 手元にあるのは全て女性からの文だったが、内容は危なっかしいものだった。西洋から輸入された切り、練られることも突き詰められることもなく使い回されてきた危険な語句が無造作に散りばめられていた。
 文章は巧みだ。しかし語彙が浮ついている。彼女は生活の話をせず、天上の見たこともないものの話をしている。そして背後では苛立っている。自分がどっしりと重い、日常と肉体の持ち主であることに。
 多分この文章を書いた女は―――失敬―――、髪の毛や顔立ちやあかぎれや、肉や、男性や、金の話をすることを、つまらないことだと思っている。それよりも禅とか精神とか魂魄とか、崇高なる思想の湯を浴びて塵埃を流れ落とし、澄んで清らかな自分になりたいのだ。上へ上へと、昇りたいのだ。
 私は手紙を読んだだけで、実際彼らについては何も知りえない。だが、それでも自然と頭の中に、この女性に尊敬されようとして逆に振り回され、非合理な行動へ引きずられていく混乱した徳永君の姿がありありと浮かんできた。
 ともかく、この檜原千代子という女性がどこの誰なのかを突き止めるのが先決だと思ったときだった。玄関に気配がして、青い夜の冷気を外套に光らした、木之井君がやって来た。
 祈るような紅梅君の横顔が、私の目に映った。




「『檜原千代子』は、日本女子大学の卒業生です」
と、明瞭な声で木之井君は言った。
「在校じゃないんか?」
「違う。甲西さんの先輩だ。…有名な才女で、禅を組んでみたり詩をひねってみたり、女生徒の中では神様みたいな存在だったらしいです」
「そんなんとどこで知りおうた?!」
「静かに…。彼は一声社の声かけで、あそこで講演をやったことがあるんだそうです。その時、女性のほうから近づいて来た、と彼は言ってましたが、本当かどうか」
 私は手紙を読んだために再び冷え切った指を、ゆっくり腕を組んで脇に挟みながら、夜のためか、普段にも増して蒼白で冷静な彼に尋ねた。
「今、徳永君が一緒にいるのは、その女性で間違いないと思うかね?」
「そう思います。随分入れ込んで、その話ばかりしていましたから」
「行き先の心当たりは?」
 その時、彼の薄い唇から、吐息と共に笑みが漏れた。右から崩れるように左に向かってそっぽを向き、彼は失笑した。
「さあ…、そこまでは分かりませんね。僕も最近は会っていませんでしたから。しかしまあ華厳の滝だか、あの辺りじゃないでしょうか」
「何で分かる?」
 と、紅梅君が驚いたのは、近々の手紙にやたらその滝の名前が出てきていたからだ。木之井君はそれを目にしていないはずだった。
 彼は紅梅君に目をやった。
「分かるさそれくらい、話を聞いてれば。思想にかぶれて自決したいなぞとほざく連中が軒並み憬れる場所じゃないか」
「お前にも、『死にたい』なんて言うとったんか?!」
「言ってないよ。でも分かるよ」
 いちいち反応されて暑苦しいのだろう。彼は顔をしかめて面倒くさそうに言い足した。
「手紙を何度か読ませられたことがある…。あんな益体もない野狐禅問答がたどり着く先は一つだろう。君だって僕の立場だったらすぐ分かったさ。
 …にしても、どうせやるならもっと潔くしてくれればいいのに。未練がましく電話なんかかけて、不細工にも程がある」
 その時、沈み込もうとしていた意識を引き起こすかのように、玄関で誰かが木戸を叩いた。
「…? 誰だ?」
 紅梅君が足を解いてすぐ立つ。ややあって戻ってくると、緊張した面持ちで、私を呼んだ。
「田中さんとこの小間使いさんでした。藪柑子先生に言うてお電話が入っとるそうです。…ヒノハラさんからです」
 私も立った。僅かな廊下を足早に歩いて履物を突っかけ、今日何度目かの田中邸へお邪魔した。
 電話の相手は、檜原賢三と名乗った。ああ。やはりそうだ。私はその名前を、先生に寄せられた年賀挨拶の葉書で見たことがあった。
 遠い昔。仙台の頃だ。どなたですか、と尋ねたら先生は、それは高等師範学校の時の同僚だと。
 私は事情を話し、藪柑子先生の代わりに悲痛なその電話を受けた。




