- 藪柑子漫談 -

(二十四)幽霊・目覚め





 知人の狼狽を受け取り、電話を置いても、まだ千代子が下りて来なかったので、徳永は旅館の玄関横に設えられた洋風の応接間に入り、腰を下ろした。
 小机が片付けられてそこに火鉢が置いてあった。白い灰の真中で炭は音も無く、宝石のような赤さで燃えている。
 静かだった。夕飯が終わる頃であるから勝手は忙しいが、訪れる客もなく玄関は無人だ。足音が少し高くなることがあっても、またすぐに離れていく。
 外は雪で、中に増してしんとしていた。徳永はこんな夜をよく知っている。北国の夜だ。彼はそこに生まれ育った。白いため息を吐き出すと、重い体が椅子に沈み込むようにして、心が落ち着くのがわかった。
 死に向かっているというのに、彼は不思議なほど平静だった。というよりも、頭の芯が痺れてしまったようで、気を引き締めても色んな言葉が上滑りし、はっきり物事を考えられなくなっていた。
 昨夜は大宮で一泊したが、千代子と語り明かしてほとんど眠っていない。そこからまた汽車に乗って、昼過ぎに塩原へ入った。湯につかり、夕刻まで語りに語り、それから飯を食った後、徳永は事に及ぼうとした。
 何かが足りないと、思っていたのである。緊迫した手紙をやり取りしてその度息詰まる思いをしていた東都の日々に比べると、出奔してからの彼女との関係には、二人が近づいた距離の分だけ奇妙な据わりの悪さが生まれていた。
 迷うのではない。徳永も、千代子も、自分たちが今何を為そうとしているのかはよく分かっていた。そのために互いが無くてはならぬ存在であることも明白に理解していた。
 だから夜間の移動となった旅程や、宿の選択などという危なっかしい要素についても、千代子からは不満さえ出なかった。
 二人は取り乱さず、逡巡することも無く、ただ着々と前進しながら、度々言葉を掛け合って互いに目標を見失わなかった。
 徳永は千代子の意志の強さに感嘆を覚えた。こんなふうにして彼女は絵や文学や禅などを攻略してきたのだなと思った。
 彼女は一度目標を定めると、覚悟を決めて計画通りに整然と実行し、決して挫折しない。過程で自堕落や飽きなどといったあやふやな要素が入ることもない。研ぎ澄まされた精神で集中し、当然のように目標を勝ち取るのだ。
 有能。という言葉が湧いて出る。男にだってこんな気持ちになったことはない。徳永が関ってきた有象無象の中で誰一人として、彼女の精神力に太刀打ちできる者はいないように思われた。
 だが、徳永は大宮の夜を越した頃から、一個の気がかりな思いが脳に宿っていることを感じ始めた。
 それで、それを無くすために千代子と床に入ろうと思ったのである。徳永は千代子のように冷徹な人間ではない。布を被いた幽霊のごとき不安が湧いて出て、その正体を探ろうとは考えない。彼は解決するのではなく、憂さを晴らすことでいつも場を凌いで来たのだ。
 だから同じように凌ごうとした。この捉えどころの無いカビの様な毛玉が、何であろうが構わない。女の体に溺れ、脳髄を快感に潜らせれば、そんな幽霊はたちどころに分からなくなってしまうはずだ。
 千代子はそれに応えなかった。それは私たちの目的のためにどうしても必要なことではないと言った。
 徳永は納得した。本当に納得した。彼女に言われたことは、自分でも薄々分かっていたことだったからだ。魂の高潔を貫き、意志的な死によって自らを完成させることに、同衾は必要ではない。
 彼らは結局関係を持たなかった。同時に幽霊は去らなかった。それどころか徳永の頭の中で段々と膨らんでいくようだった。
 千代子はそうではないようだ。後の素振りを見てもそう思う。彼女は相変わらず、まっすぐな道を目を見開いて着々と歩いている。
 徳永は今、大きくなった幽霊の名前を知らざるを得なかった。孤独だ。彼は女との情死行の最終段階に来て、孤独を感じているのだった。
 だがそれ以上のことは、うまく考えられなかった。大体が考える段階でもなかった。目標は千代子が知っている。過程も千代子が知っている。一旦決まったことなのだから、後は黙ってやればいいのだ。
 ただ、千代子が仕度する間に先に玄関へ下りた時、手持ち無沙汰な数十分の中で、徳永は自然と、電話へ手をやった。
 別段、何がしたかったわけでもないのだ。心の中はからだった。紅梅の声が聞きたかったはずもない。大体、繋がるとも思ってなかった。
 案の定、紅梅を驚かしても特にどうということはなかった。ただ、彼の動揺が面白くて少し笑った。笑いが一抹の血流を彼の脳に送った。
 何故だ。
と、その血はうめいた。



