- 藪柑子漫談 -

(二十五)孤独




 終わってみれば、全く馬鹿げた騒動ではあった。新聞は俺達が追って田端を発った日の号から「『陽炎』文士と哲学令嬢の情死行」などと華々しく書きたてたが、そんな実質が彼らの間にあったのかどうか。
 そんな失敬なことを疑るのは、結局不可解なほどの悪運に恵まれて生還した彼らが、それ以後雑誌や新聞などで互いを元凶と名指し、口汚く罵り合う間柄に落ちたからだ。
 嫌々それを読む度に、彼らの間にそもそも理解とか思いやりとかがあったのかと、俺は首をひねらざるを得なかった。恋人同士の喧嘩というより、盗人が牢屋で責任の押し付け合いをしているように見えた。
 山鳴り動いて鼠一匹というわけだ。檜原女史は手紙の中ではやたらと「魂の真髄」などと大仰で、おそらく自分では新事業をやるつもりで山へ入ったのだろうが、結果は常の心中よりも余程見苦しく終わり、中身は図抜けて空虚だったというわけである。
 勿論、こんな考えは余裕の無いその当時には浮かんで来なかった。汽車で移動していた頃には、まだ二人の生死すら明らかではなかったのだ。だから俺は祈るような気持ちで、また実際に両手を組み合わせて奥歯を噛み合わせながら、苦しい道中を耐えていた。
 同行の木之井も黙りこくっていたから、我々の席は陰気だった。だが、彼は失踪した二人のことを考えていたのではない。彼はずっと、自分のことを、考えていたのである。
 俺は鈍痛のように続く重苦しさの中で、奇妙なことだと思った。人間は狭いと思った。窓から見上げれば空は果てなく続き、線路の走る大地はまろくて千里も数えるというのに、人間は回路を閉じて、その中でこれぞ世界これぞ真理と喚きながらぐるぐる走り回っている。
 目の前には、現実に骨と血肉と魂を持った人間がいるのに、一旦狂ってしまえばもう目に入らないし、それをどう扱うべきなのかも怪しくなる。
 しかもそんな無礼を互いが互いに行い合って、さらに各個の自尊心も絡むとあっては手に負えぬ。人は誰でも軽はずみに他人を糾弾するが、自分が欠けていることは易々と認めようとしないからだ。
 だから魂が健全であることは、実に無二なことだ。得がたいことだ。欠陥は透明で捉えがたく、歪みは恐ろしく正しがたい。
 やがて彼は汽車を下りる段になって言うのだ。
「やっぱり分からない…。他にどうするべきだった? 君も僕が間違っていたと思うか?」
 俺は目を開いている彼に何と言ったらいいか分からなかった。




