- 藪柑子漫談 -

(三十三) 春が来る




 夜が明けると、何もかもが変わっていた。
寝不足の枕から明るい自宅の庭を見て、理由もなく、藪柑子先生は大丈夫だ、と思った。
 果たして朝食の卓に向かうと、妻が微笑んで報せが来たと言った。先生は持ち直した。死にはしなかった。
 冬は駆逐されつつあった。通りに行く人はやはりまだきっちりと着込んで襟巻きなどしていたが、それでも徐々にその厳しさが減じていくのが肌に分かった。
 空の青みが増し、木の節々は膨れ、鳥達はもうじきだ、もうじきだよと鳴いていた。
 何十年を経た今でも、あの朝の光景はありありと思い出すことが出来る。いつの間にか入り込んでいた一つの山を、ようやく越したような気持ちがした。
 同時に我々の物語も、そろそろ終焉の気配である。




 藪柑子家には見舞い客がどっと押し寄せた。危篤の電報が出回ったのだから当然だ。それに朝刊にも「文士重体」と出たので、この日以後、手に負えないほど広範な人々から見舞いの品や電報や手紙がもたらされた。
 夫人は破れ靴君や女中に命じて、ほとんどの客については玄関先で面会を断り、そのまま帰らせた。難しいもので、このやり方については後々非難も出たようだが、前日まで本気で死にかかっていたのだ。私としては、やむを得なかったであろうと言いたい。
 昨日にまして忙しい家中で、破れ靴君を捕まえた。彼は陽のさす居間に座り込んで届いた手紙類の仕分けをしていた。
「先生はどうだい」
「ドクトルによればこのまま快方に向かうだろうとのことです」
「奥様やお子さん方は」
「大丈夫です。昼までにお手伝いに何名か来て下さることになってますし、子供達は八重子さんが面倒をみてらっしゃいますから」
「紅梅君らはどうした?」
「木之井君はさっきから先生についてます。コーバイ君は…、僕が起き出した時にはいませんでね。何かの事情で一旦帰ったらしいです。
 代わりといってはなんですがさっきコーサイさんがいらして、色々とお手伝いをしてくださってます」
「そうか」
一旦間を置き、それから再び口を開いて訪ねた。
「で、君は?」
 手を止めて破れ靴君は困ったように苦笑した。
「まあ大丈夫です。こういうのは珍しくありませんし。さすがに一晩中血みどろの夢を見てましたけど」
 先生の吐き出した血液の後始末をしたのは彼だ。感謝の意を込めてぽんぽんと背中を叩き、居間を出た。
 暖められた廊下を踏んで書斎へ向かう。さすがに近づくにつれて静かになってきた。玄関に近いので出入りは止めようがないが、みなこの部屋の近くでは、気を使って静かにしている。
 私も細心の注意で襖を開き、体を滑り込ませた。
 中は、清潔にしてあった。常日頃我々が集まって大話したり酒を飲んだりしているその間に、布団が敷かれ主人が横たわっている。眠っておいでのようだ。
 いつかはここに本当に先生の亡骸を迎える日も来るだろう。しかし、今日のところは――――その場凌ぎでもなんでもいい――――ご無事で本当によかったと、小さく吐息をついた。
 目を転じると部屋の隅に木之井君が座っている。徹夜明けのためかやつれて眼が真っ赤だ。
 それに雰囲気が違っていた。顔が白いのはいつものことだが、常にきれいに折り目正しく澄ましていた表層が、どことなく綻びている。その乱れた間から奥に流れるものが辺りに零れ出していた。
 正直言って―――――いささか見惚れ、圧倒された。長年の知己であった木之井君という人間の包み隠されていた資質を、今初めて知ったような気がした。
「様子は、どうだね」
 近寄って、努めて平板な調子で尋ねた。私は教師である。
「大事無いと思います」
「君は、大丈夫か?」
「ありがとうございます。平気です。
 ―――――博士」
「うん」
 私は立ったままだった。木之井君は座していた。おかしな構図だったと思う。
「博士の仰られたことがようやく分かりました」
 前髪の間から伏せがちに覗く彼のまつげを見ながら答えた。
「そうか。どう分かった?」
木之井君は静かに言った。
「『育まぬものに、前進はない』」
 体が浮き上がるような気持ちがして、覚えず僅かに、目を細めた。
 どうして分かってくれるのだろう。私はいつも不思議だ。子供達に教えるときにも思う。私は不完全で、あやふやな考えをもっている。幾何学とは違って、これは絶対に理解しなければならない真理ではない。拒否されても仕方がない。
 なのにどうして彼らは、いつも遂には分かってくれるのだろうか。
 この不思議は、数字と式の森へ分け入って行くのと同じくらいに面白い。また思うに、「奇蹟」に近い。だから私は日常をぼやきながらいつまでもいつまでも、教師をやめられないでいるのだ。
「僕は自分で、何もする気がなかったのです。それなのに、与えられたものには苦情ばかり言っていました。
 とても気持ちの悪い人間です。でもその悪さを知りませんでした。
 多分、自分が正しければいいと思っていたのです。藪柑子先生を尊敬しながら、僕は――――先生とは、似ても似つかぬ人間になって…。先生の、お命とご好意を貪っていたのは僕なのです」
「………」
 言うことは何もなかった。彼はもう辿り着いていた。うつむいた彼の頭を撫でてやりたい気がしたが、我慢した。
「博士、僕は――――、漢城に行ってみようと思います」
 朝鮮へ?
「母方の祖父が、いるのです。あちらで牧師をやっていて、毎年、葉書をくれます。春になったら、行ってみようかと思います」
「…そうか」
「はい」
 私は息を吸い込むとやっとのことで普通の声を出した。
「その頃には先生も快復なさっているだろうから、ご挨拶をして行くといいよ」



+




 おれたちは、だめだだめだ、祥平。
 学問して、学問して、
 をんな一人殺してしまった。
 人を殺す学問なんて馬鹿馬鹿しい。
 大学を戦場にし、文学を戦場にし、
 この世を戦場にするだけだ。
 そしてまたをんなこどもを殺して得意満面さ。
 さようならだ。
 おれは病人で、病気と以外戦争なんかしないんだ。
 だからそう、「然様なら」だ。




+




「…なんだこりゃ?」
 昼過ぎ、破れ靴君が手紙の山から一通、見舞いとは無関係なものを見つけ出して私のところに持ってきた。文部省からで、藪柑子先生に文学博士号を授与する旨が記載されていた。
 気が昂ぶっていたこともあるけれど、私は破れ靴君と顔を見合わせて笑った。一旦破顔すると勢いがついて二人してげらげら笑ってしまった。
 猫に袴を着させたような荒唐無稽な感じがしたのだ。それから藪柑子先生が本式に快復なさったときに、お話するネタが一つ増えたことを喜んだ。
 しばらくして廊下へ出るともう一日が暮れ始めていた。そこかしこに今しばらく留まろうとする冬の寒さが漂い始めていたが、遠く西を眺めてそれでも私は、春は近いと思った。





小西 豊松(猫)




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