どうして俺はこんなにも孤独なのだろう。



 その時、千代子が降りてきた。彼女は身づくろいをして化粧をしていた。
「では参りましょう」
と言った。
 人間は、心が空っぽのままでも、目標さえあれば、前に進んでいけるものだと徳永は知った。それともこれは、現代人の特性なのか。
 いつか人間はこんな心理のまま、戦争とか、虐殺とか、すごい真似を、やってのけるようになるのかもしれない。
 そんなことを考えながら、徳永は椅子を立った。




 山の頂きで死にたいと言ったのは、千代子だった。埃にまみれた下界を離れ、清らかな山頂で日の出の光を浴びながら涅槃に旅立ちたい。
 望むのは簡単だが、実際に行くのは大変だった。俥は麓で降りねばならない。そこからは真っ暗闇の中、雪でまだらな山道を進んでいく。
 帽子からはみ出した耳が痛かった。都会育ちの千代子は山になぞ登ったことは無い。気遣いながら、馬鹿馬鹿しいほどのろのろと、上っていった。
 辺りは、頭に堪えるほどの静寂だった。なるほど清らかな場所は違う。人もいない。灯りもない。雪は全く音を吸い込み、生物の気配さえない。末端から中心へと冷気が攻めてくる。それでいて息は上がっている。汗が出る。
 小さな沢を越した辺りで、千代子が不安そうに言った。
「こんな調子で、朝までに頂上にたどり着けるのでしょうか?」
 さすがに分の悪いことが分かったらしい。思考と瞑想の場では神様みたいになってしまう彼女も、このような体勝りな場所では勝手が違う。頂上まで到るという計画は無謀であったかもしれないと思い始めたらしい。
 徳永は初めて聞いた弱気な声に、ちょっとかわいらしさを覚えながら尋ねた。
「疲れたかい? 休もうか?」
 すると千代子は、
「疲れてなどはいません。ただ、さっきから足が痛くて…」
徳永は心の中で笑った。
「では、ちょっと休める場所を探そう」
 彼らはこのようにして、雪の積もった寒冷の山中を、休み休みしながらよちよちと進んだ。進んでも進んでも緩まるどころかますます厳しくなる寒さが、彼らの足を縺れさせ、いつしか自覚も無いまま道に迷っていた。
 しかし別段に支障は無かった。その頃までには既に、山頂まで行くなどというのは明らかに無理だったという自覚が生まれ、別の方法を考え始めていたからだ。
 それでも千代子は口惜しそうだった。やがて窪地に何度めかの休憩をした時、とうとう「次に行けるところまで行ったら、そこで死を迎えましょう」と言い出した。
 いいだろう。と徳永は思った。
くたくただった。寒かった。辛かった。
辛苦に弱い徳永は正直、もうたくさんだった。
「頂きに行くことが出来ないことは残念でしたけど、いいのですわ。私は幸せです。私達は泥の中から生まれたけれど、人々が気づかない世界の真理に触れ、死ぬことによってその世界へ入るのですから、悔いはございません。
 あなたのように正しい方と一緒に、崇高なる世界へ旅立てるのですから、それで十分ですわ」
 闇の中で千代子の両目が爛々と光っていた。彼女は困憊した徳永と違い、まだ目指す地点を見失ってはいないのだ。
 彼は奇妙な震えの中でその顔を見た。もう後は死ぬばかりだ。肩肘を張る必要は無い。幽霊を振り切りたかった。
 徳永は、言った。
「千代子さん。最後に一つお願いがある」
「…なんですの?」
「僕もあなたとここで死ぬことは本望だ。今更この世にひとかけらの未練もない。
 でも一つだけ、お願いですから、最後に言ってください」
 ただ口に出すだけなのに、涙が滲んできた。ああ、これこそがずっと言いたかったことなのだと思いながら、徳永は一語一語、搾り出すように哀願した。
「千代子さん。あなたの目指す崇高さと正しさよりも、ほんの少しでもいいから、僕のことを愛していたと言って下さい」