* * *




 居間に残された紅梅と木之井は、互いに黙然として座っていた。だが、その種類は少しく異なっていて、紅梅は言いたいことがあるが言い出しかねていたのであり、木之井の方はただ何もないので黙っていただけだった。
「…お前、大丈夫か?」
 とうとう紅梅が口を開いた。長い躊躇を挟んだため、喉が渇いて咳払いが必要だった。
「何が?」
 横顔が鋭い険を持って僅かにこちらを向いた。こう来るだろうとは分かっていたため、紅梅は割合に落ち着いて続けた。
「家が、ゴタゴタしとるようじゃないか」
「何もない」
 ぴしゃり。と鼻先で障子を閉められたような気持ちがした。紅梅は何とも言いがたい顔つきのまま、腕を掻いた。座は爾来静まり返った。
 やがて冷え切った体を抱えて、猫博士が戻ってくる。その表情は固かったが、それに気づいたのは紅梅だけだった。
「昨晩から娘さんが帰らないので、檜原の家のほうも心配して、行きそうな場所をあちこち探していたらしい。
 婚前の娘さんのことだから、事を荒立てたくなかったらしいが、仕方なく今日の昼に警察に捜索願を出したそうだ。
 そうしたら夕方、昔の学友が黙っていられなくなってやって来て、家族に、娘さんから聞かされていた打ち明け話を全部話した。それで先方も同行者が徳永君であることを知って、それが藪柑子先生の門下であることも分かり、昔のよしみで電話をかけてきたというわけだ」
「昔のよしみ?」
「檜原さんは、先生の昔の同僚だ。師範学校で教師をなさってたことがある。それで、彼らの行き先は分かったから、どうか騒がず内密に、ということを連絡してきた」
「奥日光ですか?!」
「いや。塩原へ行ったらしい。娘の友人が言うにはその計画だったそうだ。それで警察が調べた結果、彼らが昨日の夜、田端駅発大宮行きの最終汽車に乗ったことが分かった。
 そこから大宮の宿が割れたが、二人はもう発った後だった。やがて西那須付近のある温泉宿から、今日それらしい客が来たが、夕食を食べて後二人でどこかへ出てしまってそのまま帰らない。という連絡が警察に入った」
 紅梅の顔が凍りつく。それを見ながら、博士は言わねばならなかった。
「奥塩原は雪だそうだ。彼らは俥を雇って御花峠のふもとで降りた。そして山に入っていった。…と、いうところまで分かったと、檜原家に連絡があったそうだ」
「それで捜索は?!」
「紅梅君、静かに。ご迷惑だよ」
嗜めたのは木之井だ。
「冬の雪山に夜、捜索人が入れるわけがないだろう」
「…その通りだ。この時間からは無理だ。残念だが、今は人を集めて、夜明け待ちだそうだ。それまでの間は…、彼らが思い留まってじっとしておいてくれることを望むしかない」
 備えの無い都会の者が、雪山に入って一晩。たとえ二人が能動的に何もしないにしても、結果の予想はますます暗かった。
 猫博士は、一旦話の矛先を変える。
「…檜原家では連絡を受けて娘の母親と友人が那須に向かっている。こちらからも…」
「わしが行きます」
 徳永は東京に知己が極端に少ない。付き合いのある者はいても、こんな事件を起こした時、迎えに行く義理のある者の顔を思い浮かべることは難しかった。
 それを数え上げる事態になるより先に、紅梅は自ら出た。
「うん」
と、博士も頷く。
「とはいってももう列車は止まっている時刻だが」
「明日、朝一番で発ちます」
「金子はあるかね?」
「ええっと…、月初めじゃし、…何とかなる思います。もし足りんかったら朝、お借りします」
「分かった」
「じゃあ、わしちょっと帰って準備してきます。『昭光』の編集連中にも、一言断っとかんと…」
「紅梅君、暫く」
「…?」
 普段は穏やか尽くしで柔らかい猫博士の声が、決意を秘めた強さで腰を浮かしかけた紅梅を止めた。驚いた表情の彼の前で、博士は、一言も言わず座している木之井へと眼差しを向ける。
「木之井君」
「はい」
「君は何故同行すると言わないのか」
「……?」
 木之井は、微かに眦を潜め、猫博士の視線を受けとめた。戸惑う、というよりも濃く、迷惑の情がにじみ出ていた。
「一人が行けば、存分ではないでしょうか」
「そんなことを聞いてるんじゃない」
「二人くらい出ないと、格好が付かないですか?」
 息を呑む音が聞こえた。木之井は不愉快げな、そして確かに不思議そうな顔で、色を無くした紅梅を見る。
「なんだよ、その芝居は?」
声には出さなかったが、彼はそう言っていた。
「――――木之井君。君は、本気でそんな情けないことを言っているのか」
「……?」
 今度はより強く困惑が出た。加えて、自分を攻撃するものに対する怒りと悪感情とが、目に混ざり始めている。
 猫博士は木之井を捕まえようとしている。そう悟ると、紅梅の脈は恐ろしさに震えた。