 塩原の警察隊は明け方山に入り、一時間ほどで二人を発見した。彼らは山中で寒さのために身動きが取れなくなり、情死しかかっていたというよりも、凍死しかかっていたらしい。
 とまれ二人は宿へ運び込まれ、別々の部屋へ入れられた。俺たちよりも先に到着していた檜原家のご母堂が泣きながら千代子嬢を出迎えた。
 俺達が着いたとき、徳永はもう起き上がっていて、六畳の間に正座していた。その恰好のままうつうつとこみ上げる様に嗚咽していた。
 俺はそれを目にした途端全身の緊張が解けて、思わず安堵のため息を吐いたのだが、徳永は、顔も上げなかった。
「なんちゅう真似をしよったんじゃ、阿呆」
 俺は崩れるように彼の前に膝をつき、肉厚な肩に右手をかけて揺する。
「えらい心配したで」
 徳永は目を閉じて一際高く泣いた。前に両手をつき、身を震わせる。謝罪の一つでも吐かれるかと思ったが、
「…死なせてくれ……今からでも…」
泣き声の中にそんな言葉が聞き取れた。俺はなんともいえない気持ちになり、ただ彼の肩を叩く。
 …死に救いがあるとでもいうのだろうか。死ねば孤独でなくなるとでもいうのだろうか。何人もの女を背後に放ったまま逃げ出したこの男と議論をして、心行くまで論破してやりたかったが、同時に、苦々しく、分かってもいた。
 多分、徳永には俺の意見など無用だろう。彼が聞きたいのは木之井のような男の意見だ。
 「物静か」で「謙虚」で、「彼を攻撃などしない」人間の言葉なのだ。
 思った通り、彼はこんな時でさえ、側の俺を飛び越して木之井に訴えかけた。俺はそれを、辛い予感を抱えて聞いていた。
「木之井君。君は分かってくれるだろう。僕は真剣だったんだ…。真理を貫くつもりだったんだ。それが…、ウッ…どうしてこんなことに…」
「――――やめろ。見苦しい」
 背中に木之井の澄んだ声が響いた。脊髄をたどって頭蓋の中にこだました。
 俺は息を止めた徳永の肩に手をやったまま、顎を引き、まぶたを閉じた。
「何が真剣だ。何が真理だ。馬鹿馬鹿しい。手前の勝手な事情で大勢の人間に迷惑をかけておいて。
 大体が追い詰められればすぐ死ぬの生きるのと、どいつもこいつも芸が無いんだよ。君なぞ、山のどこかで首でもくくればよかったんだ」
「―――――」
 喘ぐように徳永が喉を鳴らした。
「……木之井君……!!」
どうして、そんなことを。
 今頃、木之井は徳永に対して誠実になったというわけだ。
 徳永は泣くのを止めた。多分同時に、死ぬのも止めた。離れて立ったままの木之井に翻った憎悪を抱き――――これ幸いと抱き、その綱に頼って恥辱と失敗の泥沼の中から現世へ戻ってくるのだろう。
 俺は、どちらの味方も出来ないのだった。彼らの仲間になることは出来かねた。奇妙な巡り合わせから、俺は俺で深い孤独を味わっていた。
 新聞はなんと言うだろう。世間はなんと言うだろう。だが、それらは決して今ここで起きているようなことまでは達しまい。核心から遥か遠くで、騒ぎたいだけ騒ぐだけだ。
 人間たちが狭い回路で、てんでに好きなことをやり合って、こんなふうに事件が起きても生還しても、ロマンなんかない。情けない。心はばらばらに離れていくばかりだ。




 檜原家は先に汽車で帰った。一本遅らせて俺たちも東京へ向かった。
 帰着すると夜になっていた。俺は疲労困憊していたが、駅に待ち受ける記者たちから徳永を守って、藪柑子邸まで入らねばならなかった。
 改札を出た後どうしようかと考えてあぐねていると、ホームで破れ靴氏にくいと袖を引かれた。
「あっちに俥を雇ってあるよ」
猫博士に言われて待っていたのだそうだ。
「徳永君、一人で歩いていって、俥に乗りたまえ。行き先も告げてあるし、運賃も済んでるからね」
 というわけで、記者を誤魔化すために俺たちは一人ずつになって改札をくぐった。
 しかし木之井は俥に乗らずにその場で去った。彼には結局、猫博士の宿題が解けなかったのである。
「もうちょっとしたら、わしから話しとくけえ。正月には、また先生のところで会おうのう」
 そう言ったが、彼は薄く笑うばかりだった。最後に鳥のように、
「千代千代」
と呟いてから、彼は人ごみに消えた。
 確かに、徳永は迷惑なことをした。結局この騒動によって藪柑子邸の輪から出ねばならなかったのは徳永ではない。木之井だったからだ。
 もう乗り物にはうんざりだったが、今また仕方なく人力車に身を委ねながら、俺は本当に弱りきって、似合いもしないため息をついた。
 正月が近いというのに心が悲しくて遣り切れない。目を閉じると塩原の山々や雪道や宿屋の様子などが次々と通り過ぎた。
 その後は、めまいの渦の中へ果てしも無い闇が雪崩れていくようで、去り際に見た木之井の孤独な後姿も、段々と血に紛れていった。




高田梅太郎(紅梅)




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