- 藪柑子漫談 -

(三十四)それから





 この頃から、我々は変わり始めた。私は思うのだが、集団には寿命がある。殊に意識的な集団においてはそうだ。
 何かをするために集まり、結果が出れば盛り上がるが、その後当然解散するか否かを問われる段階になる。
 日本人は長く続く物語と長く続く関係性が好きだ。定めし私は、日本人的でないのだろう。
 だが解答は勝手に出るもので、意志で押し止めたり早めたりすることは出来ない。そして私はこの時、両腕に解答を抱きとめていた。
 主よ、満ち足りております。
と、古の耶蘇教の神父が言った。信仰につく底などないはずだが、そういう境地もあるということだ。
 いかに不義理で身勝手で方々に負債だらけでも、私はその時、満ち足りていたのであり、答えを得た我々は自然と、ばらけていったのである。




「先生! 先生!! まだご存命ですか!!」
 ――――と、意識が戻って二日もたって、いい加減みんなの気が抜けた頃に玄関へ飛び込んできた徳永栄一君は、その後、二三の小説作品をものしたが、最も華々しく売れたのはこの当時新聞に連載していた「清き罪業」である。
 彼自身の心中事件をモチーフにしたものであったから、当然読者はそこに書いてあることが現実に起きたことと信じたが、相手方の檜原千代子女史は「あんなものは嘘っぱちだ」と反駁していた。真実は「神のみぞ知る」だが、ともかく藪柑子先生門下でまともに小説を書けるのは自分だけだというのが彼の持論であった。
 名を上げた徳永君はやがて高等学校の教官になり、そこで紅梅君や我々の後輩廣井君などと同僚になった。しかしその後、学校の経営者と教師の間で教育をめぐる争い事が持ち上がった際、経営側について彼らと敵対してしまった。
 結局その一件は紅梅君らを含めた教師の大量辞職ということで形がついたのだが、思うに、彼は意外と争い事が好きなのだろう。心中と同じように事件を主題に小説を書く、と言っていたそうだが、十年経っていまだにその本を見ない。




 猫博士は先生の昏倒したあくる年、私達の大学の教官になられた。それでも変わらず藪柑子邸の面会日にはやっておいでで、楽な様子で新顔の学生らと酒を飲んでらしたそうだ。
 思えばこの方は小説も書きはしないし句もひねりはしない。だが、今考えると、藪柑子先生のことは言うに及ばず、我々のことも一番理解し尊重して下さっていたのは博士であったと思う。
 専門の数学においては数多の論文を出された。が、中にはおかしなのもあって、「猫の模様の研究 ‐白地と色地の面積比に見られる法則性について‐」 また或いは「達磨さんが転んだに於ける鬼と子供間の距離の研究」などといったものが、大真面目に混じっている。きっと出されたほうも困ったろうと思う。
 他に海外論文の翻訳も多く手がけられていて、この五月には念願の南米旅行からお戻りで、相変わらず、飄々とご活躍のご様子である。




