- 藪柑子漫談 -

(三十五)




 庭の梅が綻んで部屋の中にまで和えやかな香りが漂っている。外は晴天で、硝子越しに落ちた明るい光が病の床を暖めていた。
 まだ空気は涼しく、清らかで、吸い込むごとに肺の奥まで冷気が届くような気がした。
 布団の傍らには見舞いの手紙がうずたかく積まれている。みな懇切な心配の語に溢れている。自分は働くこともしないでのびのびと横になっている。
 陰謀も憎悪もなく、後悔も嫉妬もない。なんて素敵な瞬間なのだ。と、彼は思う。
 自分には本当に、これだけがあれば充分なのに。のんびりと、Time is moneyも博士号も知らず、静かに、黙って、人と和して、暮らしていたい。
 それだけの現実へ辿り着くまで、どうしてあんなにも失血と犠牲が必要なのか。未だに分からない。
 音もなく襖を滑らして、猫博士が入ってきた。粥の入った盆を持っている。
「先生、お御飯ですよ」
「…画伯はどうした?」
 毎日昼の膳を持ってくるのは彼の役目だったから、尋ねた。博士は枕の傍らに盆を置く。
「木之井君を送りに新橋に行ってます。木之井君、午前中挨拶に来たのですが、先生は眠ってらっしゃいました。覚えてらっしゃらないでしょうね?」
「――――いや」
 夢を見ていたような気がする。布団の側に、青年が一人で何も言わず、じっと座していた。背後からさす白い光の中に、埃が泳いでいた。
「一人だったかね」
「そのほうがいいかと思いまして、皆遠慮しました」
「………」
 青年は、最後に小さく呟いて、出て行った。たしか「さようなら」とは、違っていた。
「彼は先生をお慕いしていました」
 体を起こすのを手伝った後、椀を差し出しながら猫博士は言った。
「うん」
と、藪柑子先生は受け取り、白い粥を掻き込んだ。腹が空いている。もどかしいほどに、腹が空いている。
 あっという間に空にしてから、言った。
「それなら東京に、いればいいのに」
「………」
椀と引き換えに茶を差し出して、猫博士は目を細くした。
「ご迷惑になると思ったのでしょう」
「徳永ほどじゃないだろう」
「先生は、仙台にお越しになりました」
「――――…そうだな」
「そして僕らとお会いになったわけです。彼は先生の生徒ですよ。それは間違いないです」
 博士は笑いながら、盆の上に器を返す。
 すぐ横になる気になれず、そのまま布団の上で両手を組み合わせた。部屋は未だに明るく、穏やかだ。猫博士は目を伏せて黙って側に座っている。
「君が人生はこれからである」
 ぽつりと、かつて徳永に贈ったことのある一語を、遠く新橋の青年に呟いた。