 世界が音を立てて割れたのは、その瞬間だった。彼らは共に今自分たちこそが、本当の世界を見ていると思っていた。世間の連中が営んでいる世界など、まがいものだと見くびっていた。
 だが、千代子の知性はその発言の意図を鋭く悟り、徳永こそがまがいものである兆しを嗅ぎ取って、愕然とした。
「何を仰ってるの…! 何を仰ってるのです、栄一さん。やめてください、そんな下らないことを、こんな時に!」
「下らなくは無い。大事なことです。人として自然な望みです」
 徳永は泣きながら怒る千代子の手をとった。自分の頬に近づけようとした。
「あなたと一緒に死のうという男です。情けを掛けてくだすってもいいでしょう。嘘でもいい。言って下さい。僕のことを何もかもよりも愛していると」
「何をあなたは…! 黙ってください! 私の行いを汚さないで!
 私は真理の為に死ぬのですわ。あなたは私の師だと思ったからこそ、こうしてご一緒におりますのに!
 真理はそれは過酷なものですわ。その厳しさよりも、ご気分のほうが大事だと仰るの?! 同情され愛されることの方がいいと仰るの?!
 それなら、世間並みの人のように結婚してお子を設けなさい! そして誤魔化しと偽善で人生を飾り立てればいいじゃありませんか! どうして今頃そんなことを…!
 …分かりましたわ。あなたは怖気づいておしまいになったのね。いざ死のうとした今になって、死ぬのが恐くなられたのね。なんて意気地のない!」
 千代子は鳥肌を立て、手を奪い返した。
「そうじゃない。死ぬのは構わない。僕はあなたを愛しているんだから構わない。
 でも僕も愛されたい。愛されたい。そう――――」
 眼鏡の下を、ぼたぼたと涙が流れた。彼は、こんな時になってようやく、自分にも自覚の無かった核心へふいに辿り着いてしまった。
 めまいのなかで徳永は吐露した。今まで彼女に捧げた全ての言葉を合わせても匹敵できないほどの本心で――――――
「僕は愛されたいのです…!」
 教師とも、父親とも思っていた小説家が、この場に至って瓦解した。現れたのは、ただ脂肪で膨らみ、恥知らずに女に同情と慰めを迫る、意志の弱い並み以下の男であった。
 千代子はありありと悟った。この男の、あの手紙は、「愛されたい」が故に自分に尊敬されようと思って書いたものだったのだ。全ての言葉も、全ての行動も、結局は、自分のために為された芝居だったのだ。
 謀られたと思うと、その怒りは現実に汚されるよりも激しかった。彼女は自分が雪山にいることさえ一瞬忘れた。
 千代子は男を詐欺師と責めた。自分のためだけに私を唆したと言った。すると徳永はあなたこそ自分のためだけに、私を心中につき合わすのではないかと泣きながら反駁した。
 私は古代の王の道連れに、生き埋めにされる奴隷ではない。あなたは自分の偉大さの証明のために、僕の命を奪うのだ。立派な男と心中したらあなたの価値が上がるからそうするのでしょう。
 あなたは「立派」な人間にだけ近づく。価値のある男にだけ媚を売る。あなたは人を愛することなどないのだ。自分の価値だけを信じ、そのために人を犠牲にするのだ。
 言い合いの末に、二人は黙り、闇の中で、ぜいぜいと息を弾ませながら互いに睨み合った。
 ひどい気分だった。夜は続いていたが、二人は目覚め、全ての神聖な儀式も使命感も消えていた。
 残されたのは、師走の夜の冷気の中、「崇高に死ぬ」とほざいて山へ登った酔狂で愚かな二人の人間と、――――もし生き延びれば――――後に続く、無駄に長い、履歴に傷のついた人生だけだった。




(−)




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