 藪柑子先生は、大吐血の後、五年生きられた。その間に長編三本。短編八本を残された他、随筆や日記風のものがあって、そのほとんど全てが出版され、今も読まれている。
 昏倒後、文部省から送られてきた文学博士号の件について少し書こう。文部省は国の機関であるから、難しく考えれば、その博士号授与は勅命とも言えた。
 だがある程度回復なさった先生は、博士号のことを聞くと、破れ靴閣下に命じてそれを省へ送り返してしまわれた。
 夫人も困惑なさったそうだが、もっと困ったのは文部省だ。博士号を郵送で返されるなどと予想もしていなかった。それに多分、藪柑子先生という人は、そんな「非常識な」人だとは思われていなかったような節がある。先生は一般に真面目なえらい人だと言われていたからである。
 まさかあの人に限ってこんな真似をするなんて、と驚きつつ、文部省は再郵送してきた。
 博士号は授与するものであって、それを拒否して送り返すなどということは不可能である。素直に受け止め、短慮から栄誉に泥を塗ることは慎むようにという文書をつけて。
 先生はまた送り返した。欲しいとも頼まないものを人に勝手に送りつけておいて、受け取るのが当然というばかりかありがたがれとは何事か。
 さすがにもう文部省も送っては来なかった。しかし引っ込めたわけではなく、記録上は、先生は今も博士だそうだ。
 この騒動について、普通でない弟子達はにやにやしていただけだが、普通の者達の心中は複雑だった。お上が下さるものなのだから、黙って受け取っておけばいいのに、と大勢の者がひやひやしながら先生の依怙地を見ていた。
 城山書店の編集、箕尾君もこの件については実にものいいたげだったが、先生が「次の作品は、人の妻を盗んで結婚した男が、その妻との間に出来た最初の子供を、病気で亡くす話にする」と言ったことには、もう反対しなかった。
 先生が最初に小説を書かれて以来十余年、その形は繰り返し繰り返し蘇った。幾度捉えても捉えきれず、尚諦めても諦めきれぬ何物かが、先生を再思考に駆り立てていたのであろう。




 破れ靴氏は、未だに掴み所のない人物で、彼は一体何なのだろうか。絵描きといえば絵は描くが、それで食っていこうという気配はなく、別段不誠実でも与太者でもないが、一向落ち着くということでもない。
 私は彼を人に紹介するとき困る。何だと言って説明すればいいのか分からないのである。ただ、彼は面白い人だ。それは確かだ。
 面白さというものが、気取りもせず、型にもはまらず、ただ息をして、破れた靴をはいて歩いている。そんな感じの人物だ。
 今では滅多にお会いしないが、まだ東京においでだと聞いている。誰かがこの間人形町で見たと言っていた。藪柑子家の方々や、猫博士とは未だに交流があるようだ。
 その作品は時々とんでもない好事家のコレクションに入っていることがある。




 深山甲西女史は幾多の縁談を蹴り飛ばし、見事絵描きになられて、油絵といい、本の挿絵といい、ポスターといい、帝都のあちこちに作品が出回っている。
 ご本人もすこぶる元気で、目白にアトリエを構えて、何人ものお弟子さん達の面倒を見て、いつお会いしても大声で常に楽しそうだ。日本で賞もらったってつまんないわ、巴里にでも行きたいわ。青い目のガルソンを裸にしてさ、などと息巻いては、周囲の頭の固い人々をぎょっとさせている。
 ところで勝手に人をモデルにして作品を描かれるのは困りものだ。この間久しぶりに銀座に出たら、とある画廊の前で若い頃の自分の顔とガラス越しに対面して肝を潰した。
 苦情を言ったが、彼女は笑っているばかりだ。
タイトルは『青年A』であった。