 新橋駅には思いのほか大勢の見送りがあった。木之井はここから京、神戸を経て廣島は宇品から渡朝する予定になっていた。
 おおっぴらに宣伝したはずもないのに、大学の学生達にも彼の休学は知られており、『昭光』の関係者は言うに及ばず、それほど親しくもなかった学友までが駅のホームで争うように戸惑う木之井の手を握った。
 おかげで破れ靴画伯や紅梅、甲西らはかえって遠くからその有様を眺めているような塩梅だ。木之井は時々彼らの方を見て、「助けてくれ」と言いたげな目をしていたが、三人は妙な意地の悪さを発揮して一向構わなかった。
 そんな騒ぎのうちに汽車の時間はやってきて、学生らの喚声に見送られ、他の乗客ににこにこ見られながら、恥かしそうに木之井は乗車する。
 窓を開けて、彼は皆に向かって手を振った。だが声はとりわけ、三人の立っている場所へ届けられた。
「さようなら!!」
 それに応えて紅梅は微かに笑い、片手を上げた。そして汽車は、派手な車輪の音を鳴らしながら、もったいぶった重さで、構内から出て行った。
 後輩らの中には下駄でホームの端まで走るような元気者もいたが、三人はその場から動かずに、小さくなっていく彼の姿を黙って見納めた。
「行っちゃったね」
 五分もその場に立っていたが、やがて甲西が視線を振り切って、呟いた。
「悲しい?」
 なんとなく仏頂面を作って、紅梅は歩き出した。
「普通じゃ」
「いいのよ? 悲しいなら悲しいって言っても。わたし、誓ってそれをネタに絵を描いたりしないわ!」
「全然信用ならん」
「そうだね」
と、破れ靴氏。彼らは肩を並べて歩き、その後ろをつまらなそうに石を蹴る甲西が続いた。
「ちえー。男泣きとか期待してたのになー」
「言っとれ…。…破れ靴さん、これからどうします? わしゃあ昼飯食ったら、ちょっと学校へ用事済ましに行きますが」
「うーん。そうだなあ。僕は直接藪柑子邸に帰るよ、何だか、先生達が呼んでるようだから」
「…『呼んで』…?」
奇怪な顔をして見るも、画伯は素だ。
「うん。何か感じるんだよね」
「…そ、そうすか……」
 呼ばれているという彼とは駅前で別れ、残った二人は手近な飯屋に入った。男客ばかりの店だが、甲西は生き生きしたものだ。二人とも魚を食べた。
「今頃、どこらあたりかしらねえ」
 食べ終わって一息ついた頃、甲西が言う。すると、駅にいたときよりも素直に、紅梅の目元に寂しさが滲んだ。
「…熱海は、まだじゃろうの」
「木之井さんが廣島に行くなんて何だか変な感じね。当のあなたはこっちにいるのに」
「…そうじゃの。大層浮くじゃろうなあ、ああいうきれいな言葉を使うやつは…」
「私ねえ、木之井さんのこと、すごくすごく好きだったのよ。見てるだけで幸せだったわ」
「………」
 紅梅は膳の側に肘をついて聞いていた。その横顔はこのような率直な言葉を使うことの出来る度胸に、密かな羨ましさを覚えているようでもあった。
「もっと近くにいて、色んな木之井さん見てたかったけれど、しょうがないわね。本人が決めたことなんだもの。寂しいけど…」
「…あいつは、自分のことばっかりじゃったよ…」
手の上で、顔を横に倒しながら吐き出した。
「いつも、常に、絶対に、自分のことしか考えよらんかった。自分勝手いうより、他人が生きとるいうことがどういうことか、よう分かっとらんようなところがあった…。
 それが、やっと、自分よりも大事なもんのために、動き始めたんじゃ。…それでええのよ。たとえ…」
「その対象が自分でなくとも?」
 小さな間の中で、二人は見合った。しかし、紅梅はこの時には逃げず、苦笑いしながら、肯定した。
「ほうよ…。わしでもないしお前でもない。でもええじゃないか、そんなこと。
 生きとりゃええわ…。とにかく、どこかで生きとりゃええ。わしはそれで安心して、ひたすら自分の仕事をするだけのことよ。
 あいつが嘘つかずにがんばるけえ、わしもがんばるんじゃ。互いに何も言うとりゃせんが…、あいつも、そう思うとるはずじゃ。
 これでええんじゃ。仕方がないとかじゃあない。わしら、ようやっとほんまの仲間になったんじゃ。じゃから、距離は離れとっても、わしは別段、寂しゅうはな……」
 突然、甲西が前後に揺れだした。これは危険な兆候であって、思わず本気になって話していた紅梅は我に返り、卓から体重を取り返した。
「ねえねえねえ、友達に耽美な絵を描く人がいるんだけど」
「お前のも充分耽美じゃないか…」
「もっとすごいの!!」
「………」
「今度、引き合わせるから、モデルになってよ! 木之井さんのはしょうがないわね、私の習作がたくさんあるから、それで何とかしてもらって…」
「…何を」
「素敵! 素敵過ぎ! 何なのその信頼感!! 以心伝心ってやつ?! しかも距離を隔てても通じる思いなんて、草子の世界だわ!!
 やだもうちょっとたまんない!! さてはあなた私を殺す気なんでしょう!!」
 周囲の視線も痛くなってきたので立ち上がった。勘定を済ませ、おかしな動物を連れているような恥かしさを堪えながら絶好調な甲西を往来へ連れ出す。
 その後も続く妄想話に、顔を赤くして汗をかきながら、紅梅の口元からはどういうわけか笑みが消えなかった。勿論甲西も、笑ってばかりだ。
 二人は奇妙な虚無と充足と、寂しさと連帯とを同時に味わいながら歩いた。胸に広がり答えであって答えでないそれは丁度、青空に似ていた。






「退屈だなあ、どうにも…。何かおやつが欲しい」
「先生、お体の状況が全然お分かりになってませんね」
「アイスクリームもダメか?」
「本当に甘党ですよねえ。虫歯がひどくなりますよ」
「………」
「拗ねないでください」
「………?」
「おや、どこかから『とうりゃんせ』が…」
「子供らが歌ってるんだろう。もっと明るい歌を歌えばいいのに。この歌は怖いから嫌いだ」
「僕は大好きですが。『行きはよいよい帰りは怖い』あたりが特に」
「鬱々とするよ。横断歩道で聞くのも嫌だ。青信号の時の音楽、この曲がやたら多いだろう」
「…あ、また悪い話します?」
「退屈だから付き合え」
「はあ」
「石油屋がトラックで灯油を売りに来るとき、『月の砂漠』をかけてくるんだが、憂鬱なんだよ、あれを聞くだけで。夕方のサイレン代わりに『あかとんぼ』流す役場もあるが、あれも嫌だ。
 どうしてみんな短調のどろどろした曲ばかり選ぶんだ。怖くてかなわん」
「こんな話してたら破れ靴君が飛んで帰って来るな」
「………」
「………」
「…好きなのは『怪獣のバラード』だ!!」
「あ、言わなきゃよかった」
「君、ハミングでいいから歌え。本当に飛んで帰ってくるかもしれん」
「先生、いい加減お行儀よくお願いしますよ…」









[ 藪柑子漫談 ]





出演

藪柑子先生
猫博士(小西豊松)




「呼ばれてるなあー」
破れ靴閣下




「箕尾君、藪柑子先生の全集はどうだろう。この徳永栄一が編纂委員を務めるから…!」
「………」

徳永栄一
箕尾氏


檜原千代子



「じゃあ木之井さんを女性にして、名前はマサコさんで、
それで恋愛小説!」
「書けるか!!」

深山甲西
高田紅梅



藪柑子夫人
八重子
結城夫人
東金教授





 風の渡る船の甲板の上で青年は、遠ざかっていく小さな祖国の影を、光る目でいつまでもいつまでも眺めていた。




木之井正吾



東金郁緒





by Shido Isana
2005/07/04-2006/03/26










<< 戻る 藪柑子漫談 次へ >>