 彼は声はでかいが至って平和を愛する男で、人一倍人同士の諍いが苦手だ。消え入るような思いで膝頭を掴み、やっとのことでその場に留まっていた。
「木之井君。君はずっと徳永君から相談を受けていたそうじゃないか。彼は君に好意を持ち、友人として信頼していた。
 事実、君は我々の中の誰よりも彼についてよく知っている。彼が交際していた女性については勿論、あまつさえ、こういう行動に走りそうなことまで見通していた。さっき、君が自分でそう言った。
 それなのに何故、そのままにしていた?」
「………」
「君一人で受けきれなかったというのなら、何故誰でもいい、私でも紅梅君でも、藪柑子先生でもいい、他人に相談しなかった? 出来なかったはずはない。
 それなのに君は彼を助けなかった。誰にもそのことを話さなかった。放置するがままにした。何故だ?」
「…わからないんですか?」
 木之井は、白い顎で、畳の上に散らばる、手紙を指した。
「馬鹿馬鹿しかったからですよ」
 博士は動じなかった。
「ではどうして彼を突っぱねなかった」
「………」
「僕は君が徳永君にそんな本心を話すのを聞いたことがない。僕が見る限り、君はいつだって微笑みながら同情の態を持って彼の話を聞いていた。
 ――――馬鹿にしていたのだね?
彼を。本心を裂く価値などないといって。上辺ばかりで彼の話を聞いて、その実は見くびって冷笑し適当にあしらっていたのだね」
 静かなのに大いなる声が、一語ずつ、紅梅の血管を押した。
「君は、自分が友達に何をしたのか分かっているのか。自分がどんな卑小で狡賢く、情けない人間だか自覚があるか。
 君は友達を裏切った。君は友達を馬鹿にした。一体そんな人間がどうしてそんな澄ました顔をして、平気で座っていられるのだね? 全体自分を何様だと思っている?
 それは徳永君のしていることは無分別なことだ。いっそ愚かなことだ。だが、彼の愚かしさは君の得点では断じてない!
 彼は君を信頼してそれを曝した。だのに君はそれを故意に見過ごし腹の中で笑っていた。ならば君はそれに連座したも同然だ。その愚かしさに加担し、もし彼が死ぬのならその責の幾ばくかは君の傲慢にある。
 何を座っているのかね。何故座ってられるのかね。
明日、汽車が動く時間になったらすぐに、紅梅君と一緒に塩原に彼を迎えに行きたまえ。そして今私が言ったことが尚分からないのなら、君はもう、ここに来なくていい」
 静かだった。夜を吹き荒れる大風の音も、時計の音も、今やこの静寂に干渉できなかった。
 薄暗がりの中で、木之井の目が光っていた。その頬は青ざめ死人のようだった。しかしやがて唇が動き、普段と全く変わらぬ声が抗議を繰った。
「何の権利であなたが、そんなことを仰るのですか」
 猫博士はびくともしなかった。彼は大人であり、学者であり、教師である。普段思い出しもしないそんな事実が、その態度の基を為していた。
「私は君よりも実際に長く、遥かに誠実に先生を存じ上げている。先生も様々な意味で他人に悩まされておいでだ。今も、昔も。
 だが、上辺だけ取り繕っておいて、腹の中で笑ったりなさったことは一度もない。
 明日、徳永君のことをお知りになったら、先生はお怒りになるだろう。だが嘲笑はなさらない。
決して。
 同時に、徳永君に対して君がしたことをお聞きになったら、さぞ傷つかれることだろうね。
 繰り返して言う。もし私が今言っていることの意味が分からないなら、君は二度と、この家に来なくていい。先生には、私からそう申し上げておく」
行きなさい。
 限りなく長い五分が流れた。その間、木之井の顔に変化は無かった。
 だが、やがて彼は動いた。きちんとした正座を解いて、立ったのだ。紅梅も彼の様子を見ながら遅れて立った。
 彼らは漆黒の玄関に至った。
「朝八時に田端駅に」
 先に草履を履いて木之井が振り返った。やっぱり変わらない顔だった。だがその奥に赤い血が渦巻いていると分かった今となっては、その無表情が怖かった。
「お前、大丈夫なんか」
 そんなことを聞く場面でもなかったかもしれないが、落ち着きを無くしていた紅梅はつんのめるようにそう白い息を吐いた。
「何が?」
「家がゴタゴタしとるんじゃないんか。博士は、ご存じないで。…今家を空けてもええ…」
 瞬間。電気が走るように木之井の顔に憎悪が駆け抜けた。紅梅はぞっとして舌を止めた。
「死ねばいいのさ、あんな男」
木之井は笑い捨てて、暗い玄関を出て行った。
 明日八時、田端駅にと彼は言ったが、紅梅にはその明日など、永遠に来ないのではないかと思われた。




小西 豊松(猫)




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