 紅梅君については――――、藪柑子先生の大吐血の際、今思えば呑気にも喧嘩別れしたわけだが、その後の顛末を付け加えておく。
 あの日を境に、私達の力関係は逆になった。前は彼が私を追いかけて何かと話を振ってきたのに、今度はこちらが彼を探し回る段になったわけだ。
 学校で誰か一人の顔を求めながら生活するなんて、生まれて初めてのことだった。しかも相手はこちらを避けて、私がいると知れている講義は欠席していた。
 私は色んな学友に、彼の取っている講義を聞き出し、自分のそれは放り出して探し回った。
 話があったのだ。
初めて私のほうから彼に、話があった。
 同時に、なんて自分は勝手なんだろうと思っていた。今まで彼の好意を面倒くさいと思って無碍にしていたくせに、今はこちらの話を聞けというのだ。
 私は、わがままな人間だ。
自分のことなのに初めてそう気がついた。
 やがてそのわがままが実って、三日後、私は『昭光』編集室に程近い階段で、ようやく彼を捕まえることが出来た。
 とはいっても、彼は私の姿を見るなり表情を消し、身を翻して階段を下りていく。廊下の突き当たりから走らねばならなかったもやしの私はとてもでないが追いつけなかった。
 それで、手すりから身を乗り出して眼下に見える紅梅君の頭に呼びかけた。
「紅梅君! 話がある!」
 大声を出したのは初めてだったような気がするが、返事は単簡だった。
「わしにゃあない」
 講義時間中で、辺りには誰もいなかった。足音は止まらない。私は一段と身を乗り出し、声を張り上げた。
「僕は休学して漢城に行く!!」
「―――――」
 下駄履きが床を蹴るくぐもった音が止まった。ここぞとばかり欄干から身を離して彼を追いかけた。
 彼は一階分下にいた。階段の途中で、本を右手に持ち、左足を一段下へ置いたまま、私を見上げた。その後ろには窓があって、午後の陽を受けて硝子が白く光っていた。
「…どこに行くゆうた?」
「漢城。京城だ。つまり」
 紅梅君は口を開け、息を吸い込んだ。呆れたらしかった。それから体のバランスを崩して、なんじゃそりゃあ、と言いながら、背中を壁につけた。そして、組んだ両腕の上で顔をねじるようにして、私を見る。
「なんでそがいなことになるんな?」
「祖父がいるんだよ。母方の祖父だ。あそこで牧師をやってる。会いに行く」
「なら旅行か」
「…そうかもしれない。だが、そうじゃないかもしれない」
「…帰らんつもりか」
「………」
 私は、実のところ頭がもうあまり働いてなかったのだが、出来るだけ慎重に言葉を選んだ。
「…家族に、帰属する理由が、僕には乏しい。それでいて、一向離れようともしないでいた。
 もし祖父が、僕に何らかの仕事を与えてくれるなら、しばらく、考えるためにも、そこに留まってみたい」
「………」
 沈黙があった。紅梅君は顔を伏せ、考え込んでいた。僕は静かに彼のいる壁と反対側の欄干へ背をつけ、待った。
「――――お前はなあ」
 やがて、奥底に震えるものを押し止めている声で、彼が言った。潜められた眉の下で、黒い目が光っていた。
「なんで、わしらと一緒におった?」
 心臓が一度跳ねた。それから手が開き、汗が出た。全ては勝手に行われ、私は自分が焦っているのが不思議なくらいだった。
「お前は、確かに文科の学生じゃ。勉強もようできる…。じゃが、自分で何か表現したいもんがある、いうことじゃない。
 廣井や佐々原みたいに、海外文学に憧れておんなじようなもん書いてみたいいう類でもない。普通の、男じゃ。学校出たらあんま関係のない仕事をするような――――。
ただ『昭光』に携わっていたことを除いて。
 …そりゃ、お前が、何をしようとお前の勝手よ。気まぐれでわしらの仲間になっても、まあええじゃろう。
 じゃけど…、わしには分からん。お前が何を考えよるんか」
 私はわがままだ、ともう一度私は思った。彼をこれほど傷つけておいて、尚自分のことを考えよというのだから。
「お前は結局、何がしたかったんな。…わしのことはええ。徳永のことでもええ。友達を小馬鹿にして、笑うくらいなら、なんでお前―――――最初から独りでおらんかったんな。なんで集団の中へ入ってきた。
 自分から人の中へ入ってきて、その上人を信頼せんのは、ほんまの馬鹿のすることじゃ…。
