- 藪柑子漫談 -

(三十二)しくしく





 最初に耳に聞こえてきたのは、紙の上を鉛筆が滑るさらさらという音だった。
 長い夢を見ていたような気がする。
目を開くと、時間の分からない澄んだ空気と静かな明るさを感じ、それから馴染み深い天井の格子が見えた。
 音に誘われて顔を動かしたとき、布団と髭がこすれて何度か硬い音を出した。
 側に、水差しと茶碗の載った盆があって、その隣に破れ靴氏が座っていた。彼はいつものようにスケッチブックを持って、素描をしている。
 彼は主人が起きたことに気付きながらも、一枚終わるまで何食わぬ顔で続け、それから鉛筆を置くといきなり、
「目が覚めましたか」
と聞いてきた。声を出そうとしたが、驚くほど体内が空っぽで、うまくいかなかったので目で返事をした。
「また何か悪い話をなさってたでしょう」
…ん? そうさな……。
 何故か体の奥から笑みがこみ上げた。
…してた……。
「覚えてますか?」
 首を振る。やっぱり顎の辺りで髭がこすれた。
「昨日の昼に、急にお倒れになって、それからずっと意識不明の状態だったんです。一時は脈は落ちそうになる、瞳孔は開くで、もう本当に、お亡くなりになるかと思いました。
 実際何名かの方には危篤の電報打っちゃいましたから、皆さん駆けつけてくると思いますよ」
 パラパラと冊子をめくる彼の話を不思議な気持ちで聞いていた。確かに倒れたような気がするが、意識がなかったというのは意外だった。自分はちゃんとずっと起きていたような気がするけれど、外からはそうではなかったらしい。
 つまり自分は死線をさまよい、それから運良く生還を果たしたということであるらしい…。
 もう終わったことなのだろうに、今更恐ろしかった。何かが決まるその瞬間には、いつだって人間は何も出来ないものなのだと改めて分かったようで、自分を生かした紙一重の運命に、感謝というより、手も足も出ない畏怖を感じた。
 ううむと、常になく神妙な気持ちで一声唸ると、破れ靴氏が目の前に素描を突き出してきた。
「ほら、これが白目剥いてたときの先生のお顔です」
「………」
「こっちには前後不詳のまま注射を打たれまくる先生のお姿が!」
「………」



 側では家人が頼んだのであろう看護婦が、なにを非常識なことをやっているのだろう、と困惑の面持ちで二人を見ていた。



(匿名)




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