 わしは何度も、お前が馬鹿なんじゃと思おうとした。…ほんまで? あの夜からずっと悶々として夜も寝られんかったわ。
 じゃけど、わしゃあ知っとる。お前は馬鹿じゃない。わしの友達じゃ。わしの仲間じゃ――――
 木之井。なんでじゃ。お前、なんで俺らの友達になった?
 その上、今度は急によそへ行くだのと…。わしには、着いていけん」
「………」
 また汗が出て、視界が動揺した。
本当のことを言ったら、世界が終わるだろうと私は思った。昔から、そう思っていた。
 母の死んだ理由。叔父が勘当された理由。私がいるとおかしなことが起こる理由。
 きっと本当のことを言ったら、何もかもお終いになる。
 言えば滅びることは分かっている。やめておけ。心音が縋りつくように鳴って止めようとしていた。
 でも、今更、本当のことの他に、私には言うことがないのだ。 本当のことを言わなければどうせ滅びる。そして私は死んだ世界というものがどんなものか、厭というほど、知っていた。
「僕は―――――」
そこへ戻る気はもうなかった。
「何としても、藪柑子先生と、関わっていたかったんだよ」
「―――――」
 沈黙の中で、紅梅君の表情が変わったのが分かった。僕のこの曖昧な言い方で、全てを察してくれたのかどうかは分からない。ただ、彼はしばらくたってから、落ち着いた声で
「ほうか」
とだけ言った。そこには責めるような調子も、怒ったような様子もなく、ただその言葉どおりを、受け取ったらしかった。
「ほんで、なんでよそへ行く?」
 私達は階段の中途で同じ段に立ち、それぞれ壁と欄干に背をつけて向かい合っていた。
「罰が必要だと思う」
「………」
「僕は少し、苦労をせねばならないと思う」
「………」
 ほうか、とやっぱり言って、彼は少し顎を引いた。
「そんなら――――、行って来い」
 その言葉を聞いたとき、覚えず、僕の口元はにこりとした。眉は歪んだままだったから、妙な面持ちになっていたと思う。
 世界は存続した。――――存続した。信じられなくて笑ってしまった。
 つられたように苦笑しながら紅梅君は、頭をバリバリ掻いて付け加える。罪に対する酬いは、じきにやってくるものだ。何も自分から自分を苦しめに行かなくてもいいとは思うが。
 それに答えて僕は言った。自分を苦しめるためではなく、考えるために行くんだと。ほとんど一人の知己もいない場所で、どうやって生きていったらいいか考えに行くんだと。
 問答の果てに、紅梅君はもう一度、そうか、それなら行って来いと言ってくれた。
 それから我々は湯島に、今回は酒を飲みに行った。ようやくほころびかけた梅の香りが満ちる夜の中で、その日我々はしたたかに飲んだ。
 君のような友達がいて幸運だった、と酔いに紛らわして私が言うと、彼は赤い鼻の頭に皺を寄せてお前馬鹿じゃのう、と言った。
 馬鹿じゃのう。馬鹿じゃのう。黒い目が光っていた。
なら漢城へなんか行くなや。
 紅梅君は卒業後高校の教官になった。折をみて小説も発表するといった忙しい生活を送っていたが、前に述べた事件が起きて、派閥争いに嫌気がさした彼は、きっぱり辞職してしまった。
 ただそれ以後教育が面白くなったらしく、子供向けの文芸誌を日本で初めて創刊して、現在も主幹を務めている。
 さすがに最近は段々方言が抜けてきたけれども、酒が入ると気持ちが若返って一緒に戻ってきてしまうそうだ。
 馬鹿じゃのう。馬鹿じゃのう、木之井。
そんな彼も、今は二人の息子の父親である。




 最後に私のことを書くが、私はあまり変わらない。
大学を休学して朝鮮へ行った。祖父は忙しくて仕事がたくさんあったのでそれをやらせてもらった。大学はその後自主退学の届を出した。
 三年後、現地のクリスチャンの女性と結婚して、一年後娘が生まれた。父の死を機に帰京して系列の教会で仕事をしつつ暮らしていたが、先の震災の折、妻子を喪った。全く罰というのは来るものである。
 私は未だに洗礼を受けぬ人間であるけれども、善良な人々であった妻子の昇天を神に祈っている。





木之井正吾




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